3
やがてその主婦たちも子供の手を引き帰っていくと、店内は一気に静かになった。夕飯前のちょっとしたブレイクタイムだ。子育てのことは渉にはまだよくわからないけれど、ご飯にお風呂に、小さい子には寝かしつけなど、まだまだお母さんは休めない。つかの間の休息時間になれていたらいいんだけど、と思いつつ、カップやグラスを片づける。
店内に残るのは、先ほど入ってきた女性客が一人。ゆっくりとコーヒーを楽しんでいるようで、手にはリネン生地のブックカバーをかけた文庫本を持っている。ときおりパラリとページをめくる。その間に、少しずつカプチーノが減っていく。
洗い物が終わると、店内はさらに静かになった。やることがないというわけではないけれど、渉もこの時間は自分用に淹れたコーヒーを飲みつつ本を読む習慣がある。カウンターの中には渉専用の椅子があり、客足が途切れたときなど、そこに座って自分も休憩するのが常なのである。椅子の上に置いていた単行本を手に足を組み、ページを開く。
――と。
「あの、友達から聞いたんですけど、このお店、失恋を美味しく淹れてくれるって……」
意を決したような声でカプチーノの女性客が口を開いた。ええ、と相づちを打つと、
「どういう意味なんでしょうか。その子、それ以上は教えてくれなくて」
と、彼女は言う。
パタリと単行本を閉じた渉は、それを再び椅子に置くと、代わりに新しいカプチーノを淹れはじめた。慣れた手つきで準備を進めながら、戸惑う女性ににっこりと笑いかける。
やはりそうだったか。初見のお客さんには、こういう人もわりと多い。
「そのお友達が言ったこと、そのままの意味ですよ。どういう因果か、僕のところには、そういうお客様が集まるんです。でも、僕には何の力もありませんから、大したことはできないんです。お客様の話を聞いて、一緒にコーヒーを飲んで。ただ、それだけです」
「そう……なんですか。でもあの、ここのコーヒーを飲んでいると、憑き物が取れたみたいに、すーっと心が軽くなるって教えてもらって……」
しかし女性は、あまり納得がいっていないようだった。先に頼んだカプチーノからは、憑き物が取れるような感覚がしなかったのもあるのだろう。現に、元樹君やお母さん方に応対している間に少し様子を窺うと、何度か首をかしげていたようでもあった。
でも。
「それはきっと、そのお客様がご自分で重かった心をほぐしたからなんだと思いますよ。僕は本当に、ただお客様と一緒にコーヒーを飲むだけなんです。いつも美味しいコーヒーを淹れて差し上げたいなと思っていますけど、美味しいかそうでないかは、お客様次第ですから。そのお客様が美味しいと思ってくださったなら、ご自分の力なんです」
渉に言えることは、これ以外にはない。
特別な力があるわけでもなければ、突出して人の心理を読み取るのが上手いわけでもない。人よりちょっとコーヒーを淹れるのが上手いだけで、その特技のおかげで、なんとか商売をさせてもらっている。まだ再会して二日目なので仕方がない部分も多いけれど、身内の野乃だってあの通り、ある一点については頑なに心を閉ざしている。
むしろ同い年なぶん、元樹君のほうが一歩リードというところかもしれない。悔しくないといえば嘘になる。渉はそんな、どこにでもいるコーヒー店の店主なのだ。
「……そうなんですね。なんか、変なことを聞いてしまってすみません」
「いえ。よろしかったら、お代わりのカプチーノ、いかがですか? サービスです」
「え、いや、そんな……」
「もう淹れてしまいましたから。嫌でなければ、もう少しごゆっくりしていってください」
そう言うと、女性はすっかり恐縮してしまいながらも二杯目のカプチーノに丁寧に礼を言い、ゆっくりと飲み終えると何度も頭を下げつつ帰っていった。
店の噂を頼りにやってくる人の中には、初めて会った渉を相手にあまり時間をかけずにすべてを話していく人もいれば、何度か店に足を運んでから話す人もいる。先ほどの女性はどちらだろう。見たところ手荷物はバッグひとつだったので、日帰り旅行の可能性と、近くの旅館に泊まる可能性と、どちらもありそうな気がする。
と。
「あ、お忘れ物だ……」
彼女のいた席の下に写真サイズの紙が落ちているのを見つけた渉は、テーブルの片づけもそこそこに、慌てて店の表へ飛び出した。彼女が落としたものに間違いないだろう。文庫本を取り出したときか、財布を取り出したときか、一緒に出てきてしまったらしい。
しかし、辺りを見回してみても彼女の姿はもう見えなかった。ほんの数分のことなのだが、気づくのが遅れてしまった。名前も、それこそ連絡先も知らないし、野乃を一人置いていくわけにもいかず、渉はしばし写真を手に途方に暮れる。
拾ってみると、指の感覚から、それはやはり写真だった。誤って表側を見てしまわないように慎重に拾っていたら、洗い物を終えたばかりで手がさらついており、なかなか上手く拾えず、またそこでも少々の足止めを食らってしまったのだった。
「気づいて取りに来てくれるといいんだけど……」
渉は後ろ髪を引かれる思いで店に戻る。外はもう、とっぷりと日が暮れ落ちている。壁の時計を見上げると、もうそろそろ午後七時になろうかというところだった。
ここからの時間帯は、本当にもうお客さんは入らない。店を開けているだけ赤字だと前に源蔵さんに言われたが、返す言葉もない。でも、今日も開けておかなければ。すぐに気づいて取りに来てくれたときに店が開いていなかったら、あの女性が落胆してしまう。
「野乃ちゃん、今から晩ご飯作るね。もうちょっと待ってて」
気を取り直した渉は、二階の野乃に向けて声を張ると、冷蔵庫からさっそく源蔵さんにおすそ分けしてもらった鰹をまな板の上に乗せた。ここに来てから、魚のさばき方もずいぶん上手くなった。今夜は源蔵さんにも言っていた通り、初鰹でタタキだ。
野乃からの返事はなかったが、三十分ほどして、彼女が階段を下りてきた。どうやら、渉の声はちゃんと聞こえていたらしい。午後八時にはご飯も炊けてタタキも出来上がり、二人で適当なテーブルについて少し遅めの晩ご飯とする。
少し考えて、元樹君の父親である源蔵さんが捕った鰹だということは、言わないでおくことにした。元樹君がよろしくと言っていたとだけ伝えると、野乃は少しだけ嫌そうな顔をしたものの、帰ってきたときのように、あからさまに不機嫌ではなかった。
写真を落としていった彼女は、その日は戻ってこなかった。今頃、落としたことに気づいて焦っているんじゃないかと思い、閉店時間を過ぎてもしばらくは店の明かりを落とさずに待ってはみたけれど、午後九時を過ぎても、店のベルは鳴らなかった。
翌日。
昨日と同じくらいの時間に、例の写真の彼女がまた店を訪れた。渉はほっと息をつくと相好を崩し、カウンターの隅に置いていた写真を彼女に手渡す。写真を表に返して確かめた彼女は、大事そうに手帳にそれを挟み、心底よかったというように長く息をついた。
「すみません、わざわざ。落としたことに気づいたのが寝る直前だったんです。もうお店も終わっているし、取りに行ったら迷惑かと思って……」
「いえ、そんな。こちらこそ気づくのが遅くなってすみませんでした。すごく大切な写真なんですね。……あの、昨日はあのあと、どちらに? ご旅行でしょうか?」
「あ、昨日は近くの花(はな)幸(さき)旅館に泊まったんです。旅行というか、有休消化みたいなものです。明日からまた仕事なので、もう一杯コーヒーを頂いてから帰ろうかと」
尋ねると、よく知った旅館の名前が出てきた。
渉も定期的に、コーヒー豆を卸したりコーヒーメーカーの掃除やメンテナンスに出向いている。今度伺うのは月末だ。恋し浜珈琲店の定休日は日曜日のみだが、毎月、最終月曜日だけは日曜日から続けて連休にすることにしている。治親さんのところへ御用聞きに伺ったり、新しいコーヒー豆を買いに行ったり、裏方の仕事に集中する日だ。
「そうなんですね。そこにもこの店のコーヒー豆を卸しているんですよ」
「え、そうなんですか。今朝もご飯のあとに飲んだんですけど、全然気づかなかった」
そう言って目を丸くする彼女に、渉はふふと笑って眼鏡の奥の目を細める。昨日は初めて入った店だったこともあって緊張していたのだろうけれど、今日の彼女は表情がある。失くしたと思っていた写真も見つかり、気が緩んでいるのかもしれない。
「でも、やっぱりプロの方に淹れて頂くコーヒーが一番美味しいですね。よく自分でも淹れるんですけど、いまいち美味しさに欠けるっていうか」
「恐れ入ります」
恭しく一礼した渉に、彼女のいたずらっぽい笑い声が重なる。顔を上げた際に見た彼女の笑顔は、そこにぽっと小さな花が咲いたように可憐だった。
またカプチーノを、と言う彼女に好きな席で待ってもらうことにし、渉はさっそくカプチーノを二つ、淹れることにした。片方は自分用だ。渉も飲みたくなった。
しばらく豆を挽く音や湯を沸かす音、フィルターに移した挽きたての豆に湧いた湯を注ぐコポコポという音が店内に響く。濃厚なコーヒーの香りが店の中を埋め尽くすように立ち上り、それとともに黒い液体がドリッパーに落ちていく。
昨日のこの時間は賑やかだったけれど、今日は静かである。昨日のお母さん方は、良くも悪くも一昨日から下宿をはじめた野乃が物珍しくて顔を見に来たのだろう。
渉も二年前はそうだった。じきに慣れるよ、と心の中で野乃に小さくエールを送りながら、最後に泡立てたミルクを注いで、一つを彼女の待つテーブルへ運んだ。
「……あの、私の話、聞いてもらえませんか?」
彼女がまた意を決したような声で口を開いたのは、渉がいつもの椅子――カウンターの中にある休憩用のそれに腰掛けたときだった。「昨日はほかにお客さんもいたし、話を聞いて来てはみたけど、なかなか勇気が出なくて」と彼女は言う。
「ええ、もちろん。僕でよければお伺いさせていただきます。でも、昨日言ったように、僕には何の力もありません。それでもよろしければ、お聞かせいただけたらと思います」
そう言うと彼女は「構いません」と微笑し、先ほど手帳に挟んだ写真を取り出した。
「私が勝手に話すだけです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます