7
何度も頭を下げつつ並んで帰っていく二人を見送ると、店内が急に広く感じられようになった。もともとそんなに大きい家ではなかったので、店舗に改装した一階部分も全体的にこぢんまりとしているけれど、お客様がいなくなっただけでこんなに広々と感じられるなんて、少し不思議だ。空いたカップをカンターに下げつつ、すっかり日が落ちた窓の外をぼんやり眺める。すると背後から「渉さん」と声をかけられた。振り向くと、普段着に着替えた野乃が「……文香さんたち、どうでした?」と心配そうに尋ねた。
気を利かせて部屋に引き上げたはいいが気になって仕方がない、といったところだろうか。元樹君も今頃、晩ご飯を食べながら文香さんたちを気にしている頃だろう。
「ああ、うん。俺の勝手な印象だけど、近いうちにうまくいくんじゃないかなって思う。文香さんのほうも最後には美味しくコーヒーが飲めていたようだったし、上尾さんもそんな文香さんに優しく笑いかけててね。見ててとっても微笑ましかったんだ」
「そうですか、よかった……」
ほっと息をつく野乃の近くを通って、カウンターに引っ込む。カチャカチャと小気味いい音を立てながら二人が飲んでいったカプチーノのカップに泡をかけつつ、渉は言う。
「野乃ちゃんのおかげだよ。野乃ちゃんが文香さんを追いかけてくれなかったら、上尾さんとは入れ違いになっていただろうし、文香さん本人でさえ気づいていなかった写真の秘密に気づいてくれたから、帰っていったときの文香さんの顔があんなに晴れやかだったんだと思う。文香さん、野乃ちゃんと元樹君に、ありがとうって伝えてくれって。感謝してるって。俺からもありがとう。野乃ちゃんのおかげで美味しいコーヒーが淹れられた」
「いえ、私は何も……」
野乃はそう言って恥ずかしそうに顔を俯かせるが、でも本当に野乃の力が大きい。渉だけだったら、文香さんの本当の気持ちに気づけないまま送り出していただろうし、何杯淹れても心からカプチーノを美味しいとは思ってもらえなかっただろう。
「――さて。ちょっと遅くなっちゃったけど、これから晩ご飯にしようか。昨日おすそ分けでいただいた鰹、残りは佃煮風にしておいたんだ。春先にもらった菜の花の残りも茹でて冷凍庫に凍らせてあるし、からし和えにしたら立派におかずになるでしょ」
言うと野乃が「手伝います」とカットソーの袖をまくった。昨日はあまり機嫌がよくなかったけれど、今日は文香さんたちのことがあって、機嫌がいいようだ。
「ちなみに、鰹は元樹君のお父さんの源蔵さんが釣ったものだよ」
「……」
「こらこら。そんな嫌そうな顔しないの。野乃ちゃんだって昨日はあんなに美味しそうに食べてたのに、誰のお父さんが釣ったものとか関係ないよ。さ、手を洗って」
「……はい」
いたずら心で試しに言ってみると、野乃の顔があからさまに嫌そうに歪んだ。そんな素直すぎる野乃にふっと笑うと同時に洗い物が終わり、渉は布巾で軽く手を拭くと冷蔵庫の中から鰹の佃煮風とからし、冷凍庫のほうから小分けにしてラップに包んでおいた菜の花を取り出した。野乃にはお米を研いでもらうことにする。これを使ってとざるを渡して、米びつからお米を一合半はかってもらい、シンクを野乃に明け渡す。
コーヒーを淹れるための道具と生活に必要な調理器具や食材が一手に集まるカウンター内は、二人で立つには少し狭いような気もした。けれど、この狭さが渉にはなんだか嬉しい。ふと顔を上げると、さっきまで広く思えた店内はいつの間にか普段通りの広さに感じられるようになっていた。きっとこれも野乃のおかげだ。渉は水を張った鍋を火にかけつつ、今日はどんな味噌汁にしようかなと、そっと隣の野乃の横顔を窺った。
