『恋し浜珈琲店』の開店は午前十時だ。閉店は午後八時。田舎町の店にしては開店時間が遅いような気もするけれど、それでお客様からクレームが出たことはないし、むしろ午後八時の閉店時間のほうが遅いんじゃないかと、馴染みの客からはたびたび言われる。

 都会とは違って、ここは日が昇れば活動をはじめ、日が沈めば休むように人間の体がそのリズムに慣れている。午後六時には客足はぱったりと途絶え、街灯もまばらなこの辺りは、渉の店から漏れ出る明かりのほうが、少し変わっていると言える。

 それでもなんとか食べていけるのは――。

「いらっ――」

「おうおう。そんな堅っ苦しいあいさつは逆に胸が痒くなる。今朝、水揚げしたばかりのかつお持ってきてやったぞ。いつ見ても細っそい体してんだから、これ食ってもっと太れ」

「あ、源蔵げんぞうさん、ありがとうございます」

「いいってことよ。どうせ家で食いきれねぇし」

「では、ありがたくいただきます。ごちそうさまです」

「おう。コーヒー一杯。いつものな」

「かしこまりました」

「だから、その言い方。あんまり丁寧だと、むず痒いんだっつってんだろ」

「ははは」

 こんなふうに、渉のことを気にかけ、おすそ分けをしてくれる人がいるからだ。

 渉がいらっしゃいませ、と言いきる前に威勢よく店に入ってきたのは、漁師をしている源蔵さんという五十代半ばの男性だ。そろそろ初鰹の頃だな、などと思っていると、まるで以心伝心でもしているかのようにベストなタイミングでおすそ分けをくれる。

 この通り口は少々乱暴だが、とても気のいい人だ。前に台風が直撃した際、店を一人で切り盛りしている渉を心配して豪雨の中を駆けつけてくれた。一人暮らしのご年配の人たちの家も一軒一軒回って「大丈夫か」と声掛けもしていたくらいの、熱い海の男である。

 ちなみに、源蔵さんが言う「いつもの」とは、アメリカンコーヒーのことだ。ブラックで飲むのが好きで、こちらはおすそ分けのお礼のつもりでサービスしているのだけれど、いつも律義に代金を払っていく。豪快だが、そういうところはけっこう細かい。

 でも、おすそ分けのついでにコーヒー代を置いていってくれる人たちがいるおかげで店の売り上げが保たれているのも確かだ。ここは別に観光名所でもないし、通年してたくさん人が訪れるわけでもない。夏は店からも臨める恋し浜の砂浜と入り江が海水浴場として開放されるけれど、それだってせいぜい七月の中旬から九月の中旬までの二ヵ月間だ。

 残りの十ヵ月は、細々とやってくる他所からの客と、源蔵さんのような地元の人からのおすそ分けプラス律義なコーヒー代で生活が成り立っていると言っても過言ではない。他所者の渉がここで店を営むようになってから二年。恋し浜界隈の人たちは、いつも優しい。

「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」

 淹れたてのアメリカンコーヒーを銀盆に載せて運んでいくと、壁際の席で待っていた源蔵さんが海焼けした黒い肌に白い歯を覗かせ、ニッと笑った。

 コーヒーに一口、口をつけると、

「そういや、昨日から親戚を下宿させてるんだって? どっちだ?」

 思い出したようにそう尋ねる。

「あ、はい、そうなんです。高校二年の女の子で。確か、源蔵さんとこの元樹げんき君と同じ高校だと思います。今日が初日なんですよ。邦陽ほうよう高校に登校していきました」

「そうか。そのことは一応、元樹にも言ってあってよ。困ってるときは助けてやれって。ただ、どっちかわかんなかったから。とりあえず、聞いてみただけだ」

 とかなんとか言いつつ、源蔵さんの態度はどこかよそよそしい。

 きっと、若い男女がひとつ屋根の下で暮らすことをいろいろと心配して確かめに来たのだ。下宿人が女の子であるということも、前もって知っていただろう。源蔵さんの奥さんである幹恵みきえさんは、町役場に勤めている。野乃の役場での手続きを済ませる際に対応してくれたのが彼女なので、変に噂が広がる前に豪快な源蔵さんにクリーンな下宿であることを触れ回ってもらおうという、幹恵さんからのありがたいお節介だ。

「いろいろとご心配していただいて、ありがとうございます」

 なので渉は、気まずそうにしている源蔵さんに笑って礼を言う。どこにでも、こういう噂話は立つものだ。Iターン、Uターンなんて言われているが、ここは人口の流出はあれど、外から入ってくる人は少ない。閉鎖的、という言い方には少し語弊があるかもしれないけれど、決まりきった人しかいない場所で新しい人が入ってくれば、それがまだ高校生の女の子であれば、噂はあっという間に広がるし、詮索されることだって多い。

