■第四話 失くした恋に効くオリジナルブレンド 1

 結局、野乃とまとまった時間が取れたのは、それから数週間後のことだった。

 わけあって半年ほど学校に行っていなかった野乃と、卒業してもうかれこれ十年も経った渉はすっかり忘れていたのだけれど、学校というところには『期末試験』というものが存在し、体調が回復し火曜日から行きはじめたその週の週末には、恐ろしいことに期末試験の範囲が各担当教科の先生方から言い渡されたのだという。

 これは渉の失恋の謎を解いてもらっている場合ではない。それからは放課後、例の四人で図書室に寄って試験勉強をしたり、店でも四人で教科書とノートを広げ、額を突き合わせるようにしながら、ああでもない、こうでもないと勉強する毎日が続き……。

 やっと試験から解放されたのは、七月も十日過ぎ。採点済みの答案用紙が全部揃ったその日の夜、ようやく野乃とまとまった時間が取れたというわけである。

「すみませんでした、あれからもう何週間も経ってしまって……」

「ううん。俺も期末試験のことはすっかり忘れてたから。そういえば、あるんだよねぇ。甲子園の地方予選のこともあるから、一学期ってけっこう早めに試験をしちゃうところもあるし。どうなの? 今年の邦陽高校はいいところまでいけそう?」

 夕飯後。後片付けを終え、食後のコーヒーとミニトマトのシロップ漬けをデザートにしながら、渉と野乃は店内の適当な席に向き合い座っていた。店はもう閉店した。長い話になるだろうことはわかっていたし、どうせ午後六時を過ぎれば客足はぱったり途切れる。

 尋ねると野乃は、大皿に盛ったシロップ漬けを何個かまとめて小皿に取り分けつつ、

「うーん、どうなんでしょう。毎日遅くまで練習してるみたいですけど、汐崎君たちから聞くと、二回戦突破がいいところかもしれない、とかなんとか。勝ってほしいなとは思いますけど、私立はやっぱり強いですから。公立校はちょっと歯が立ちませんよね」

 ぱくり。皮がしわしわになったトマトを一つ、口に含んだ。

「そっかぁ。でもまあ、私立を引き合いに出されちゃうと、二回戦が限界かなぁ」

「でも、野球部の人たちは楽しそうですし。今年の邦陽高校は、もしかしたらダークホースかもしれませんよ。実際に試合をしてみなきゃ、結果はわかりません」

「そうだね、頑張ってもらいたいね」

「はい。力を出し切ったって思えるまで、頑張ってほしいですよね」

 そんな会話の最後に、渉もトマトにプチっと爪楊枝を刺し、甘酸っぱいそれを一つ、口に入れた。ちなみにこのミニトマトも、以前おすそ分け頂いた近所に住む家庭菜園が趣味のおばあさん――トヨさんがくれたものだ。なんでも今年はトマトの実の付き具合が非常にいいそうで、一人では食べきれないからと数日に一度、持ってきてくれる。

 それをシロップ漬けにして野乃と食べたり、トヨさんにおすそ分け返しをしたりと、渉のご近所付き合いもなかなか堂に入ったものだ。新鮮な野菜をいつもおすそ分けしてもらっているので、おかげさまで野乃も渉も身体の調子がすこぶるいい夏のはじまりだ。

 それから少しの沈黙。

 コーヒーカップからゆらゆらと立ち上る湯気を見るともなしに眺めていた渉は、よし、と一つ自分に気合いを入れて、つと野乃を見る。野乃もその視線を感じて顔を上げた。

「――この前の彼女の話、続きを聞いてくれる?」

 そうして渉は、ブラックコーヒーに一口、口をつけた。


 *


 彼女――小湊知世は、一言で例えるなら透明な人だった。物理的にではなく、彼女から醸し出される雰囲気や空気感が、渉には透明に思えたという話だ。きっと、彼女が持っていた〝ある特徴〟も、その一端を担っているのだろう。とにかく渉は彼女を一目見たときから〝透明だ〟と感じていたので、彼女の印象はそれに終始する。

 知り合ったのは大学時代。

 同じサークルの一つ上の先輩で、新入生歓迎会のあったその日は、普段は顔を出さないらしい飲み会の席に珍しく彼女の顔もあった、というわけである。

 サークルは至って普通のものだった。天文サークルといって、その名の通り天体観測をするのが主な活動内容で、夏休みには合宿もあり、真夏の夜空を三十人程度のサークルメンバーで見上げ、写真を撮ったり記念撮影をしたり。それを学園祭で展示したりもした。

