3
ああ、これは正真正銘、良かれと思ってが空回りしたパターンだ……。渉はとたんに申し訳ない思いに駆られ、野乃に腕を引かれながら、しゅんとなる。野乃が嬉しくなければこんなのはいい迷惑にしかならないのだ。なんとなく顔も知らない三川さんに対して安易な気持ちで踏み込もうとした三日前のことが重なり、気分はずんと沈み込む。
「ごご、ごめんね……。こういうの、迷惑だったよね……」
昇降口に入ると、そこは外の陽気とは打って変わって涼しかった。やっと足を止めた野乃は、渉の腕を取ったまま「はあ……」とため息を吐き出し、顔を俯けたまま、
「……いえ、あの様子じゃ来るとは思ってましたけど、ちょっと早くてびっくりして」
まだ多少気が動転しているのだろう、上ずった声で言う。
「いえ、今の言い方は失礼でした。お弁当、ありがとうございます」
しかしすぐに言い直した野乃は、そこでようやく渉の腕を取ったままでいることに気づき、目にも止まらぬ速さで手を離した。思いがけず引っ張ってきてしまったがこれからどうしよう、とまた気が動転しはじめたことが手に取るようにわかる。
「お弁当も渡せたし、俺は店に戻るよ」
「え?」
「面談でもないのに校舎に入るわけにもいかないし、委員の仕事の邪魔になっちゃ悪いでしょう。ちょっとだけしか様子は見られなかったけど、野乃ちゃん、いい顔して仕事してたし。まだ早いけど、午後も頑張って。ムカデ競争とか、目玉競技は午後だもんね」
「――」
「?」
ところが、そう言って踵を返そうとすると、野乃の手がシャツの裾を掴んだ。振り向くと、俯いたままの野乃が「三日前のことがきっかけで、三川さんが浮いちゃって……」とか細い声で言った。「今日も学校には来てるんですけど、校庭にはいなくて」
私が三川さんの気持ちに気づいていながら、うまく汐崎君と距離を置けないから……。まるですべて自分のせいだというように声を震わせ、すん、と鼻をすする。
詳しく話を聞くと、もう一つの女子グループが、三川さんはわがままが過ぎると文句を言い出したのがはじまりだったという。クラスの雰囲気を乱して何様のつもりだと、ムカデ競争の練習の場でもう一つのグループが鬱憤を吐き出し、それを聞いていたクラスの人たちの中でも、三川さんを非難する声が上がりはじめたのだそうだ。三川さんのグループは当然彼女を擁護したが、最終的にはしばらく待っても戻ってこなかった彼女を庇いきることはできなかった。翌日には、彼女の属するグループの友達も含め、三川さんを見るクラスの目が一変してしまい、それでもなんとか放課後のクラス練習は元樹君が「今日で練習できるのは最後なんだし!」とみんなを盛り上げて行えたのだけれど。
当日の今日になっても三川さんへの風当たりは厳しく、そんな空気に耐えきれなかった彼女は一人教室に留まり続け、誰も迎えに行くことはないのだという。
「汐崎君なら放っておくわけないんですけど、委員の仕事が思ったより過密で、朝からずっと休みなく動いてるんです。自分の競技もあるし、その合間を縫って三川さんを迎えに行こうとすると、ほかの男子に止められてるのも見かけたし……」
「そっか。それで野乃ちゃんは、昨日は疲れた顔して笑ってたんだね。準備で忙しいんだとばかり思ってたけど、クラスでそんなことがあったなんて」
「はい。だからこれは、汐崎君とうまく距離を置けない私のせいなんです」
弁当をぎゅっと握りしめて。小さくなって。野乃は言う。
「汐崎君を無理に追い払っても、結局は何か言われていたはずですけど、こんなふうにクラスの中心だった子が一日のうちに弾き出されるよりは、ずっとずっとマシです……」
「――野乃ちゃん、それは違うよ!」
それを聞いて、渉は思わず野乃の肩を両手で掴んでいた。自分で思っていた以上に大きな声が出ていたようで、野乃はビクリと肩を震わせ渉を見上げ、そのわずかな間に渉の声の残響が昇降口にこだまして消えていった。
「ごめん、急に大きな声を出してしまって……。でも、これは絶対に野乃ちゃんのせいじゃない。三川さんのことはよく知らないから、なんとも言えないけど。でも、そうやって自分さえ我慢したり耐えたりしていれば丸く収まると思ってる野乃ちゃんは、今だけは筋が通っていないように俺には見えて仕方がないよ」
