■第一話 金魚倶楽部とカプチーノ 1
五月の薫風が爽やかに木々の枝葉を揺らす頃。新緑の間を吹いてくる、その快い風に黒い髪を遊ばせながら、
掃除はいつも、カウンターの中や流し台、仕事道具であるコーヒーミルやコーヒーカップ、店内の床に客席テーブルや窓はもちろんのこと、椅子の裏まで入念にしている。けれど今日からは遠縁の親戚にあたる
高校二年生、誕生日は十月の終わりだそうだから、まだ十六歳。そんな年頃の女の子を藪から棒に下宿させてほしいと頼まれたときは、滅多に声を張ったりしない渉もさすがに「ええっ⁉」と電話口で大きな声を出してしまったが、野乃の下宿を頼んできた遠縁の叔父の話によると、理由は話さないからわからないが高校に入学して半年ほどした頃から急に不登校になってしまい、野乃の父親である叔父も、母親も、どうしたらいいかわからない状況がここ半年ほど、ずっと続いていたのだという。
そんなとき、部屋から出てきた野乃が、ふと言ったのだそうだ。
「親戚に珈琲店をやってる人がいるでしょ、あそこの町の高校なら、行ってもいい」
と。
部屋から出てくれるならなんでもいいと思った叔父夫婦は、さっそく渉に野乃の下宿を頼み込み、ちょっと考えさせてくれませんかと返事を保留にしている間に勝手に転校手続きを済ませ、そうして今日、野乃を単身、ここに送り込んでくることとなった。
あまり人の話を聞かないのは、外舘の血筋の者にはよくあることだ。良くも悪くも、思い立ったら即行動に移すところも。渉もその辺はもう諦めている。……でも。
「どうしたもんかなぁ……」
リクエストしてくれたのは嬉しいけど、と渉は頭を掻く。
野乃がうんと小さい頃、盆や正月に親戚一同で集まったときに数回会った程度の自分のことを覚えてくれていたこと、今、恋し浜で珈琲店を営んでいることを知って頼ってくれたことは嬉しいが、もうかれこれ十年以上会っていないのだ。心の面も含めて野乃の扱い方だってわからないし、自分はもう、けっこうなおじさんだと自覚している。
あの頃は渉はまだ高校生で、野乃は幼稚園児だった。五歳かそこらの子供と十六~七の高校生では当然話なんて合うわけもなかったけれど、酔っぱらった親戚たちに早々に疲れてしまった渉と野乃は、よく休憩と子守りを兼ねて縁側で遊んだものだ。
それから十年以上経った今、野乃はあの頃の渉の年齢になった。けれど渉は、高校生の頃、どんなことが好きで、何をやって過ごしていたか、けっこう忘れてしまっている部分も多い。それに野乃は女の子だ。きっと、どんなことが好きかも何をやって過ごすのかも全然違うに違いない。そういう点で渉は朝からひどく困っているのだった。
――と。
「あの、渉さん……ですか?」
ふいに背中から呼びかけられて、渉ははっと我に返った。振り返ると、背中の真ん中あたりまでだろうか、長く伸ばした黒髪をさわさわと風になびかせたひとりの少女が、じっと渉の返事を待っていた。――野乃だ。十六歳の。渉は彼女の両手と肩に重々しく提げられているバッグやキャリーケースに目を留め、そう直感する。
それに、よくよく考えてみれば、この辺で渉のことを名前で呼ぶ若い人はいない。三十歳手前の身としては恥ずかしいのだけれど、「渉ちゃん」「渉」と親しげに名前で呼んでくれるのは、たいていが店の馴染みの四十代から上の世代の人たちだ。
「いらっしゃい。野乃ちゃん……でいいんだよね? ずいぶん久しぶりだね」
「はい。今日からお世話になります。最後に会ったのは、十二年くらい前のお盆です」
そっか、もう干支が一回りしちゃってたんだね、なんて言いながら、渉は野乃の荷物を預かり、バッグを自分の肩に掛け直す。すみません、と小さく呟いた野乃に、キャリーケースも預かるよと言うと、彼女は「これは引いて歩くだけなので」と遠慮した。
「そう。じゃあ、とりあえず店の中に入ろうか。言ってくれたら駅まで迎えに行ったんだけど、歩くとけっこう遠かったでしょう。今、冷たい飲み物を出してあげる」
「はい」
眼鏡の奥で目をにっこり笑わせると、いくぶん緊張も取れたのか、渉に続いて野乃が店内に入ってくる。今日は五月晴れだ。朝から夏のような太陽が恋し浜を照らしている。
