彼女――新藤文香しんどうふみかさんには、大学時代から卒業して三年経つ今でもよく集まるサークルのメンバーがいるという。男女合わせて七人で、男性が三人、女性が四人の、〝金魚倶楽部〟という名前の一風変わったサークルだったそうだ。

 その名の通り縁日で取った金魚を飼育するという地味な活動内容で、大学側からは非公認だったらしい。今でもそのサークルがあるかはわからないけれど、と前置きした上で、文香さんは「卒業のときにみんなで分けた金魚、私のは死んでしまって……」と言う。

「大学時代の最後の飲み会で、みんなでふざけ半分で決めたんですよ。三年経っても金魚が生きていたら、その人同士はもう金魚が選んだ運命の相手なんだから結婚だ、って」

「……それはまた、思いきったことを」

 渉がどう返したらいいか考えあぐねてそれだけを言うと、文香さんは、

「ほんと、そうですよね。お酒が入っていたからって、金魚に運命の相手を決めてもらうなんて、ちょっとバカでした。もちろん、男同士、女同士だった場合は無効ってことになりましたけど、残った金魚が男二人に女一人なんていう複数の場合はどうするのかは、だいぶお酒が入っていたので、あやふやままで終わって……。あ、でもみんな、生き物の面倒を最後まで見る優しい人たちです。だから倶楽部が成り立ってて」

 と、最後のほうはやや焦ったように言った。きっと、生き物をそういうことに使ってしまった負い目からくるものなのだろう。渉は大丈夫ですよと目を細めて、

「わかってます」

 一つ、ゆっくりと頷いた。

 文香さんは、命を粗末に扱うような人にはとても見えない。さっき「死んでしまって」と言った彼女の表情には、金魚を死なせてしまった後悔の色が濃かった。

 ほっとした顔で渉を見ると、文香さんは続ける。

「ありがとうございます。それで、今年の三月ですかね。そろそろ三年経つけど、みんなどうだ? って連絡があって、みんなでなんとか都合をつけて七人で集まって。……だいぶ酔ってはいましたけど、そういう決め事はみんな、どうしてだか覚えているものなんですよね。その席で男性側と女性側の金魚がそれぞれ一匹ずつ健在だって話になって、その二人、なんだかんだで付き合いはじめてしまったんです」

 はぁ、と一つ息をつき、文香さんはカプチーノを一口含む。渉も一口、自分のカップを口元に運んだ。泡立てたミルクが蓋をして、まだ中は熱い。美味しい。

 ソーサーにカップを戻した文香さんは、少し笑って再度、口を開く。

「私、その彼が好きでした。ずっと片想いです。住んでいるところは離れてますけど、意外と職場が近くて。けっこう頻繁に連絡を取り合って、仕事の愚痴とか他愛ない話とか、よく居酒屋なんかでしてました。そのうち、だんだん好きになっていったんです。だから願掛けのつもりだったんですよ。なんとか三年、金魚を長生きさせられたら、もしかしたら付き合えるかもしれないっていう。それで頑張って世話を続けていたんですけど、今年の二月の終わり頃にあっけなく死んでしまって。そのことは、彼には言い出せませんでした。新しい金魚を飼おうかなんて邪なことも考えましたけど、結局、それもできないまま三月に集まることになって、彼はサークルのほかの子と付き合ってしまいました」

「文香さんは、彼に気持ちを伝えなかったことを後悔していますか?」

 尋ねると彼女は、わかりません、と苦笑をこぼした。

「あのときの決め事にこだわっているとか、もっと言うと囚われているとか、そういうつもりは全然ないんですけど、金魚鉢の中で力なく浮いている金魚を見つけたとき、ああ、終わった……って心のどこかで思ったのも確かで。でも、いざ二人が付き合いはじめたって知ると、当たり前のように嫉妬もしてしまうんです。私だって一生懸命お世話してたのにどうして、なんて、彼女に対して恨み妬みもいいところですよ。そういうのもあって、なんだかもう、気持ちまでぐちゃぐちゃになってしまって……。今はもう、私はあのときどうしたらよかったんだろうって。そればっかり、考えてしまいます」

「そうでしたか……」

 一つ相づちを打つと、しかし彼女は、はっと顔を上げる。

「でも、逆に考えると、フラれなくて済んだってことになりますよね。金魚がきっかけでしたけど、二人の付き合いは順調だって聞いてますし、彼も彼女と付き合ったということは、私はもともと、ただのサークル時代からの友達っていうポジションだったんだと思います。……少しずつ臆病になっていくんですよね、大人になると。無駄に傷つきたくないし、変なことでやきもきしたくないし。きっと私の金魚は、そういう私の心を全部見透かしていたんじゃないかって、今になって思ったりもするんです。ここらが諦め時なんじゃないのって、潮時なんじゃないのって、そう教えてくれていたのかもしれません」