「で、でも……」
「本当はどうしたいのか、野乃ちゃんが思うようにやっちゃいなよ。もしそれで何かあっても、元樹君と嘉納さんは野乃ちゃんのそばにいてくれるはずだから。俺ね、そういうのもわかるの。俺は、野乃ちゃんが後悔のないように動けたら、それだけでいい。そう言う子だって俺は思ってる。体育祭はみんなで楽しまないと。……でしょう?」
「……」
畳みかけるように言うと、野乃はしばらく黙り込んだ。小さくて柔らかなその頭の中では、きっと様々なことが凄まじい速さで駆け巡っているのだろう。その中にはもしかしたら、考えたくないこと、思い出したくないことも含まれているのかもしれない。例えば前の学校で何があったのかとか、不登校になったわけとか、話したくないこと、話せないこと、ずっと一人で抱え込むしかなかったこと。そのことと今回の三川さんのことで重なる部分も、もしかしたら渉が思う以上に多いのかもしれなかった。
「ねえ、野乃ちゃんはどうしたい?」
「……わ、私は――」
それでも野乃が「今日も学校には来てるんですけど、校庭にはいなくて」と渉に言ったということは、野乃は渉に背中を押してもらいたかったんだろうし、そもそも彼女を嫌っていたら出てくるはずのない台詞だと思う。そばにいられると苦しいのは、それだけ元樹君や嘉納さんに愛情を持っているということ。予防線を張るのは、自分が傷つかないためではなく、不用意に相手を傷つけないようにするための野乃の精いっぱいの強がりだ。
「うん。ゆっくりでいいよ。言ってみて」
「私は、三川さんを……」
自分の胸の内は明かさないのに野乃にだけそうさせるのは実にアンフェアで姑息だ。それは痛いくらいにわかっている。でも、もう少しで野乃の中に張った薄氷が溶けていくような、そんな気がしてならないのだ。今なら。あるいは、今しかないのかもしれない。この偶然預かることになった野乃と一緒なら……。渉も、その人の最後の顔を脳裏に思い浮かべながら、自分の中にも張っている氷にヒビを入れはじめる。
そうしていると、野乃の目が昇降口の向こうに伸びる廊下に走った。
それとほぼ同時に、わずかに右足が前に出る。
「私、三川さんを迎えに行ってきます……!」
「うん、いってらっしゃい」
そこからは、本当に早かった。乱暴に靴を脱ぎ捨てた野乃は、靴下のまま校内に入っていく。少しすると上の階から声が響いてきて、その声がだんだん大きくなっていった。どうやら野乃は、三川さんを無理やり外に引っ張り出そうとしているらしい。何を話しているのかまでは聞こえないが、響いてくる野乃の声ではない声の調子は大いに戸惑い、頑なに嫌がり、隙あらば逃げようとしている感がとてもよく窺えるものだった。
「うぇっ⁉ 渉さん⁉」
とそこに、タイミングよく元樹君が現れた。その後ろには嘉納さんの姿もあり、驚いて目を丸くした二人は、どうしてここに渉がいるんだろうという顔をした。しかしすぐに上の階から徐々に近づいてくる声に気づき、顔を見合わせる。
「今日は寝坊しちゃって野乃ちゃんに弁当の用意ができなかったから。俺はそれを今届けたところで、野乃ちゃんは上にいる。たぶん、二人が思ってることと一緒のことをしてるんじゃないかな。片づけまで終わったら、今日は四人で店においで。じゃあね」
そうして渉は、さっきの野乃と同じように靴下のまま校舎に駆け込んでいく二人に背を向けて歩き出した。校庭では次の競技が行われていて、先ほどの教師に一声かけると、ライトバンに乗り込み五分の道を恋し浜珈琲店に向けて戻る。
今頃、三川さんは、野乃に加勢に来たあの二人を見て観念している頃だろうか。三川さんの行動はけして褒められるものではなかったけれど、そんな彼女を気遣い、心配し、ああして迎えに来た野乃たちの気持ちは、伝わってくれるといいなと渉は思う。
「……俺も、そろそろちゃんと向き合わないとな」
渉は誰にでもなくぽつりとこぼし、ハンドルを握り直す。