両手にキャリーケースを引く野乃に店のドアを開けておいてやりながら、言葉少ななのは、ついこの間まで不登校だったからだろうか、と渉は考えた。十二年前と今を比べても仕方がないけれど、幼稚園児だった頃の野乃はよく笑う子だったのに。
下宿が決まってから――叔父夫婦が勝手に転校手続きを済ませてしまったので、引き受けざるを得なくなったともいう――からは、野乃も自ら荷物をまとめたり、必要なものがあれば買いに出かけていたそうだけれど、その佇まいにはやはりどこか陰がある。初冬に張る薄氷のように、触れれば簡単に割れてしまいそうで、渉は少し怖い。
「はい、カルピスソーダのミント添え。今日みたいに暑い日には、こういう涼やかなものを目で見て涼むのも風流だよね。炭酸がまだ効いてるうちにどうぞ」
バッグを適当な場所に置くと、野乃に好きな席に座るように促し、渉はさっそくカウンターで飲み物を作った。彼女が待つ窓際のテーブル席に運ぶと、野乃はそう言って笑った渉を見て、それからミントが添えられたグラスを見て、ほんの少し表情を和らげる。
ちなみにカルピスソーダは渉の調合だ。あまり炭酸がきつくならないように、微炭酸に調整したつもりだ。ミントも、もともとここに生えていたものを使わせてもらっている。
数年前までは空き家だったものを気に入り、購入したのだ。店舗用の一階部分は、渉がほとんど自分で改装した。二階はこの家を買ったときのまま使っている。前の人はものを大事に扱う人だったようで、目立った傷も痛みもなく、むしろ木のぬくもりがとても心地いい。店や生活に必要なものは知人に安く売ってもらったり、家具の処分に困っている人から譲り受けたりして、なんとか店の形になった。開店して丸二年になる。
「……美味しい」
ぽつりと感想を落とした野乃に、渉は満足げに笑う。どうやら、カルピスの味も炭酸の効き具合もちょうどよかったようだ。グラスの中で揺れるミントの緑が目に涼しい。
「珈琲店だから、コーヒーしかないのかと思ってました」
「そんなことはないよ。小さいお子さんを連れてくる人もいるし」
「そうなんですね。私、まだコーヒーの美味しさがわからないから。……コーヒー牛乳なら飲めるんですけど、無理にブラックに慣れようとしたら、お腹痛くなっちゃって」
「はは。そんなこともあるよ。缶コーヒーとかだと、けっこう癖のあるブラックもあるから。自分好みのブラックかどうかは、飲んでみないとわからないしね」
「……そうですよね。でも、どっちにしろ、私にはまだ早かったみたいです」
そう言ってふとグラスに目を落とした野乃の横顔に、窓から差し込む光が影を作る。
五月の連休最終日。午前中の気持ちのいい陽光と吹く風に揺れて、外の木の葉の影が窓辺のこの席までかかり、ゆらゆらと不規則にまだら模様を描いていた。
野乃の横顔に落ちたその影を見ながら、渉はふと、この子に本当のコーヒーを飲ませてあげたいと思った。彼女はどっちにしろ早かったと言ったけれど、本当に美味しいコーヒーは、やっぱり違う。渉は、そんなコーヒーを淹れたいと常に思っているのだ。
でも、まだここに来て十数分だ。いくら親戚で面識があるとはいえ、干支が一回りするくらい会っていなかった。受け答えはずいぶんしっかりしてきたが、下宿ということは、これから二人で過ごすことになる。きっと警戒心だってあるだろうし、転校先での不安もあるだろう。なにより、親元を離れた心細さはどうしたって渉には埋めてやれない。
「飲み終わったら、二階で荷物の整理をしてきたら? 先に宅急便で送ったものはもう届いてるし、学校の準備もあるでしょう。カウンター脇の階段から二階に上がってすぐの左の部屋が野乃ちゃんの部屋だから。バッグとキャリー、先に運んでおくね」
そう声をかけ、渉は野乃が手に持ってきた荷物を二階に運んでいく。ドアの脇に荷物をまとめて一階に戻ると、野乃は「ごちそうさまでした」と丁寧に頭を下げ、「じゃあ、お言葉に甘えて」と渉と入れ違うようにして階段を上っていった。
渉の手元には、すっかり空になったカルピスソーダのグラス。中の氷がカランと涼しげに音を立て、残ったミントが氷のひとつに引っ付いている。