それから一時間ほどして、ご飯が炊けると同時に遅めの晩ご飯となった。嫌そうな顔をしつつも、野乃は鰹の佃煮風をご飯に乗せて美味しそうに頬張る。味噌汁は、野乃がシンプルなものが好きだと言うので、わかめと豆腐、刻んだネギのものにした。昨日と同じように適当なテーブルについて黙々と箸を動かしていく。
「……私も渉さんに淹れてもらったら美味しいコーヒーが飲めるのかな」
するとふと、野乃が呟いた。「ん?」と野乃を見ると、
「いえ。文香さんが晴れやかな顔をしてたって言うから、私も見て見たかったなって思って。きっと、すごく美味しかったんだろうなって、羨ましくなっちゃったんです」
と、彼女は言う。数瞬考えて、渉は口を開く。
「それはやっぱり、野乃ちゃん次第なんじゃないかな。野乃ちゃんが今日も鰹が美味しいと思って食べてくれてるように、心の在り方っていうか、気持ちの部分が関係してくるんだと思うよ。俺はただコーヒーを淹れてるだけだから。そりゃ、いつも美味しいコーヒーを淹れたいなとは心がけてるけど、俺だけの力じゃどうにもならないこともあるし」
「そうですよね……。あ、でも、さっき飲んだアイスコーヒー、とっても美味しかったです。まだよくわからないけど、たぶん、そういうことなんですよね」
「そうだね。そうかもしれないよね」
ふっとわずかに目元を緩める野乃に、渉も眼鏡の奥の目を細める。野乃が自分が淹れたコーヒーを美味しいと思って飲んでくれるなら、いくらでも淹れたいと思うけれど、こればっかりは、きっと〝どうにもならないこと〟なのだろうとも思う。
「リクエストしてくれたら、いつでも淹れるよ」
言うと野乃が嬉しそうに「はい」と少しだけ声を弾ませた。そのまま味噌汁の椀に口をつけようとして、ふと何かを思い出したように顔を上げる。
「そういえば渉さん、お客さんに接するときは〝俺〟が〝僕〟になるんですね。最初は気づかなかったんですけど、なんか静かなギャップって感じで、いい感じです」
「え、そう?」
「はい。接客業だってことを考えると意外ってほどでもないんですけど、使い分けてる感じが大人だなあって思えるっていうか。汐崎君なんて、初日からめちゃくちゃ慣れ慣れしいし〝俺、俺〟ってばっかり。私、ああいうタイプと仲良くなれる気がしません」
「あはは。元樹君もまた、ひどい言われようだなあ」
「笑いごとじゃないですよ。勝手に店までついてくるし、タダでコーヒー飲んでくし」
もしかして、元樹君と帰ってくるたびに野乃の機嫌があまりよろしくないのは、彼がジュースやコーヒーをタダ飲みしていくことも関係しているのだろうか。野乃が元樹君に下したあんまりな酷評に思わず声を上げて笑ってしまいながら、渉は改めて早く野乃に心から美味しいと思えるようなコーヒーを淹れてあげたいなと思う。
でも、それは自分一人の力ではけして淹れられないものだということも、渉はわかっている。野乃は今はまだ、答えを探している途中なのだろう。ここでの生活や元樹君ら、ここに住む人たちと関わっていくうちに少しずつ答えが出せていけるといいんだけど、と思いながら、渉はやっと味噌汁に口をつけた野乃と同じように、自身も味噌汁をすすった。
野乃が溶いてくれた味噌加減は、自分で加減するより断然美味しかった。
渉が切った少し歪な豆腐を一つ口に運んだ野乃の「美味しい」のひと言に、渉はまた、眼鏡の奥の目をふっと細めて笑う。
「それはよかった。食べてる最中にあれだけど、明日の晩ご飯は何にしよう?」
「そうですね……渉さんは何が食べたいですか?」
「え、俺? うーん、何がいいだろう……」
それからの晩ご飯の時間は、ごちそうさまでしたと揃って手を合わせるまで、あれも美味しそう、これも美味しそうと、明日の晩ご飯の話で持ちきりだった。
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