 でも渉は、そういうところも含めてこの町が好きなのだから、仕方がない。野乃には煩わしいことも多いかもしれないけれど、まあ、源蔵さんの血を引く元樹君がそばにいてくれれば、少しは煩わしい思いをすることも減ってくれるかもしれない。

「なんだよ渉、すっかりここの人間になっちまって」

「はは。そう思っていただけて光栄です」

 少しも動揺せず鷹揚に受け流す渉に、源蔵さんがフンと鼻を鳴らして苦笑する。嫌な顔のひとつでもしてくれたら気が楽なのに、なんていう声が聞こえてきそうだ。しかし、これも田舎の宿命なのだ。いちいち気にしていては、大切なものを見落としてしまう。

「ほらよ、コーヒー代。ごっそーさん」

「いつもご丁寧にありがとうございます。今日は鰹のタタキでご飯にしますね」

「おう。その親戚の嬢ちゃんにも食わせてやってくれ。美味いぞ」

「はい」

 そうして十五分ほどして、源蔵さんは店をあとにしていった。リンリン、と軽やかに鳴るドアベルの向こうに源蔵さんの白髪混じりの短髪が消えていく。

 夜中から船を出して漁をしていたので、これから遅い朝ご飯だろうか。元樹君が学校から帰ってくる頃には、もしかしたら真夜中からの漁に備えて寝ているかもしれない。


 それからも馴染みのお客さんがぽつぽつと入り、午後三時半を過ぎると、幼稚園や保育園、小学校のお迎え帰りに二十代~三十代の主婦層とその子供たちが店にやってきた。店内は一気に賑やかになり、つかの間のうち、渉は忙しくなる。

 お母さんたちにはカフェオレやアイスコーヒーを出し、子供たちにはオレンジジュースや、野乃にも作ったようにカルピスソーダのミント添えなどを出す。

 子供たちもよく来てくれるので、渉ともすっかり仲良しだ。子供たちからあっちこっちで話しかけられ、そのたびに笑顔で丁寧に話を聞く渉の評判は、お母さんたちから太鼓判を押されているくらいだ。渉も子供がとても好きだ。無垢で小さくて、可愛らしい。

 そんな中、再び店のドアベルが音を立てた。

 初見のお客さんだった。二十代中盤くらいの肌の白い長髪の女性が、店内の騒がしさに一瞬たじろぎ、入るところを間違えたかしらという顔をする。

「いらっしゃいませ。ここは恋し浜珈琲店です。お好きな席へどうぞ」

「……あ、はい」

「今、お水をお持ちしますね」

 少々強引に接客をしてしまっただろうか、などと思いつつ、席を探して店内を見回している女性を見て、渉はさっそくカウンターに引っ込み、水の用意をする。

 渉はどうしてだか、お好きな席へと言う前に店の名前を言ってしまう変な癖がある。源蔵さんをはじめ、馴染みの客からは「変なの」と酷評をいただいているが、店の表に特に看板を出しているわけでもないので、まあいいかと思うことにしている。それに、なぜか言ってしまうので、もうずいぶん前から諦めてもいる。特に隠れ家的な雰囲気を目指しているわけでもないのだけれど、渉はもともと、落ち着いた雰囲気のほうが自分も落ち着いて好なので、自然と店構えもこうなってしまったというわけである。

「お決まりになりましたら、お声がけください」

 おずおずといった様子で空いた席に座った女性の前に、水の入ったグラスを置く。

「すみません、少し騒がしいですか?」

「いえ、思ったより子供がたくさんいたので驚いてしまって。騒がしいなんて、そんな。……あの、カプチーノをひとつ、いただいてもいいですか?」

「はい、かしこまりました」

 一礼して再びカウンターに引っ込む。ここは端的に言ってしまうと過疎の町だ。初見のお客さんなら、なおさら子供たちに驚くのも無理はない。騒がしくて入店を躊躇ったのかと思っていたが、そうでもないようである。湯を沸かしたりコーヒー豆を挽きながら女性の様子を窺うと、子供たちに優しい眼差しを送っていたので安心した。

 最後に泡立てたミルクをカップに注いで持っていくと、女性は「いい香り」と表情を和ませた。「ごゆっくりどうぞ」と言う渉に会釈をし、さっそくカプチーノに口をつける。

 野乃が元樹君とともに帰ってきたのは、ちょうどそんなときだった。

 なぜか野乃のほうはむっすりとした顔をしているが、一体どうしたんだろう?