「きっと、どうにもならない恋をしたんだろうな……」
それを見つめながら、渉は二階に引き上げていった野乃の横顔を思った。
言葉ではうまく説明できないけれど、渉には感覚的にわかるのだ。それに渉は、不思議とそういうものを引き寄せる引力のようなものを持っている。
野乃もまた、渉の持つ不思議な引力に引き寄せられた人のひとりなのだろう。
グラスを洗いながら、渉は思う。
野乃にとって、ここが宿り木のような場所に早くなりますようにと。
翌日。
あらかじめ渉が用意していた転校先の高校の制服に袖を通した野乃が、朝食の後、恥ずかしげに階段を下りてきた。渉はちょうど朝食に使った食器を洗い終わったところで、布巾で手を拭いているとトントンと軽い足音し、そちらを見ると野乃が紺色のセーラー服姿で階段の最後の二段を下りるところだった。目が合うと野乃は俯き、少し頬を赤くする。
叔父から、前の高校はブレザーだったと聞いている。思春期の女の子相手にどう感想を言ったらいいのか皆目見当もつかずに数瞬、固まっていると、
「……あの、似合ってますか?」
野乃が先に聞いてくれたので、渉は内心でほっとしながら、
「うん。よく似合ってるよ。サイズもちょうどよさそうだし」
下品にならないように細心の注意を払いつつも、野乃の制服姿を見たときに感じたままを感想として述べることに成功した。野乃のセーラー服姿は、本当によく似合っている。
過敏になりすぎて逆に下心が(渉はそんなつもりはないが)あるような言い方になっては野乃にも叔父夫婦にも失礼だけれど、あまり淡泊に言いすぎてもいけない。冷たい人だと思われたら、この下宿生活は野乃にとって苦痛でしかなくなってしまう。そのあたりのさじ加減が渉にはさっぱりだが、野乃が少し笑ってくれたので、今の言い方は下品でも下心があるでも、淡泊でも冷たくもなかったらしい。何はともあれ、よかった。
「あの、お父さんたちに言われて、わざわざ登校初日に間に合うように制服を用意してくれたんですよね。こっちでの転校手続きも、登下校に使う自転車も、全部渉さんが準備してくれたって聞きました。重ね重ねありがとうございます。助かりました」
「あ、いえいえ。俺は言われた通りにしただけだから」
「でも、迷惑……でしたよね」
「そんなふうに思ってたら、最初に断ってるよ」
不安そうに瞳を揺らす野乃に、渉はにっこりと眼鏡の奥の目を細める。
迷惑に思っていないのは本心だ。急に下宿の話をもらったので、その点でだいぶ、どうしようと思っただけで、いざこうして野乃がここに来てみれば、思ったよりなんとかなりそうだという気がしている。野乃は礼儀正しいし、きちんとしているし、お互いにいい感じの距離感が掴めたら、きっともっと、うまくやっていけるだろう。
「でもあの、本当に迷惑になったら、遠慮なく追い出してください。無理に下宿させてもらっちゃってるし、その……彼女さんとか、ここに呼びにくいと思うし」
「え」
「……え。います、よね?」
「いや、いないけど」
「あっ。ご、ごめんなさい」
「……いや。なんか、こっちこそごめん」
というか、一体俺たちは何について謝り合っているんだろう。ふとそんな疑問が浮かんだ渉は、真っ赤になって俯く野乃を見ていられず、中空に視線をさまよわせる。
きっと、そういうところまで気を回してしまうから、野乃は前の学校で疲れ果ててしまったんだろう。渉にはもう十年も前のことなので今のことはわからないけれど、もっと周囲にわがままでもいいのに、と思う。いや、そういう発想がもう、おじさんなんだろうか。
いやでも、まだまだ手探りで生活していかなければならない時期に、そんなことまで考えさせてしまうなんて、ここでの保護者としてどうなんだろうという気もする。
「……と、とりあえず、行ってきます。自転車、ありがとうございました」
「う、うん。いってらっしゃい。気をつけて」
ただ一つ確かなのは、初めて学校に送り出す朝なのに全然格好がつかなかったことだ。逃げるようにして出ていく野乃の背中に、渉は苦笑するしかなかった。
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