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そうして二人は店を一時閉店し、野乃を探しに行くことにした。ここに来てまだ三日、土地勘もないことだし、文香さんを追いかけたはいいが、そのうち迷ってしまったことも考えられる。のどかな海辺の町だが、路地はけっこう入り組んでいるし。
とりあえず町のメインストリートのほうへ足を進めながら、恋し浜の海岸を左手に元樹君と並んで歩く。野乃や元樹君が通う邦陽高校は、男子は学ラン、女子はセーラー服だ。白無地のワイシャツにタイトな黒パンツを合わせ、腰回りにこげ茶色のショートエプロンを付けた渉が学ラン姿の元樹君と並んで歩くと、あまりにミスマッチな二人組すぎて、渉は少々、居心地が悪くなる。要は、けっこう恥ずかしいのだ。かたやこちらは三十路手前のしがないコーヒー店の店長で、かたや向こうはキラキラ輝く高校生。十二歳も年下の男の子を相手に不思議なのだけれど、その若さに尻込みしてしまう部分がある。
「あ、渉さん。あそこにいるの、野乃と……」
「うん。さっきまでウチにいたお客さんみたいだね」
そんなことを苦笑混じりに考えているうちに、元樹君が目当ての人物を発見した。彼の視線の先を辿って言葉を引き継ぐと、朽ちた流木に腰掛けて話し込んでいる女性二人の姿が、シルエットのように浮かび上がっていた。文香さんの足元には、大きめのボストンバッグがひとつ。コーヒーを飲んでから帰ると言っていたし、今日、店に来たときは、昨日と同じ軽装だった。どうやら文香さんはカプチーノを飲んでから花幸旅館をチェックアウトしたようだ。そして今は、野乃とああして何かを話し込んでいる。
「野乃」
元樹君が声をかけると、野乃と文香さんは弾かれるようにしてほぼ同時に振り向いた。野乃の目元にも文香さんの目元にも真新しい涙が光っており、驚いて目を見開いた瞬間、目の縁に溜まっていたそれが野乃の目元から頬へと静かに滑り落ちていった。
「ご、ごめん。帰りが遅いから、心配で……」
「ちょっと話し込んじゃっただけだから。もう戻るし」
野乃の涙に気づいた元樹君が気まずそうに顔を背ける。野乃もまた、急いで目元の涙を拭って憎まれ口を叩く。お互い、不意打ちすぎて耳まで真っ赤だ。こんなときにこういうことを思うのは空気が読めないみたいで自分でも嫌だけれど、二人とも可愛い。
渉が思わず目を細めてしまうと、そんな二人のやり取りを見ていた文香さんも同じことを思ったらしく、目尻の涙を指でそっと拭いつつ、口元をふっと緩めた。
「私があんまり大泣きしているから、心配で追いかけてきてくれたんですよ」
ね、野乃ちゃん? と、文香さんが野乃に笑いかける。
「そうだよ。迎えに来てもらわなくても、ちゃんと帰れるんだから」
「はぁ⁉ お前、こっちがどれだけ心配したと思って」
「
「なっ……!」
野乃のあまりの素っ気なさに元樹君が言葉を失う。ちなみに、元樹君の名字は汐崎だ。汐崎元樹――源蔵さんの船の名前は『元気丸』。元樹くんが生まれたときに船と船の名前を一新し、それから十七年間、その船とともに海に出ている。
「まあまあ、野乃ちゃんも元樹君も。お客様の前なんだから、それくらいにしておこう」
渉が割って入ると、野乃と元樹君は渋々と口を噤んだ。けれど目はまだまだお互いに言い足りないと主張し合っていて、口元もへの字に曲がっている。店に戻ったら、やいやい言い合うかもしれないな、なんて思いつつ、渉は文香さんへ視線を向けた。野乃にとって元樹君の存在は良くも悪くも刺激になっているようだ。願わくば、プラスのほうに向いてくれたら、渉も野乃の保護者として少しは叔父夫婦に面目が立つのだけれど。
それはともかく。
「文香さん、本当は、全然納得できていないんじゃないですか?」
「え?」
「まだお時間が許すようでしたら、もう一杯、飲んでいかれませんか? コーヒーが本当に美味しく感じられるようになるまで、僕たちにお手伝いさせてください」
渉は野乃と元樹君、それからもう一度文香さんを見て、眼鏡の奥の目をふっと細める。