思い出すと胸が苦しくて、どうしようもなくて、でもあのときはああするしかなくて、それでも思い出さない日はないし、後悔しない日もないけれど。止まったまま動き出せずにいた渉のもとに野乃という一人の女の子が現れ、店に訪れる失くした恋を抱えた人たちに正面から向き合い、最良の形を模索している姿は、もう止まっているとは言い難いものとして渉の日常の一部に組み込まれてしまっているのだ。
野乃があの日、怒りながら言っていた。
――父も母も、渉さんがどうしてここでコーヒー店をやっているか、本当のところは知らなかった。そのことを、今ならきちんと話せると思う。
夏の雰囲気さえ感じさせる青空のもと、渉のライトバンは恋し浜海水浴場の近くの道路に少しだけ寄り道して、それから店へと戻っていった。
*
その日、夕方遅くになってようやく、野乃、元樹君、嘉納さん、そして三川さん――三川
「三人にはまたアイスコーヒーで悪いけど、ゆっくり飲んでいって。三川さんもどうぞ遠慮なく。ミルクとガムシロップはお好みでね。はい、今日はシロップ多めの籠です」
「わあ、ありがとうございます。私、うんと甘くしないと飲めなくて」
籠に山盛りのシロップに、嘉納さんがへへへと笑う。
「うん、この前も全部で三つ入れてたしね。補充しておいたほうがいいなと思って」
「にしても、これはさすがに盛りすぎですよ、渉さん……。俺らにどんだけ糖分摂らせるつもりなんですか。まあ、疲れてて甘いものが恋しいからいいんですけどね」
「ごめんね、うちではスイーツ類は置いてないからさ。一人で籠に盛ってて、さすがにこれはまずいなーと思ったんだけど、やってるうちに楽しくなってきちゃって」
「ふはは。子供ですか。……っとにもー」
するとそこに、元樹君がすかさずツッコミを入れる。昼間のうちに、帰る用意ができたら連絡を入れてほしいと野乃にはスマホにメッセージを送っていた。自転車を漕げばそれほどの時間はかからないが、歩いてくるとなると、やはりどうしても遅くなってしまう。帰宅時間の目処を立てるためと、店に来たらすぐにコーヒーを出せるようにと思い、渉はあらかじめ時間を逆算して滞りなく準備を終えていたのだ。なので、四人が席に着くなりささっとコーヒーを出せたというわけだけれど――。
「……野乃ちゃん?」
「あ、いえ。ずっと忙しかったから、全部終わって、なんか魂抜けちゃって」
「そう……? じゃあ、今夜は早めに寝るといいよ」
「そうですね、そうします」
「……うん」
きっとどういうわけでここに連れてこられたのかわからないだろう三川さんが、一言も喋らないのはまだしも、野乃がどこか心あらずな様子なのが、少し気にかかる。
野乃さえよければ、三人が帰ったあと、少し昔の話をしようと思っていたのだけれど、どうやらそれは今度の機会に見送ったほうがいいのかもしれない。見ると野乃は本当に疲れている様子で、今さらながら、なにも今日に四人で店においでと誘わなくてもよかったのではないかと、昼間の格好つけだった自分を大いに恥じる渉である。
そんな調子なので、渉はすごすごとカウンターの奥に引っ込むことにした。席におじさんが混じっては、きっと話せるものも話せない。特に三川さんは、クラスのみんなに対して精神的につらい思いをすることが多いここ数日だったはずだ。そんなところに部外者が混じってしまってはいけない。在庫の整理をしよう、とさらに奥へと引っ込む。
「さて、全部聞いてやるから話してみろ」
そう言って話の水を向けた元樹君の声を最後に、しばし店内には四人の高校生が残った。
しかし、程なくしてコンコンと外側から控えめなノックの音が響いた。「どうしたの? お代わり?」と尋ねながらドアを開けると、
「渉さんにもいてほしいって三川さんが……あの、彼女の好きなコーヒーを淹れてあげてもらえませんか? ラテアートのカフェラテが好きなんだそうです」
「……うん、わかった。デザインは何がいいって?」
「クマちゃん、って」
「よし。ちょっと頑張ってみるから待ってて」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
店内に呼び戻しにきた野乃に軽く笑って、渉は再度、カウンターの中に立った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます