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それはともかく、恋し浜に旅行に行ったのは、本当に偶然と言うしかない。
正月休みに連泊でどこかへ出かけようという話になり、どうせだったら観光地ではないところに行きたいね、なんていうちょっとした冒険心も重なり。メンコもすっかり元気になった翌年の年明け早々に、メンコも連れて恋し浜へとたどり着いた。
「こんなにいい雰囲気なのに、この家、売り出し中なんだね……」
ログハウス調の空き家を最初に気に入ったのは彼女だった。しんしんと雪が降り積もる中、コートを着込みマフラーも巻き、ついでにメンコも抱いて暖を取っていた彼女は、屋根の上にうず高く積もり続けるばかりの無人の家を見上げて呟く。
「ほとんど新築に見えるけど、誰かの別荘だった可能性もあるよな」
「ああ、それはあるかも。普通に住むなら、やっぱり普通の家だよね、普通」
「普通が多くない?」
「あんまり語彙力がないんだよ」
「大学まで出てるのに?」
「そういうこと言わない。私、昔から国語系は弱かったんだから」
「国語系って……母国語じゃん」
「うるさい」
そんな会話をしつつ、渉もその家を見上げる。そのときふと、やけに鮮明にここでコーヒー店を営む自分たちの姿が見えたのは――今となっては直接本人に話すこともできなければ、その片割れは今どこでどうしているのかも、まったくわからないのだから、あの日のあの瞬間だけの、雪が渉にだけ見せた幻想だったのだろう。
しかしその二年後には、恋し浜でコーヒー店をやりたいと言って勤めていた会社をすっぱり辞めた渉に彼女も付き合ってくれたのだから、少なくともこのときまでは、あの日、雪の中で見た自分たちの姿は本物だったと。渉はそう思っている。
彼女が突然いなくなったのは、いよいよ再来週には仮オープンできるだろうと目処が立った頃のことだった。事故に遭ってから人と話すことを苦手としてきた彼女は、恋し浜に越してきた際のご近所への挨拶も、家の一階を店舗に改装する際に出入りする業者や渉の知り合いにも、あまり積極的に話しかけたりはせず、いつも渉の半歩後ろからちょこちょこと挨拶したり会話を交わしたりしていて。でもそれは、記憶を失くしてからは今にはじまったことではないわけで、渉も別段気にすることはなかったし、周りの人たちも、人見知りなんだね、慣れたら大丈夫だから、という認識で一致していた。
何より彼女本人が、人見知りをなくそうと一生懸命に努力していたことを渉は知っている。それでよく会社員時代は支障なく仕事ができていたと感心したものだが、彼女曰く、
「仕事のときは演じてるから。でも、スーツを脱げば全然ダメね」
なんだそうで、なるほど、彼女は誰よりも女優だったというだけのことだった。
「でも、無理に克服しようとしなくていいんじゃない? 近所の人たちも特に気にしてるようでもなかったし、知世には知世のペースがあるんだから」
狭いベッドの中。まどろみの途中でそう言うと、
「そうは言っても、開店の準備も着々と進んでるんだし、いつまでも人見知りのままじゃいられないでしょう? これからはコーヒーを淹れるのが渉の仕事で、それを運ぶのが私の仕事になるんだから。にこにこ愛想よくしてないと、あっという間に閉店だよ」
もっともな正論を返してきたので、彼女があんまり可愛かった渉は、自分と彼女の間にまるで邪魔でもするかのように丸くなって眠るメンコごと、ぎゅっと抱きしめた。もちろん、あっという間に閉店、という恐ろしい台詞は聞こえなかったふりをして。
――それから間もなくだった。彼女が前触れもなくメンコごと消えてしまったのは。
書き置きも何もないまま、まるでちょっと散歩に出かけているような感覚でいなくなってしまったので、今でも彼女の私物は渉の部屋のクローゼットに押し込まれたまま、時が止まってしまっているし、メンコの餌ももうとっくに期限が切れている。彼女の実家の住所を渉は知らなかったので、どこにも送りようがないのだ。
少しの荷物とメンコを連れて、彼女は一体、どこへ行ったというのだろうか。
トヨさんをはじめとする近所の人たちも源蔵さんも、渉と顔馴染みの恋し浜界隈の人たちも、そのことには触れないでいてくれている。かなりの人見知りだった彼女のことだから、それなりに印象に残っているとは思うのだが、噂好きの反面、本当に聞いてほしくないこと、言いたくないことには、彼らはそっとしておいてくれるのだ。
そうして二年。すっかり〝ここの人〟になった渉は、今でも彼女の帰りを待っているのか、まだ呆然としたまま、二年前に取り残されているのか自分でもわからないまま、地域の人の助けを得ながら『恋し浜珈琲店』を一人で営み続けている。
そういえば、記憶喪失のことについては、彼女は付き合っていたあの五年間の中で、一度も話題に出したことはなかった。渉もあえて思い出させようとはしなかったし、はじまり方はかなり特殊だったけれど、付き合っていくうちに確かに彼女に恋をしていたから、そんなオプションみたいなことなんて、いつの間にか気にならなくなっていたのだ。
彼女の記憶が一部欠けていても、そうではなくても、彼女は渉にとってはただの〝小湊知世〟という愛しい女性に変わりはなかった。そんな彼女ごと、好きだった。
だから、記憶が戻って、今自分がいるべき人のところへ帰ったのか、ただ単に脱サラして田舎暮らしになった恋人との生活に将来の不安を感じて早々に見切りをつけたのかもわからないまま、宙に浮いた状態のこの二年は、野乃がやってくるまで本当に地を這うような寂しさが常に渉の周りに付きまとい、片時も離れてくれなかった。
やっと少し息ができるようになってきたのは、ここ数ヵ月の間でのことだ。野乃のことを思い、野乃の世話を焼き、昔の思い出に浸ったり、思い出したり。ときどき彼女の友人たちが渉の淹れたコーヒーを飲みに来てくれるようになってから、少し息がしやすい。
今も願うのは、ただただ、彼女の幸せだけだ。
彼女は渉に唐突に大きな傷を負わせたし、様々な感情も植え付けていったけれど、それを全部取り払った最後には、やっぱり彼女の幸せを願う心だけが残る。
彼女の最後の顔は、いつも間近で見ていた愛しい寝顔だった。一人でなければいいなと思う。寂しくなければいいなと思う。そんな、透明な彼女に恋した男の話だ。
*
「――そういうわけなんだけど、野乃ちゃんはどう思う?」
話し終わると妙な照れくささに襲われ、渉はじっと考え込んでいる野乃に思わず急かすように聞いてしまった。もう二人のカップからは湯気が立たなくなっていた。お互いにあれからカップには口をつけていないので、黒い液面は両方とも凪いでいる。
「あの、渉さんはどういう結末だったらいいと思いますか?」
やがてたっぷりの間を空けて、野乃が聞いた。
「……え?」
「正直、私には、知世さんが何を思って渉さんと付き合ったのかも、会社を辞めて付いてきてまでオープン前に突然いなくなってしまったのかも、わからないんですけど……渉さんが知る範囲で知世さんにそれらしい変化や予兆めいたものがなかったんだったら、もう渉さんがこの恋の結末を決めてもいいんじゃないかと思うんです。確かに渉さんにだけ結末を決めさせるのはずるいと思いますけど、たぶん知世さんは、それを望んでいるんじゃないでしょうか。言い方は悪いですけど、掴みどころのない年上の女性に振り回れた渉さんには、そうやって自分で幕を引くことが必要なのかもしれませんよね」
「……」
そう言った野乃に、渉は思わず絶句する。てっきりいつものように彼女が残していった荷物や渉の話の内容から答えを導き出すものだとばかり思っていたが、どうやら野乃にもこればっかりはわからないのか、それとも、渉が自分で結末を決めることに意味があると伝えたいのか、野乃は全権を渉に任せているような口振りだった。
