カフェラテを淹れながら、ちらちらと漏れ聞こえてきた話では、どうやら三川さんは野乃や嘉納さんの前で元樹君にフラれてしまったらしい。さっき倉庫に呼びに来た野乃の表情がひどく沈痛だったのは、三川さんの失恋を目の当たりにしてしまったからだろう。もっとも、渉にコーヒーを淹れてほしいということは、つまりそういうわけで。三川さんはハンカチで目元を拭い、隣に座っている嘉納さんが彼女の背中を優しく撫でている。

「……ごめん、あんまりこういうの得意じゃないんだけど、みんなでどうぞ」

 そう言って席にクマのイラストを描いたカップを運ぶ。得意じゃないなんてもんじゃない、ラテアートをしようだなんて少しも考えたことがなかったので、かなり不細工なクマちゃんになってしまい、もうなんとお詫びしたらいいか言葉も浮かばない。というか、それ以前にクマの原形を留めているのかさえ怪しい出来栄えだ。面目ない……。

「……」

 案の定、運ばれたカップを目にした四人は声も出ない様子だ。揃いも揃ってじっとミルクの泡の上に描かれた何かの絵を凝視し、どうフォローしようかと言葉を探している。

「だ、だから野乃ちゃんには言ったんだよ、ちょっと頑張ってみるから、って」

 たまらず自虐的な台詞で間を繋げる。野乃は遠慮がちに顔を上げ、

「……そういうことだったんですね。なんというか、これ……」

「クマじゃねーし。そもそも、イラストでもねーし」

 気遣わしげな野乃の言葉尻を引き継ぎ、元樹君が単刀直入にぶった切った。

「ですよね……はは」

 その通りでもう何も言えない渉は、今度来るときまでに練習しておきます……と尻つぼみ的に声を小さくしながらカウンターの中に逃げ帰るしかなかった。

「……ふっ。でも、今の私にはぴったりじゃん。見た目はともかく、味は宮内さんのお墨付きなんでしょ。有難く頂くよ。ありがとね、ここがそういうお店だって教えてくれて」

「ううん、温かいものを飲むと少しは気持ちも落ち着くかと思っただけだよ」

「そうだったとしても、教えてもらわなかったら、こんなに先鋭的なラテアートなんて見られなかったんだし。今日のこともいろいろ感謝してる。それから、今までごめん」

「先鋭的って……まあ確かにそうだけど。うん。そのことなら大丈夫。最初からわかってたから、可愛いもんだったよ。気分のいいものではなかったけどね」

「だよね。ほんと、みっともなかった。おかげで友達もなくすし、自業自得だよ」

 カウンターでコーヒー豆や使った器具の後始末をしていると、失笑した三川さんと野乃の会話が聞こえてきた。三川さんはもうすっかり毒気が抜かれていて……いや、渉の先鋭的なラテアートもどきを見て笑うしかなくなったようで、店に入ってきた当初よりずいぶんと雰囲気が丸く、ライバル視していた野乃にも砕けた言葉遣いをしている。そんな二人を見て嘉納さんもクスクス笑い、女子三人の空気は柔らかい。

 ただ、その向かいにいる元樹君だけは、そういうわけにもいかないようだった。さっきの鋭いツッコミはすっかり消え去り、じっと俯き、所在なさげにそこにいる。

でも、それも無理もない話だった。たとえ少しずつ気づきはじめていた可能性はあったにしても、面と向かって告白され、その場で断ることになったのだ。あれから元樹君はずいぶんと三川さんのことを考えただろう。どうしてああいう行動を取ったのか、その意味を真剣に考えただろう。それでも元樹君の気持ちは動かなかったのだ。自分のせいで女の子が泣いた。でもどうすることもできない。……ひどく心を痛めているに違いない。

 元樹君は以前、珠希さんや拓真君、それに今は亡き弘人さんにまつわる失恋話の際、今は親父の漁を手伝うのに夢中で、誰が好きとか、そういうのはあんまり考えらんないし、と言っていた。あれからそういくらも日は経っていないのだから、三川さんの思いを知っても、そうすぐには恋愛面に気持ちが向くとも、なかなか考えにくかった。

