そう神妙に、けれど少しだけ口元を綻ばせて断言する野乃に、渉たちは数瞬、虚を突かれる。野乃の中で一体何が閃いているのだろうか。人の心の機微にひどく敏感な野乃だからこそ気づけた何かがそこにはあるのだろうけれど、渉にはさっぱりだ。

 すると、文香さんが「あっ!」と声を上げた。

「三月に集まったときにみんなで撮った写真なら、私のスマホにあります。一人のスマホで何枚か撮って、よく撮れているものをほかのメンバーにも転送したので」

 話している時間も惜しいというように、文香さんがやや早口で喋りながらショルダーバッグの中からスマホを取り出す。何度か画面をスクロールさせて見つけた写真を見た彼女は、再び「あっ……」と声を上げた。今度は静かな驚きの声だった。

「どうぞ」

「はい」

 そうして渉たちも見せてもらうと、文香さんに視線を向けているように見えた男性は、やはり今回もそう見えるか見えないかという微妙なライン上でカメラのほうを見つつ朗らかに笑っていた。口が大きく目は垂れ気味で、全体的に癒し系の顔立ちだ。

「……やっぱり。きっとこの人も、金魚を長生きさせてあげられなかったことを文香さんと同じように思っていると思います。あと、ちょっとほっとしてるのかな」

「どういう意味だ?」

 さらに確信を深めたような野乃の声に、ますます訳がわからないといった様子で元樹君が尋ねる。野乃はあからさまに「はぁ……」とため息をつくと、

「絶対そうだとは言いきれないけど、この彼、文香さんのことがずーっと前から好きなんだと思う。文香さんも、なんとなく思い当たる節があるんじゃないですか?」

隣で俯いている文香さんに穏やかな声で尋ねた。

 野乃の考えは、こういったものだった。

 大学時代から文香さんのことが好きだった彼――上尾(あげお)良介(りょうすけ)さんというらしい――は、その想いを伝えられないまま卒業となり、今に至る。仲のいいサークルだったということなので、連絡はけっこうマメに取り合っていたと仮定すると、そのうち文香さんが金魚鉢の彼を好きになったこと知る機会は、そんなに遅くはなかったはずだという。

 そこで、大学時代最後の飲み会の席でふざけ半分で決めた〝金魚が三年後まで生きていたら、その人同士は結婚する〟というおかしな約束事が効いてくる。

なかなか自分の想いを告げられない上尾さんは、文香さんがほかの人に恋をしていることもあって、一か八か、それに賭けたのだ。自分の金魚を長生きさせて、もし文香さんの金魚も生きていたら、そのときは金魚の力を借りてちゃんと告白を――と。

 でも、上尾さんの金魚も文香さんの金魚も三年後までは生きられず、文香さんは金魚鉢の彼に失恋してしまった。それでも上尾さんは、何年も静かに燃えていた恋の炎をそう簡単に消すことなんてできなくて、ついつい、文香さんを目で追ってしまうのだ。

 それが、サークルを立ち上げたときの記念写真や、つい最近の集まりでの写真に密かに現れているんじゃないかと野乃は言う。だから〝ちょっとほっとした〟なのだ。文香さんが金魚鉢の彼に失恋してくれたおかげで、今も彼女はフリーのままなのだから。

 そこまで言って野乃がアイスコーヒーを含むと、代わりに文香さんが口を開いた。

「……そういえば上尾君、けっこう職場が離れてるのに、私が元気のないときとか、会社帰りによく飲みに誘ってくれたり、彼のことで相談したときも、どこか苦しそうな顔をしてたように思う。切なそうっていうか、つらそうっていうか、相づちもなんだか元気がなかったし、いつもは笑いかけられたこっちまで幸せになるような温かい笑顔をする人なんだけど、そのときはどうしてだか、すごく寂しそうだった……」

「ちなみに、上尾さんにここに旅行に来ることとか、来ていることは……?」

「あ、知ってます。ちょうど昨日の夜に【有休消化で来ている旅行先でサークル立ち上げのときの写真を失くしたみたいで、どうしよう】ってLINEをして。すぐに【旅行先ってどこ?】って返事があったから【恋し浜に来てる】って返したんです」

 渉が尋ねると、文香さんは弾かれるようにして顔を上げ、まさか、という顔をした。それからゆっくりと店の窓のほうへ顔を向け、何かを探すように視線をさまよわせる。野乃も元樹君も、もしかして、という顔で文香さんと同じように窓の向こう――ときおり車が通る程度の外の道路に目を向けている。渉もそうだった。

 写真を失くして落ち込んでいる文香さんを心配して上尾さんが来るんじゃないか。

 四人とも、そんな気がしてならないのだ。

 すると、申し合わせたようにスーツ姿の男性が店の前を通り過ぎていった。下ばかりをキョロキョロと見て歩いていく後ろ姿に、文香さんの「あっ」という声と席を立つガタガタという忙しない音が重なる。――上尾さんだ。こちらに背を向けているので顔はわからないけれど、文香さんの様子からも、上尾さんで間違いないようだった。

「……ちょっと行ってきます……!」

 リンリンと騒がしくドアベルを鳴らして文香さんが駆けていく。そのまま少し様子を見守っていると、追いついた文香さんに声をかけられ振り向いた上尾さんは、一瞬すごく驚いた顔をしたけれど、すぐにあの写真のように朗らかに笑い、照れくさそうに後頭部に手を当てた。ここからでは二人の話し声なんて聞こえるはずもないのだけれど、上尾さんも文香さんも笑っている。お互いに両手で口元を覆ったり拳を当てたりして、クスクスと。