「そうかもしれませんね。文香さんがそう思うのなら、きっとそうなんだと僕も思います」

「ですよね。もともと叶わない恋だったんです。深手を負う前に失恋してよかった」

 何かを言い聞かせるような彼女の口調は、聞いていて胸が痛かった。でも、大人になっていくにつれて臆病になる――その一言に共感する部分も多い。

 年齢を重ねていくと、望むと望まざると、変に守りに入ってしまって、傷つくことを恐れてしまうのだ。大学を卒業して三年ということは、文香さんたちは二十五歳くらいだろうか。渉の歳でも傷つくのは怖い。片想いをしていたのなら、なおさらだろう。

「たまたま友達からこのお店の話を聞いて、有休消化と傷心旅行を兼ねて二泊三日でここに来て。ぼんやりと海を眺めながら恋し浜を散歩していたら、ふと、そんなことを思うようになりました。打算的かもしれないけど、これでよかったんですよ」

「はい」

「でも店長さん、本当に話しか聞いてくれませんよね」

 すると文香さんがテーブルから少し身を乗り出して言った。

「……え?」

「なんかこう、もっと慰めたりアドバイスをしたりするのかなって」

 いたずらっぽい笑みだ。渉は少し返答に迷いつつ、

「すみません、アドバイスなんてできるほど、恋愛経験がないんです」

 カップを持つ手と反対の手で苦笑混じりに後頭部を掻いた。

「そうなんですか? 優しい顔立ちだし口調も穏やかだし、モテそうなのに」

「いえいえ。若年寄なんて言われて全然ですよ」

「私が失恋したばっかりだからって、謙遜……とかじゃないですよね?」

「はい。びっくりするくらいモテません」

「……ぷっ」

 たまらず吹きだす文香さんに、渉も笑う。

 でも、本当にそうだ。渉のところにはこうして失くした恋を抱えたお客様がときどき店を訪れるけれど、昨日文香さんにも言ったように、渉はただ、お客様がぽつりぽつりとこぼしていく話を聞いて、一緒にコーヒーを飲むだけだ。しかもそれだって、渉が勝手に一緒に飲んでいるというだけのことである。お客様のいる前で堂々と休憩するなんて、自分でも逆にどうかと思っているくらいだ。だからコーヒー豆の減りも意外と多い。

 馴染みのお客様たちからのおすそ分けがなければ、渉はとうに生活できなくなっていただろうし、律義に代金を置いていってくれる源蔵さんらがいなければ、この店だって早い段階で畳むことになっていたかもしれない。彼らを当てにしているというわけでは、けしてないけれど、頼りきってしまっているなという自覚は、ずいぶん前からある。何かお礼をしなければと常々思っているが、それもどうしたらいいのやら……。

 いや、思考が少し脱線してしまった。

「どうですか? カプチーノ、美味しく感じられるようになってきました?」

 気を取り直して尋ねると、文香さんは手帳の上に置いた写真を愛おしそうに撫で、

「はい。だいぶ」

 と笑った。話しはじめるまではずいぶん思い詰めた顔をしていたけれど、なんの後腐れもない渉に話したおかげで、少しずつ表情が明るくなってきているようだった。

 ここに訪れる人の中には、ある程度自分の中で答えを出して来る人も多い。何かの本で読んだことがある。口に出した時点で、それはもう〝答え〟になっているのだと。

 彼女がそれでいいと思っているならそれでいいのだ、と渉も思う。「フラれなくて済んだ」と言ったときの、はっと思いついたような顔が少し引っかかるような気もしないでもないけれど、今、カプチーノに美味しそうに口をつけている文香さんの顔には、穏やかな笑みが広がっている。手元の写真は、その〝金魚倶楽部〟のメンバーが集まっている写真だろうか。それに懐かしそうに目を細める彼女には、昨日の陰はもうない。

 きっと彼女は、気分転換にここを訪れてくれたのだ。少しはいい気分転換になってくれているといいんだけど、と思いつつ、渉も残りのカプチーノに口をつけた。


 その後、少しして、文香さんと入れ替わるようにして野乃が学校から帰ってきた。今日も彼女の半歩後ろには元樹君の姿があり、野乃はあまり機嫌がよろしくない。

「……あの、渉さん。さっき帰ってくるとき、昨日店にいた女の人が泣きながら歩いていたんですけど、何かあったんですか? 私たちとすれ違うときも全然顔を隠そうとしなかったし、あんなに泣いてどうしたのかなって心配になってしまって」