ただ黙ってお客様の話を聞いているだけでは、淹れたコーヒーが美味しく感じられないこともあるのだ。一人でダメなら、二人、三人で話を聞こうと思う。たとえ文香さんがどんなに複雑な胸中をしていても、ここにいる自分たちは何一つ咎めない。彼女が本当は何を望み、どうしたいと思っているのか、じっくり話を聞いてみよう。
ここは恋し浜珈琲店だ。ゆっくりとコーヒーを飲みながら。
再び四人で店に戻ると、渉はさっそく文香さんのリクエスト通り、三度カプチーノを淹れた。店内に濃厚なコーヒーの香りが立ち、そのいい匂いに鼻孔がくすぐられる。
店に戻る道すがらに尋ねると、文香さんは幸い、まだ電車の時間に余裕があるそうだ。聞けば隣県から旅行に来ているそうで、遅くとも明日の始発にさえ乗れれば仕事には間に合うという。話が長くなるようなら店に泊めてもいいと渉は考える。店舗兼住宅には野乃もいることだし、そのへんは特に警戒はされないだろう。といっても、文香さんさえよければ、という話だけれど、その場合はケースバイケースとしよう。
元樹君のほうも、嫌がる野乃と並んで店に戻る途中に、今日は遅くなる旨を家に連絡していた。引き留める形になってしまったのはこちらなので、遅くなるようなら晩ご飯と、遠慮するかもしれないけれど、あとで家まで送ってあげようと思う。
「お待たせいたしました、カプチーノです。野乃ちゃんと元樹君にはアイスコーヒーね。砂糖とミルクはテーブルに備え付けのがあるから、いい味に調整してね」
「ありがとうございます」
「ごちそうになります」
「いただきます」
三人でテーブルについている文香さんたちの前に、それぞれカップとグラスを置く。めいめいに礼を言う三人に目を細めると、渉も自分用に淹れたブレンド手に元樹君の隣に腰を落ち着ける。四人掛けのテーブル席には、壁際に文香さんと野乃が座り、カウンターに背中を向ける格好で渉と元樹君が座る、という形になった。先ほどは渉はカウンターの中の定位置で文香さんの話を聞いていたが、今はこちらのほうがいいだろう。
営業中は二階に引っ込んでいる野乃が店の中にいる。それに、せっかくこうして濃密に関わることになったのだから、渉だけカウンターの中というのも、いささか変な話だ。
「すみません、何度もお店に足を運んでしまって……」
カプチーノに一口、口をつけると、まず文香さんがそう謝った。
「それに、野乃ちゃんにも元樹君にも迷惑かけちゃって」
「いえいえ。ここにいる誰も、文香さんのことを迷惑になんて思っていませんよ。ただ心配なだけなんです。本当はどう思っていらっしゃるのか、お聞かせいただけませんか?」
渉がそう切り出すと、文香さんは、首を振って否定している野乃や元樹君を見てありがとうと笑い、カップの中に目を落とした。「本当は、まだ全然諦めきれていないんです」
それからの文香さんの話は、諦めようとしているが気持ちが追いつかない、という話に終始した。野乃と話し込んでいる間もそのような話をしていたそうで、思いきって写真を海に投げたら恋心ごと忘れられるんじゃないかと本当に海に投げたところ、野乃が横から飛び出して海水に濡れたそれを拾ってくれたのだという。
「大事そうに眺めていたのにどうして捨てるの、って野乃ちゃんに怒られました。あと、海の中の生き物たちの迷惑になるから、そういうのやめて、って」
「……あのときはすみません」
お互いにそのときの場面を思い出しているのだろう、文香さんはおかしそうにクスリと笑い、野乃は申し訳なさそうに顔を俯かせる。野乃の向かいの元樹君は、野乃がそういうことをするタイプだとは思っていなかったようで、目を瞠っている。でも渉は、話を聞きながら、野乃ならそうするだろうなと妙に納得したようなところがあった。
昔、渉もぐしゃぐしゃに丸めた手紙をごみ箱に捨てたことがあったのだが、しばらくすると野乃がしわを伸ばしたそれを持ってきて『たいせつ、でしょ?』と叱られたことがあった。きっと、ごみ箱に投げ捨てる前にずいぶん躊躇していたところを偶然にも見られていたのだろうと思う。それにしても、野乃のそういう勘は本当に鋭い。
「でも結局、いざ流されていく写真を見たら、きっと私も海に入って拾ってたんですよ」
そう言った文香さんは、ハンカチに丁寧に包まれた写真を取り出し、
「――これなんですけどね。みんな若いし、いい顔してるでしょう。サークルをはじめるときに、記念に初代メンバーで撮ったんです。……これだけなんですよ、私が彼の隣に写っている写真って。ほかにも写真はいっぱいあるんですけど、これ以外は全部、私はサークルの女の子と写っていたり、彼以外の男子メンバーと写っていたりしてて」
と、渉たちに写真を向けた。
「当時は好きでもなんでもなかったんですけど、不思議なことってあるものですよね。まともなツーショットすらないんです。まるでその当時から私の恋は叶わないって結果が出ていたみたいに思えません? なのに諦められないなんて、笑っちゃいます」
見るとその写真には、数年前の文香さんと、ほかに六人が写っていた。前に三人、後ろに四人。前の三人のうちの真ん中の男性が大玉スイカほどの鉢の中に数匹の金魚を泳がせた金魚鉢を持っていて、その右隣が文香さんだった。ということは、この金魚鉢の彼が文香さんが今でも諦められない恋の相手ということになる。背景は大学内にあるサークル棟の一室だろうか。けっこう雑然としているけれど、みんな楽しそうだ。
「野乃ちゃんには、大泣きしてるところと、海に写真を投げるところと、二度もみっともないところを見せちゃったけど、この写真があるから頑張れてるんですよね。心の支えっていうんでしょうか。就職したての頃とか、本当によくこの写真に助けてもらって」
切なさと懐かしさを同居させたような顔で、文香さんは続ける。
「でも、これがあるから、心から祝福できない部分が私の中に確かにあるんです。店長さんに話したことをさっき野乃ちゃんにも話していたんですけど、金魚が三年生きるかどうかにこだわっていないで告白してたらどうなっていたんだろうなって、そんなこともやっぱり考えてしまうんです。店長さんには、深手を負う前に失恋できてよかったなんて言いましたけど、今でも不毛な幻想を抱くんですよ。いっそ奪ってしまえたら――なんて、彼女とも友達なのに、そんなことを平気で思えてしまう自分が怖くて、嫌いです」
「……」
「……」
「……」
それからしばし、誰も口を開けなかった。文香さんの胸中は思っていたよりずっと複雑で、すぐには誰も何も言えなかったのだ。文香さんがカプチーノに口をつけ、それをソーサーに置く、カチャリ、という静かな音だけが、店内に小さく響く。
文香さんは本気で彼が好きなのだ。だから、こんなにも胸を痛めている。
――と。
「ねえ、この人……視線が少し、文香さんのほうを向いてるような気がしない?」
野乃が向かいの席の元樹君にそう尋ねた。
「え?」
「ずっと飾ってたみたいだから日に焼けてるし、さっき水にも濡れたから少しわかりずらいかもしれないけど、この後ろの左端の人、やっぱり文香さんを見てるように見える」
写真を覗き込む元樹君に、この人、と指で指し示しながら、野乃は確信を深めたような声で言う。顔を見合わせた渉と文香さんも元樹君の横から写真を覗き込む。
見ると確かに、その人――朗らかに笑っている男性は、文香さんに視線を向けているようにも見えなくもない。けれど、いかんせん写真の状態がそれほど良くはないので、野乃が示したその男性が本当に文香さんに視線を向けているのかどうかは、渉には判断が難しかった。〝ような気〟だから、男性の視線も傍目にはちゃんとカメラを向いているように見えるのだ。野乃を除く三人は、曖昧な表情で目を見合わせ合う。
「やっぱそうだよ。文香さん、帰ったらすぐにほかの写真も見てみてください。なるべくみんなで写っている写真がいいと思います。最近、みんなで撮った写真があるなら、それも。……もしかしたら、気づいていないのは文香さんのほうかもしれません」
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