「ていうか、汐崎はここに居にくいよね。あれだったら、帰ってもいいけど」

 すると三川さんが元樹君に声をかけた。はっと弾かれるようにして顔を上げた彼は、自分を見つめる女子三人の視線にたじろぎながらも、カフェラテのカップに手を伸ばす。

「いや、いい。俺も男だし、なんなら俺の悪口も好きなだけ言えばいい。……今はそれしかできねーもん。煮るなり焼くなり、三川の気が済むまでなじってくれ」

 しかし、その威勢のいい言葉とは裏腹に、少しだけ元樹君の手が震えているのを渉は見逃さなかった。ぐっとカフェラテを煽り、どんとこい、と言わんばかりに腕組みをするのだけれど、その背中はやはりどこか弱々しげに感じられて、渉は苦笑する。

 と。

「バカだね」

「うん、目も当てられないバカだね」

「強がらなくてもいいんだよ、汐崎君が一番気まずいのはわかってるし」

 女子三人がそれぞれに口を開いた。言わずもがな先の二言は三川さんと野乃によるもので、嘉納さんは優しさ溢れる気遣いの言葉を口にする。

「バカってなんだよ……。もう外も暗いんだし、三川と嘉納を家まで送ってやんなきゃいけねーんだよ俺は。お前らものんびり喋ってねーで早く飲め。泡が消えたらラテアートでもなんでもなくなるんだぞ、こんな二歳児みたいなわけわからん絵なんて」

「ふっ。私、汐崎のそういうとこ、いいなーって思ってたんだよね」

「ていうか、渉さんの絵を貶すのはやめてくれる? せめて三歳だよ、これは」

「野乃ちゃん、それ……くふっ、あんまり変わらなくない?」

 ところが、いくら元樹君が虚勢を張っても、野乃たちにはただ面白いだけだったようだ。三人で顔を見合わせるとケタケタ笑いはじめてしまい、元樹君も渉も言葉を失くす。

 余談だが、渉は昔から美術だけは本当にダメだった。料理もそれなりにできるしコーヒーも淹れられる、家事全般もわりと得意で、ボタンの付け替えくらいなら自分で何とかでき、手先は器用なほうだと思っているが、どうしてだか絵も物作りも本当に下手くそで、美術の成績はいつもお情けで五段階評価の3をもらっていたくらいだ。だからクマのイラストが壊滅的に先鋭的だったのだけれど。野乃も嘉納さんも、なかなかひどい。

 しかし、もっとひどいのは、一番初めに二歳児並みの画力にたとえた元樹君である。潔くて清々しい子だなと感心していただけに、その評価はダダ下がりだ。

「渉さーん。野乃たちがこんなこと言ってますけど、言わせといていいんすかー?」

 でも、どうやら元樹君も少しずついつもの調子を取り戻してきたようで、カウンター内にいる渉を振り向いた彼の表情は、それほど硬いものではなかった。

「こらこら、先に二歳児って言ったのは元樹君でしょうよ。今までサービスしてきたコーヒー代、今まとめて払ってもらってもいいんだよ?」

「うげっ……」

 渉が冗談で脅すと、元樹君は顔をしかめ、野乃たちはまた笑う。

 今は元樹君や野乃たちに余計な心配をかけまいとして明るく笑っている三川さんも、きっと一人になったら失恋の痛みに泣いてしまうのだろうけれど。それでもせめて、今だけは。同級生として、クラスメイトとして、この輪の中にいてくれたらいいなと思う。

 今回の騒動で彼女が失ったものは、けして少なくない。けれど、得たものもあったはずだ。野乃にも、元樹君にも嘉納さんにも、それはきっと等しい。

 渉は考える。これからの彼らについて。野乃について。自分について。

 仲良く笑い合う高校生四人の姿をカウンター内から目を細めて眺めながら。自分でもどうしたもんかと思うほど散々な出来のラテアートを飲みながら。


 やがて、コーヒーカップが空になった頃。宣言通り、元樹君は三川さんと嘉納さんを連れて店を出て行った。さっきの腹いせのつもりだったのだろう元樹君は、わざと大きな声で「ごちそーさまでした」と言って出て行き、勝ち誇ったようにニヤリと笑っていた。

