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とはいえ、野乃は本当に疲れていたようで、急いで晩ご飯の支度をしている数十分の間に眠たそうにぼーっとしはじめ、それでもなんとかエネルギーを補給すると、今度は満腹感も手伝って「少し部屋で休んできます……」と二階へ上がったきり、なかなか降りてこなかった。様子を見に行けば、ジャージ姿のままベッドにうつ伏せに沈み込み、穏やかな寝息を立てている。本当によっぽど疲れていたのだろう。渉は、ふふと微笑みながら野乃に布団をかけてやると、電気を消し、そっと部屋のドアを閉めた。
体育祭は金曜日で、月曜日からはまた通常通りの授業だ。しかし野乃は、体育祭の翌日から熱が上がってしまい、土日の休みを寝込んで過ごすことになってしまった。
甲斐甲斐しく世話を焼く渉に野乃はしきりに恐縮したが、思えば新しい環境に慣れたり人間関係を築いたりするだけで精いっぱいで、今まで相当無理をしていたのだろう。月曜日の朝になっても熱が下がらず、その日は学校を休ませることにした。
学校が終わる時間になると、野乃を見舞って元樹君と嘉納さん、それに三川さんが商店街にある青果店の袋を下げてやってきた。バナナ、桃、さくらんぼはちょっと手が出なかったそうでアメリカンチェリーを差し入れてくれて、その頃には熱もだいぶ引き、今日も閑古鳥が鳴く店内で座って過ごせるようになっていた野乃は、彼らの突然の訪問や見舞いの品に目をまん丸にして驚き、次いで自分のぼさぼさの格好に大いに恥ずかしがった。
「熱で寝込んでるって聞いたから、どうしてっかなーと思って来てみたんだよ」
「今までの疲れが一気に出たんだね。野乃ちゃん、頑張ってたから」
いったん着替えて戻ってきた野乃は、そう言う元樹君と嘉納さんに照れ隠しからか「今私、お風呂に入ってなくてめっちゃ臭いから近寄らないで」と言う。二人はそんな野乃にクスクス笑い、三川さんは「臭いのは普通」と、わざと野乃と距離を詰め、野乃の隣の席を強引に確保する。最初はぎょっと目を剥いていた野乃も、しかし最後には笑うしかなくなり、「仕方ないなぁ……」とまんざらでもない様子で苦笑した。
頂いた果物と、三人にはブレンド、野乃にはミルクたっぷりのココアを出すと、各々、ありがとうございます、と言った彼らの話題は、早々に学校のことに移っていった。
やはり三川さんへの風当たりは、依然厳しいものらしい。
でも彼女は、
「もう間違えないよ。あの子たち、自分たちがハブいたからって今度は宮内さんや嘉納さんと仲良くするんだ、とか絶対言ってると思うけど、私が間違えたんだもん。何を言われても文句を言える立場じゃないって、ちゃんとわかってる。クラスのみんなにも謝って、それで許してもらえるとは思ってないけどさ。でも、こんなわがままな私を見捨てないでいてくれた三人のクラスメイトがいたってことは、大人になっても忘れないと思う」
清々しい笑顔で言い、くるんと上を向いた彼女のまつ毛と同じように、しっかりと上を――前を向き、これからのことを、そう締めくくった。
「でも、つらくなったら言えよ? 近くにいるのに頼ってもらえないのもつらいし」
「そうだね。そのときはクラスメイトとして助けてもらうよ」
元樹君の気遣いに、そう淀みなく答えた三川さんは、この土日でもう完全に吹っ切ったのだろうか。どう告白したのか、どんな告白の言葉を選んだのか、間近で聞いていた野乃は渉には話してくれなかったけれど。でも元樹君がふっと笑って「そうする」と言ったから、きっと、告白した側も、された側も、これから育まれるだろう友情の間にもうそのことは持ち込むつもりはちっともないのだろうことだけは、渉にもわかった。
「渉さんも一緒に食べましょうよ」
席から野乃が声をかけると、残りの三人も一斉に渉に微笑む。渉はいつものように眼鏡の奥の瞳をふっと細め、「じゃあ、ご相伴に預かりましょうか」と四人のもとへ向かう。
「この桃、すっごい甘いんですよ」
そう言った野乃からフォークに差した桃を一切れもらって口に入れる。
「ほんとだ、小ぶりだけどすごく甘い」
口の中いっぱいに広がった桃の甘みや、感想を言っているそばからフォークを伝って滴り落ちてくる果汁は、本当に瑞々しい。まるでこの子たちのようだと渉は思う。ぎゅっと詰まった甘さと、はち切れんばかりの瑞々しさ。喉を過ぎればわずかに残る、桃独特のあの渋み。みんな、この桃の味も大人になっても忘れないのだろう。あのとき飲んだ、渉の壊滅的に先鋭的だったラテアートのクマと、その味も。
そのとき、リンリンと店のドアベルが鳴り、一人のお客様が入ってきた。渉はさっと席を立つと、いつもの少しおかしな台詞でお出迎えする。
「いらっしゃいませ。ここは恋し浜珈琲店です、お好きな席へどうぞ」
「……あの、失恋を美味しく淹れてくれるってブログで見たんですけど」
「はい、あ、いえ。僕はただお客様にコーヒーをお出しするだけですので。でも、お話ししてすっきりすることもあります。よかったらお聞かせください」
ほっとしたように緊張した顔をほころばせたその人は、野乃たちに軽く会釈をすると窓際の席へ腰を下ろした。オーダーはカプチーノ。練習に練習を重ね、リーフの形ならなんとかそれらしく描けるようになった渉は、それを銀盆へ乗せ、お客様のもとへと運ぶ。
変わっていくもの。変わらないもの。
渉は、この『恋し浜珈琲店』はどちらだろうか。
ふと四人を見ると、いつものメンバーである野乃と元樹君以外の二人は、揃って席を立つところだった。「ご馳走様でした、明日学校でね」「授業のノート見せてあげるから早く治しなさいよー」とそれぞれに言って帰っていく二人に、野乃と元樹君が手を振って応える。今日はあいにくの薄曇りだが、まだ外は十分に明るい。考えるまでもなく、二人が気を利かせてくれたのだとわかる。――もしかしたら、元樹君にも。
「あの、えっと……」
「ああ、この二人は相談役です。僕よりうんと聞き上手ですし、もしかしたらお客様でも気づいていなかったことに気づいてくれるかもしれません。お邪魔ではなかったら、どうぞ僕たちにお話しして頂けませんか? 頼りになる子たちですから」
残った高校生二人に戸惑いの表情を浮かべるその人に、渉はそう言って笑った。
渉はいまだ、変わっていくものと変わらないものの間にいる。でもとりあえず、今はこのお客様にご満足していただくことが先決だ。ここは、そういう場所。そして、瑞々しく青春を謳歌する彼らには、恋と友情のラテアートがよく似合う。
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