 彼女と関りを持つようになったのは、お互いに一学年上がってからだった。その年の新入生歓迎会にも彼女はすんなりと顔を出し、その帰り。二次会に行く様子もないのに、どうしてだか一向に帰ろうとしない彼女に不思議に思って声をかけると、

「ねえ、天体観測、しない?」

 唐突にそう誘われ、渉が盛大に戸惑ったのは言うまでもなかった。

 しかし彼女は、言うだけ言ってさっさと先を歩いて行ってしまう。「ま、待ってください!」と渉が追いかけたのもまた、言うまでもなかったことで、結局大学のサークル棟まで戻り、部室から望遠鏡を持ち出し、構内にある広場にて天体観測をするに至るまで、渉は彼女のそばを離れられなかったし、帰りはついでに最寄りの駅まで送った。

 あとで彼女と同じ学年のサークル部員にその話をしてみると、

「へぇ、珍しい。そんなこともあるんだねぇ!」

 大変驚かれ、渉はどういう意味かとまた戸惑うことになった。

 風変わりな人だなという印象はあの夜に鮮明に焼き付けられていたが、そんなに驚かれるものでもないように渉には思えていたからだ。大学は何かと変わり者が多い。この一年でそれをしっかりと認識し、順応していた渉には、普通に許容範囲だったのだ。

 しかし先輩は、違うと首を振る。

「小湊さんね、一昨年、ちょっと事故に遭っちゃって――あ、打撲とか擦り傷とか、本当に軽いものだったんだけど――そのときに頭も打ったみたいで、それからあんな感じなんだよね。前までは普通に明るい子だったんだけど……噂では記憶もどこかに落っことしちゃったとかで、それまで仲のよかった子たちともだんだん距離ができていったんだよ。だから去年も今年も、新歓に顔を出すなんて本当に珍しいことでさ。外舘君に声をかけたっていうのも、いまだにちょっと信じられないっていうか」

「……記憶喪失ってことですか?」

「そんなに仰々しいものじゃないよ、本人が言うには。あの通り、普通に大学生活をやってるし、サークルにも入ってる。就職活動だってするって言ってるし、本当に日常生活には何も問題ない範囲での、ちょっとした記憶の欠落、みたいな感じなんじゃない?」

 渉の顔がよっぽど神妙だったのだろう、その先輩は身振り手振りを交えて明るく笑って言った。けれど、もしかしたら先輩にもどこまでが本当なのかわからないのかもしれなかった。サークルは同じだが、学科が全然違うらしい。サークルの集まりがあるときくらいしか顔を合わせる機会がないためなのだろう、先輩からは又聞き感が漂っていた。

 しかし、でも、と付け加えると、

「ひょっとしたら、外舘君とは何かの波長が合ったのかもね」

 その先輩は、どこか楽しそうに言った。

「いや俺、いまだかつて記憶喪失になったことなんてないんですけど」

「いやいや、そういう意味じゃなくて。小湊さん、こっちから話しかけたら普通に受け答えしてくれるんだけど、自分からは滅多に話しかけなくなっちゃったから。そういう意味で外舘君とは何か近しいものでも感じたんじゃないのかなって推察するわけ。ほら、外舘君も雰囲気が独特だから。掴みどころがない感じとか。だから、記憶はないけど潜在的に好きだった人に似てるような気がしたとか、心に引っ掛かるとか、そんな感じで声をかけてみたんじゃない? 外舘君、年上に振り回されそうなタイプでもあるし」

「先輩それ、ちょっと偏見混じってますよ……」

「はは、ごめんごめん。でもまあ、どうしても気になるっていうなら、キャンパスから探して直接聞いてみたらいいと思うよ。彼女は基本、きちんとした人だから、こっちから話しかけるぶんにはちゃんと受け答えしてくれるはずだから」

 そう言って去っていく先輩に、このとき渉は「はあ……」という生返事しかできなかった。気になると言えば気になるが、どうしてもというほどでもない。だって大学には何千人という生徒が在籍しているのだ、そういう先輩もいるんだな、くらいの認識は確かに持ったけれど、生活費の足しにしようと思ってはじめた喫茶店でのバイトもあったし、講義もあった、サークル活動だってそれなりに忙しいし、試験だって普通にある。常に彼女のことを考えている時間もなかったし、キャンパス内はマンモスだった。