「野乃ちゃん、おかえり。元樹君も。……どうしたの?」

「いえ、何でもありません」

「……そう」

 気になって尋ねてみるが、野乃の返事は硬いものだった。野乃の半歩後ろで気まずそうな顔をしている元樹君を視界に捉えているうちに、彼女は店の中をやや速足で歩き、カウンター脇の階段から部屋に上がってしまった。どうやら訳を聞くタイミングを完全に図り間違えてしまったらしい。今は誰にも触れられたくないのだ、きっと。

「野乃のやつ、俺があんまり馴れ馴れしいから、ヘソ曲げちゃって」

 そんな野乃に代わって訳を話してくれたのは、坊主頭が凛々しい元樹君だった。カウンター前の席に通し、男の子だし炭酸がいいだろうかとスプライトをグラスに出すと、喉が渇いていたのだろう、彼は半分ほど一気に飲み、ふぅと一息ついてから話しだした。

「親父や母さんから、転校生が来るってことは前もって聞いててさ。ちょうど同じクラスだったし、わかんないところもあるだろうからって思って、休み時間とかに校内を案内してたんだけど。そしたら野乃、女子の集団とすれ違ったときに、いきなりオドオドしはじめちゃって。どうしたんだよって聞いたら、怒って口利いてくんなくなっちゃったんだ」

「そう。どうしたんだろうね、野乃ちゃん」

「……まあ、こんな中途半端な時期に転校してくるくらいだから、前の学校で何か嫌なことがあったんかな。なんか、とにかく集団が怖いみたいで。俺と二人で歩いてたことも、もしかしたら何かあるのかも。渉さん、野乃の親戚なんだろ? 聞いてない?」

 渉は、ごめんねと眉尻を下げて首を横に振る。そのあたりの事情は、野乃の両親である叔父夫婦も知らない。考えられることといったら、いじめ……なのかもしれないけれど、それさえ野乃は誰にも話したくないのだろう。無理に聞き出すわけにもいかないし、難しい問題だ。

「あ、でも、元樹君、もう野乃ちゃんのこと名前で呼んでくれてるんだね。俺も昨日、十二年ぶりに再会したばかりで、今の野乃ちゃんのことは少しもわからないんだけど、本当はよく笑う子なんだ。とってもいい子だし。仲よくしてあげてほしいな」

「そりゃ、どんなに塩対応されても、食らいついていくつもりだけど。だってあいつ、こっちの知り合いっていったら渉さんくらいだし。……って言っても、俺もまあ、知り合いってほどでもないんだけど。でもなんか、ちょっと放っておけないじゃん」

 強引に話題を変えると、元樹君もそれ以上追及せず空気を読んでくれたようだった。店の売り上げを心配して毎度律義に代金を置いていく源蔵さんと同じである。

「ありがとう」

「いや、もともと俺、親父たちに似て世話焼きだし」

「そうだね。今日も鰹を一本、いただいちゃったし。ほんと、いつも助けてもらってる」

 言うと元樹君は「親父が捕った鰹、マジ美味いよ」と言ってニッと笑った。その顔も源蔵さんとそっくりで、渉は、やっぱりここの人たちが好きだなと改めて思う。

「じゃあ、俺はこれで。ごちそうさまでした。野乃によろしく言っといてください」

 スプライトを飲み干すと、そう言って元樹君は帰っていった。リンリン、と軽やかにドアベルが鳴り、元樹君の姿もその向こうに消えていく。坊主頭なのは単にシャンプーが楽だから、という理由らしい。彼は部活には所属せず、源蔵さんの漁を手伝っている。

 ふと視線を感じてそちらに顔を向けると、お迎え帰りのお母さんたちが、野乃が消えていった階段や元樹君が座っていた席、それに渉を見て、何かを聞きたそうにしていた。

 渉はほんの少しだけ苦笑すると、水の入ったピッチャーを手に、そちらへ向かう。

「さっき階段を上がっていった子は、宮内野乃ちゃんっていって、僕の親戚なんですよ。昨日からここの二階で下宿をはじめて、今日から学校に行きはじめました。さっきの元樹君と同じクラスなんだそうです。見かけたら、仲よくしてあげてくださいね」

 一人ひとりのグラスに水を足しながら、そう説明していく。若い世代でも、源蔵さんや息子の元樹君の名前は恋し浜界隈ではちょっとばかし通っている。野乃に嫌な思いをさせないためには、やはり少しくらいの牽制は必要だろう。

「そうなんですね。下宿とか、ちょっと憧れちゃいますね」

「渉さんが保護者なら、でも安心ですよね。毎日、癒されそう」

「はは。だといいんですけど」

 にっこり笑って、三度、カウンターに下がる。

 元樹君と一緒に帰ってきたのは、その点でも都合がよかった。元樹君がそばにいてくれればというのは、世話焼きな性分だからというだけではなく、そういう意味でもある。

 噂の一人歩き防止策。若い主婦層からの評判もいい渉が自らの口でそう言うのだから、迂闊なことは慎むべきと、お母さん方に暗黙の了解を得てもらったのだ。

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