「え、でも、そんな急に言われても……」
「渉さんも私と同じですね。怖がりで、意気地なしです。で、けっこう優柔不断」
「ええー……」
なんとか体勢を立て直そうとするも、再びミニトマトのシロップ漬けに手を伸ばした野乃にぴしゃりと言い捨てられてしまい、また絶句するしかない。これは本当に、野乃は謎を解いてはくれない、ということなのだろうか。二年経ってもいまだに何もわからない状態なのに、そこからさらに結末を決めろというなんて……。元樹君に対してはなかなかドライだなと思ってきたが、まさか自分の身にも起こるとは思っていなかった渉だ。
「でも、気になることはありますから、少し調べてみようと思ってます」
すると野乃は、頭を抱える渉に少し笑ってそう言う。
「調べたいこと……?」
「まだ秘密です」
「……そ、そうなんだ」
しかし教えてくれる気も毛頭ないようで、渉は情けなく苦笑するしかない。
「ごめん、すっかり冷めちゃったよね。新しいのを淹れるけど、何がいい?」
とりあえず、コーヒーを飲み直そうと席を立つ。久々に詳細に思い出して胸が苦しくなったり精神的にどっと疲れたりもしたので、気分転換がてら、飲みたくなったのだ。
野乃も「じゃあ、渉さんと同じで」と言い、とりわけすぐに調べものに取りかかるというわけでもなさそうだった。カフェインを摂りすぎると眠れなくなるのは周知のことで、だから一応のつもりで聞いてみただけだったのだが、すっかり渉に対してもドライになってしまった野乃は、絶賛シロップ漬けに夢中で席を立つ気配はない。
「……」
「……」
店内にはしばし、湯を沸かす音や豆を挽く音、コポコポとドリッパーにコーヒーが落ちていく音とともに蠱惑的な香りが充満する。この香りを嗅ぐだけで心がほっと休まるような気がするのは、そういえば喫茶店でバイトをはじめてからだったなと渉は思う。
そのバイト経験がきっかけで、今はこうして自分が店主となって店を営んでいるのだから、人生とはつくづく不思議な縁で繋がっているものである。そのせいで彼女との縁は強固なものにはならなかったけれど、それもまた、縁のうち、ということだろうか。
「お待たせ。ブラックだけど、よかった?」
「はい。ミルクと砂糖を入れれば私でも普通に飲めますし」
「うん」
とにかく、コーヒーの香りに包まれていると心安らかになるのは、今も昔も変わらない。今はこうして、まだ若干お子様舌な野乃が目の前に座り、ミルクと砂糖をせっせとカップに投入している。これが今の『恋し浜珈琲店』の日常なのだ。
「――あの。じゃあ今度は、私の話、いいですか?」
すると、野乃がふと顔を上げた。その目や表情は想像していたよりずっと決然としていて、椅子に背中を預けてのんびりコーヒーを啜っていた渉は、思わず居住まいを正す。
「い、いいの……?」
「むしろ結末を決めなきゃいけないのは私のほうなんです。自分の身には降りかかってきてほしくはないけど、同じような経験をした人はたくさんいて。きっと小説とか漫画のネタにもならないようなテンプレな失恋の話なんです。けど、せっかくなので」
「うん、野乃ちゃんがそう言ってくれるなら、俺は全然構わないけど……」
「じゃあ、聞いてください。私もいつまでも両親に黙っておくわけにもいかないですし、渉さんにはここでの保護者として知る権利があります。私の話が終わって、二人でちゃんと結末を決められたら、そのときは、うんと美味しいコーヒーを飲みましょうね」
そう言って野乃は、決然とした表情はそのままに、彼女の失くした恋の話をはじめた。
話は一年前にさかのぼる。野乃のかつての友達に、
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