 三川さんと嘉納さんは慌てふためきながら財布を取り出そうとして、渉も慌てて二人を止めた。「ツケにしておくよ」と冗談めかして言えば、二人は揃って「ありがとうございます」と頭を下げ、「まだかよー」と急かす元樹君の姿を追って帰っていった。

 残ったのは、渉と野乃。

「早めに寝なよとか言っておきながら、結局は二杯も飲ませちゃって悪かったね。残してくれてもよかったんだよ。俺の絵の下手さにも驚いたでしょ」

 カップを下げるのを当たり前のように手伝ってくれる野乃に苦笑する。まあ、絵の上手い下手は今は脇に置いておくにしても、実行委員の仕事で忙しかったここ最近だ、それからやっと解放され、三川さんとも和解できた今日くらいは、ハーブティーなど心の休まるものを淹れてあげるくらいの気遣いがあってもよかったと、今さらながら反省している渉だ。といっても、そんな洒落たものはこの店にはないのだけれど。

「いえ、帰ってきたときの渉さんの様子が、いつもと少し違ったように見えたので……。絵はまあかなり個性的でしたけど、ガムシロップを山盛りにしたり、饒舌だったり、ちょっと渉さんらしくないなって思って。それでぼーっとしちゃったっていうか」

 しかし野乃は、若干躊躇いながらも、ズバリ核心を突いてくる。カチャカチャとカップを洗う音が店内に響く中、野乃は渉の横に立って布巾を持ち、泡を流し終わったカップを拭く準備を万端整えていた。やはり野乃は、人の心の機微に敏感すぎるくらいに敏感だ。それは渉も例外ではなく、この子には誤魔化しは一切効かないなと渉はまた苦笑した。

「そっか。やっぱり野乃ちゃんの目は誤魔化せなかったか。……うん、そうだね、気を紛らわすために、いつもはしないことをしたり、口数が多くなっちゃったりしたんだよ」

「……何かあったんですか?」

「ううん、何もない。もうずっと、野乃ちゃんが来るまでは何もなかったよ。だけどこの前、無理にいろいろ聞き出そうとして怒らせちゃったでしょう。それで俺自身の気持ちに変化があったというか。……話したくないことは、俺にもあるから。でもそれじゃあ、いけないと思ったんだよね。ずるかった。本当に。あのときはごめん」

 言うと、野乃はしばし考えるように黙り込んだ。その間、何個か洗い終わったカップが野乃の手元に渡る。でも結局、いくら推察してもこれしか言葉が見つからなかったようで、

「……それ、は、渉さんの……失くした恋の話、ですか?」

 おずおずと、本当におずおずと、そう尋ねた。

「そうだね。この店がオープンする前、一時期ここに、もう一人住んでいたことがある。その人の名前は、小湊知世こみなとちせ。ある日突然、簡単な荷物だけまとめて、飼っていた猫を連れてどこかに行っちゃったんだ。今も連絡はない。そんな、俺の恋人だった人」

 隣で野乃がはっと息を呑むのがわかった。カップを拭く手も止まり、ピクリともしない。

 ここまで詳しく話してくれるとは思っていなかったのだろう。どう言葉を返そうかと必死に頭を巡らせている空気が隣からひしひしと伝わり、その気遣いが胸に痛い。

 それでも渉は、数秒か、十数秒か、とにかく間を空けると再度口を開くことにした。

「どうして彼女は突然いなくなっちゃったんだろう。――この謎、野乃ちゃんに解いてほしいんだ。二年経った今も、俺にはさっぱりわからないから。お願いできないかな?」

 野乃は、

「……私でいいんですか?」

「うん。野乃ちゃんがいい」

「でも私、まだ子供で。それに、ここに来た理由もまだ……」

「そんなことはいいんだよ。野乃ちゃんはもうちゃんとしてる。自分でいたいと思う場所を選んでるんだから、俺なんかよりよっぽど大人だよ」

「逃げてきたって思わないんですか?」

「全然。それとも、ここに来たことを後悔してるの?」

「してません! してないです、一つも!」

「じゃあ、いいじゃん。野乃ちゃんにはこの環境が合ってるんだよ」

「でも……」

 そうしてたっぷりの質問と、たっぷりの答えを探す間を取ったあと。

「じゃあ、私も話します。そしたら二人でコーヒーを飲みましょう」

 切なく笑って、小さく頷いてくれた。

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