 そんなふうにして日々に忙殺されているうちに、彼女のことは数日に一度程度に思い出すようになり、一週間に一度、一ヵ月に一度というように思い出す頻度も減っていった。

 最終的には夏合宿前のサークルの部室で顔を合わせても思い出さなくなり、春先の突飛な天体観測のことなんて、渉の頭の中からすっぽりと抜け落ちていたのだった。

 しかしその偏見は、思わぬ形で正しかったと証明されることになる。

「外舘君と一緒にいたら、思い出せるかもしれない」

 夏合宿の際は恒例となっているバーベキューの席で、缶ビールを片手に彼女が大真面目な口調でそう言ったものだから、渉はここ何ヵ月か平穏に過ごせていた心臓が急速に活動をはじめたし、また春先のときのように盛大に戸惑った。……いや、戸惑ったなんて生易しい表現では足りない。めちゃくちゃ狼狽えたし、頭が真っ白になった。だってそれはつまり、彼女から告白されたというわけで、先輩の言っていたことはあながち間違ってもいなかったことの裏付けでもあったのだから。その瞬間、渉の頭の中では、彼女や彼女を知る先輩から聞いた話が目まぐるしく駆け巡っていて、気づいたときには――。

「……俺でよかったら」

 そんなことを呟いていた。

「そう。ありがとう。じゃあ、これからよろしくね」

 まるで渉がそう返事をする未来が見えていたかのように、緊張しているふうでもなく、ドキドキしているふうもなくそう言った彼女は、どこか作り物めいた微笑を浮かべながら〝交渉成立〟的に握手を求め、渉は半ば放心しながらその手を握り返した。

 そうして交際がはじまったわけだけれど、一学年上の彼女は当然、先に卒業していったし、無事に就職も果たしていた。院に進むことはなく、渉はその点で少しがっかりもしたけれど、自分もすぐにリクルートスーツに身を包み就職説明会やセミナーに奔走する毎日がはじまったので、それどころではないというのが正直なところだった。

 それでも交際はびっくりするほど順調だった。お互いに会える時間が減っても不平不満が出ることもなかったし、就職したてと、就活真っ只中というお互いの境遇に理解を示し合っていた。思えば前の年は彼女の就活があったし、その翌年は渉の就活と彼女の社会人一年目、さらに翌年は渉が社会人一年目となったのだから、計三年は学生の頃のように会いたいときに会えるというわけではない生活だったのだから、理解し合えない要素なんて渉たちには少しもなかったと言える。環境の変化でダメになるカップルも、渉の周りでも彼女の周りでも後を絶たなかったけれど、二人にはそれも関係なかったのだ。

 たまに休みが合うと、喫茶店のバイトで覚えたコーヒー淹れ方を、渉は彼女によく披露した。彼女はそれに「上手だね」「美味しい」といつも新鮮な感想をくれて、そのたびに渉も新鮮な嬉しさが込み上げたし、ゆくゆくは彼女と二人でのんびりとコーヒー店を営めたらいいなという、漠然とした夢を持つようになっていった。

 彼女が猫を飼いはじめたのは、渉が就職して三年目の秋のことだった。珍しく連絡もなしに渉の部屋を訪れた彼女は、その日、かなり切羽詰まっていて、どうしたんだと訳を聞くと「猫を拾って。でも衰弱しきってて……」と、今にも泣き出しそうな顔で言った。

 生まれて間もない子猫だ。彼女の腕の中でぐったりしている子猫は、かろうじて息はしているものの、素人の渉にも危険な状況であることは十分に察しがつくものだった。

 狼狽する彼女と子猫を連れて夜間診療の動物病院へ駆け込む。

 結果的にその子は〝メンコ〟(昭和の子供たちがこよなく愛したあのメンコではなく、彼女の好物の明太子からきている)と名付けられ、治療が終わると彼女に引き取られたのだから、九死に一生を得たということになる。ちなみに毛色が白と黒のブチだったので、渉は密かに〝ホルス〟(ホルスタインから取った)を推していたが、彼女があんまり入院中の猫を見舞う際に『メンコ、メンコ』と言っていたので放っておくことにした。

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