 けれど、こういうところは昔と変わらず、野乃は優しい。自分のほうにどんな理由があっても他人ひとのことをまず一番に気遣うところは、渉も幼い野乃と遊んでいたとき、何度も感じていたことだ。あくびを噛み殺すと『おにいちゃん、ねんねする?』と可愛らしく首をかしげて聞かれたり、誤って柱や戸の角に足の小指をぶつけて悶絶していると『いたいの、いたいの、とんでいけー』なんて言って、小さな手で一生懸命さすってくれたり。

 自分だって眠かったり、テーブルの角におでこをぶつけて大泣きしたあとだったりしていたのに、野乃は小さい頃から人の様子や痛みに敏感な子だった。今も同じだ。

 そんなことを連鎖的に思い出しながら、渉は、大丈夫だよと野乃に笑いかける。野乃との思い出は数える程度しかないと思っていたが、案外、忘れていただけだったようだ。

「お客様のプライバシーに関わることだから、詳しいことは言えないんだけど、俺のところには、失恋をした人がよくふらっと来るんだ。そういうことだよ」

「……そう、ですか」

「うん。でも、心配なら追いかけていってもいいんじゃないかな。一人で抱え込んでいてもどうにもならないこともあるし、赤の他人に話すことで気が楽になることもあるから」

 そう言うと、野乃は数瞬、瞳をさまよわせたあと、リンリンとドアベルを鳴らして店の外へ飛び出していった。やっぱり心配だったようだ。文香さんのほうも、渉の前では涙一つこぼさず気丈に笑ってみせていたけれど、胸中はまだ複雑なのだ。

「渉さん、俺はどうしましょう……?」

 野乃の姿が見えなくなると、弱りきったように元樹君が口を開いた。

 渉は「ははっ」と笑うと、

「野乃ちゃんが心配なら、今日もスプライト飲みながら待っとく?」

「……はい、じゃあ」

 困り顔で笑う元樹君を店の中へ招き、さっそくスプライトをグラスに注いだ。


 しかし、午後六時を過ぎても野乃はなかなか戻ってこなかった。辺り一帯は茜色に染まり、その色が店からも臨める海面に反射してキラキラと揺らめいている。

「……野乃のやつ、ちょっと遅くないですか?」

「そうだね、どこまで行ったんだろう」

 元樹君と二人、暮れなずむ海を眺めて嘆息をもらす。

 野乃が元樹君とともに学校から帰ってきたのは、午後四時半頃だった。今の時刻は六時十分。寄り道をして帰るにはまだ十分に早い時間帯だけれど、やはり保護者の身としては一時間半も出かけたきりというのも、なかなかに胃がしくしくと痛むものだ。

 恋し浜界隈の治安は、言わずもがな、いい。赴任してくる駐在さんともすっかり顔馴染みのここの人たちは、とれた魚や野菜などを駐在さんにもおすそ分けしている。なので、そういう面での心配はするだけ無駄だというものだけれど……。

「今日もあいつ、クラスの女子に話しかけられても反応薄くてさ。ていうか、集団で来られると、やっぱどうしてもビクついちゃうところがあって。心配だからそばにいてやりたいんだけど、そういうの、野乃にとっては迷惑でしかないのかな……?」

「そこなんだよね。俺も野乃ちゃんにどこまで踏み込んでいっていいのか、ちょっと測りかねてる部分がまだまだあってさ。良くも悪くも〝人〟に敏感に反応する子だから、俺もそこらへんを心配してるんだ。戻ってこないことはないと思うけど、心配だよね」

「ですよね……」

 いかんせん、野乃は今、不安定だ。渉と元樹君の心配は尽きない。

「……俺、やっぱ、ちょっと探してきます」

 元樹君がそう言って立ち上がったのは、それから数秒もしないうちだった。野乃を待つ間、ずっと行こうかどうか考えていたのだろう。明日も夜中から源蔵さんを手伝って漁に行くのに悪いな、と渉は申し訳なく思う。でも元樹君のおかげで渉の腹も決まった。

「俺も一緒に行くよ。ここで気を揉んでたって仕方ないしね」

 心配なら迎えに行けばいいだけの話だ。午後六時を過ぎれば、お客様は入らない。

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