「さて。もう一杯、カプチーノを淹れてこようかな」

 そう言って渉は席を立つ。そんな渉を見て、野乃と元樹君も嬉しそうに笑った。


「すみません、急に飛び出していってしまって……」

 それから数分して、再びドアベルがリンリン、と鳴った。先ほどよりも軽やかに聞こえるその音に、フィルターに移したコーヒー豆に湯を注ぎながら顔を上げると、文香さんに案内されるようにして上尾さんが店に入ってくるところだった。

「いらっしゃいませ。今、上尾さんのぶんも淹れてますから、どうぞお掛けになってお待ちください。文香さんももう一杯いかがですか? 冷めてしまいましたでしょう?」

 言うと、上尾さんと目を見合わせた文香さんが、はにかむようにして一つ頷いた。店の外で大方の話は済ませてきたらしい。渉が上尾さん、と口にしても彼は特に驚いた様子もなかったし、文香さんのほうもまた、長い話になる予感がしているのかもしれない。

 「お願いします」と言った文香さんは、野乃や元樹君を気にかけつつも上尾さんとともに窓際の席に向かい合った。野乃たちに散々話を聞いてもらっておいて席を移動することに申し訳なさを感じているのだろう。けれど野乃も元樹君も、少しも気にしていない。

「渉さん、俺、帰りますね。野乃、また明日、学校でな」

 そう言い置いて元樹君は席を立ち、野乃は渋々ながらも小さく首肯すると、元樹君が向かうほうとは逆――カウンター脇の階段のほうへと向かっていった。

 すれ違いざま、野乃が渉にしか聞こえないような声で「うまくいくといいですよね」と微笑んだ。渉は「そうだね」と笑って返しつつも、やはりどこか陰あるその顔に胸の奥がキュッと縮むような感覚を覚えた。文香さんたちの幸せを心から願っている顔ではあったけれど、その奥には野乃が抱えているだろう苦しみがチラチラと見え隠れしているのだ。

 しかし、声をかけようか迷っている間に元樹君は小さく会釈をすると店の外へ消えていき、野乃も階段を上っていってしまった。仕方がない、ここはいったん仕切り直そうと気を取り直した渉は、出来上がったカプチーノを銀盆に乗せ、二人の元へ運んだ。


 それから二人は、長いこと話し込んでいたようだった。店内に二人を残して、カウンターを挟んで反対側のバックスペースに引っ込んだ渉は、ときおりドアを通り抜けて聞こえてくる二人の笑い声に柔らかに口元を綻ばせつつ、コーヒー豆やフィルターなどの在庫管理をする。月末の定休日はまだ先だが、今からやっておいて損はない。

 やがて適当なところで切り上げ店内に戻ると、待っていたという様子で二人がほぼ同時に腰を上げた。文香さんの目元には泣いたあとがあったけれど、上尾さんと微笑み合うその顔は憑き物が取れたように心から晴れやかで、渉の心もスーッと晴れていく。

 どうやら、美味しく失恋を淹れられたようだ。……もっとも、野乃の機転と彼女を心配して追いかけてきた上尾さんのおかげが大きいけれど。

「あの、本当にありがとうございました。失恋は痛かったですけど、そのおかげで見えてきたものがありました。野乃ちゃんと元樹君にも、ありがとうとお伝えください。二人がいてくれたから、上尾君と入れ違いにならずに済みました。本当に感謝してます」

 そう言って財布を取り出そうとする文香さんの手を、上尾さんがやんわりと制する。渉がさらにその上尾さんを制すると、二人はきょとんとして渉を見る。

「サービスです。文香さんには昨日も無理にもう一杯、カプチーノにお付き合いさせてしまいましたし。それにしても、文香さんはカプチーノがお好きなんですね」

「いえ、無理になんて、そんな……。でも、そう言われてみれば、このお店ではカプチーノしか飲んでませんね。そういえば、学生の頃からそうなんですよ。コーヒーショップに入ると、夏でもカプチーノばっかり頼んでしまって。冷房が効いているので、熱いカプチーノはちょうどいいんですけど……でも、どうしてだろう? 不思議ですよね」

 少々強引だろうかと思いつつ話題を変えると、文香さんが不思議そうに首をかしげた。けれど、その疑問にあっさりと答えを返したのは上尾さんだった。

「普通のコーヒーは苦くてあんまり美味しく飲めないって言うから、俺が『じゃあ、カプチーノは?』って勧めたことがあっただろ? それから文香は店に入ると決まってカプチーノを頼むようになったんだよ。ミルクがちょうどいい、って言って」

「え、そうだったっけ……?」

「うん」

 驚いて目を瞠る文香さんに、上尾さんが優しく笑いかける。上尾さんの声はどこまでも穏やかで、よく晴れた穏やかな春の日の木漏れ日のような、そんな温かさがあった。

 みるみる顔を赤くさせながら、もごもごと口元を動かす文香さんは、今、何を思っているのだろう。他人の自分がこれ以上口を出せることではないけれど、と前置きしつつも、渉は、どうかこれから二人が上手くいきますようにと願ってやまなかった。

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