■第二話 エスプレッソにはスプーン一杯の砂糖を 1
三週間もすると野乃も少しずつここでの生活に慣れてきたようで、つい先週まではきっちり制服に着替えて階段を下りてきたのに、今週はパジャマの上にカーディガンを羽織った格好で朝食の席に下りてくることも増えてきた。気を許しはじめてくれたんだろうなと思うと素直に喜ばしいが、寝起き直後の無防備なパジャマ姿を見るにつけ、渉は申し訳ないような、多少の居心地の悪さを感じるような気がするのもまた、確かである。
家族にしか見せたことのないだろう姿をこんなおじさんなんかに見せて、野乃が後々、後悔する日が来ないといいんだけど……。などと、少々斜め方向かと思われる心配をしつつ、渉は野乃の前に焼きたてのトーストを二枚乗せた皿を置く。テーブルにはすでにスクランブルエッグとコップに注いだ牛乳が二人ぶん、準備を整えてある。あとは渉用にトーストを焼くだけなので、ひとまず席についてパンにバターを塗っていくことにする。
朝食は和食だったり洋食だったり、日によってまちまちだ。晩ご飯はだいたい和食が中心だけれど、ハンバーグだったりパスタだったり、洋風のものもよく食べる。昨日は店に来てくれた〝ベーカリー堀江〟の奥さんである堀江(ほりえ)芙(ふ)美(み)さんから手作り食パンを一斤もおすそ分けしてもらったので、さっそく朝食の席に出すことにした。冷凍させておけば急いで食べなくても大丈夫ということだけれど、できるだけ美味しいうちに食べようと思う。
「あ、先に食べてて。学校の時間もあるでしょ?」
律義に待っている野乃に言うと、彼女は「すみません」と申し訳なさそうに言ってから「いただきます」と焼きたてトーストにかじりつく。ベーカリー堀江の手作り食パンは、耳までふわふわ、中はもっちりとした食感だ。パンがちぎれたところからほうほうと湯気が立ち、渉のお腹はさらに空腹感が助長される。実に美味しそうだ。
それから四~五分ほどトースターで焼いて、渉も食パンにかじりつく。こんがりときつね色のそれからは小麦とバターの風味が絶妙な具合で混ぜ合わさっており、香りといい、味といい、とにかく最高だった。ここにエスプレッソでもあればさらに最高だな、などと贅沢にも渉はそんなことを考える。言ったら野乃は「そんなの気にしませんよ」と言うとは思うけれど、慌ただしく学校の準備をする野乃の近くで渉だけのんびりとエスプレッソを飲んでいるなんて、やっぱりなんだか気が引けてしまうのだ。
「ごちそうさまでした。食器、水に浸けておきますね」
「うん、ありがとう」
しばらくして、綺麗に完食した野乃が皿やコップを手に先に席を立った。渉はまだ二枚目の食パンだ。自分ではそうは思っていなかったが、どうやら渉は男性にしては食べるスピードが遅めらしい。実は渉は少し低血圧気味で朝はスロースターターなのだ。
以前、源蔵さんに「細っそい」と言われたのはそのせいもあるのだろう。野乃がここで下宿をはじめる前も決まった時間に起きて朝食、昼食、晩ご飯と毎日三食しっかり食べていたのだけれど、肉付きは微妙である。よく食べているのに、なんだか申し訳ない。
それはそうと、ニ十分もしないうちにいったん二階へ引き上げた野乃がトントンと軽快に階段を下りてきた。髪はきちんと整えられ、制服も鞄も準備万端の様子だ。
さすがにニ十分もあれば渉もとうに朝食を食べ終え、食器を下げたついでに洗い物まで終わらせている。しかし年頃の女の子にしては、野乃の支度は少し早いような気がしないでもない。今の子たちはこんなに準備が早いものなのだろうか? スロースターターの渉には、野乃の準備の早さは羨ましくもありつつ、なかなかに驚異だ。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「はい」
けれど、学校のほうにも慣れてきたようで、登校していく野乃の声や後ろ姿には、送り出すこちらも安心する部分が増えてきた。いきなり環境が変わったせいももちろんあっただろうけれど、以前は少し背中が丸まっているように見えていたのだ。
しかしそれも最近ではほとんど見られず、渉は叔父夫婦に一つ面目が立ったことに毎朝ほっと胸を撫で下ろす思いだ。元樹君の話では、やはり集団で来られるとビクビクしてしまうようなところがまだ多少見受けられるそうだけれど、クラスで少しずつ喋る相手もできてきたようで、その点では安心して見ていられるようになってきたという。
きっと少しずつ、けれど確実に野乃は変わっていっているのだろう。
彼女の保護者として、渉はそのことがとても嬉しい。
やがて開店時間の十時が近づいてくると、渉は店の表に【恋し浜珈琲店】とだけ書かれた小さな立て看板を置いた。ドア横に掛けた【close】の札を裏返し【open】にするのも、もうすっかり習慣になっているので、月末月曜の定休日でもついいつもの習慣でうっかり【open】にしてしまいそうになったりする。……店の鍵は開いていないのに。
「ふっ」
そんなことを思い出していると、つい笑ってしまった。口元に緩く握った拳を当て、くくっと笑い声を噛み殺す。なんだか、野乃が来てからというもの、昔の記憶だったり印象に残っていることだったりが、ふとした瞬間に思い出されることが増えたように思う。
一人で店をやっていると、良くも悪くも決まりきったルーティンを淡々とこなすようになってしまう。それはとても気楽だったけれど、ときにはやはり寂しさが募ることもあった。叔父夫婦が強引に野乃の転校手続きをしてくれたおかげで、そんな日々の生活に張りが出てきたのだ。お客様以外の人を――野乃をこうして気遣えることが、今は幸せだ。
その日は、午後になってもお客様は入らなかった。まあこんな日もあるさ、と気楽に構えながら時間になるとフレンチトーストとコーヒーで昼食をとり、さらに食後にもう一杯コーヒーを飲みながらのんびりと本を読みつつ、ひとり静かな店内で過ごした。
今日、初めてのお客様が店に現れたのは、野乃が学校から帰ってくる時間が近くなってきた頃――午後三時を少し過ぎたあたりのことだった。
今回も初見のお客様だ。
「いらっしゃいませ、ここは恋し浜珈琲店です。お好きな席へどうぞ」
カウンターの中で本を読み耽っていた渉は、ドアベルが立てるリンリンという音に弾かれるようにして立ち上がり、いつものちょっとおかしなお出迎えの台詞を口にする。
「……あの、エスプレッソをひとつ」
そう言ったお客様は、シャープな顎のラインに沿ってカットされた前下がりショートボブがとてもよく似合う、クールビューティー系の若い女性だった。右耳のほうにだけ髪を掛けていて、少し吊り気味の涼しげな目元とややハスキーな声がクールで格好いい。彼女は入り口に一番近い窓際の席にさっそくつき、頬杖をついて海のほうへと目を向ける。
「かしこまりました。少々お待ちください」
まず先に水をお持ちして、それから改めてエスプレッソを淹れはじめる。水のグラスを持っていった際、彼女からはふわりと森林系というか、ウッディな香りがして、渉は落ち着くいい香りだなと思う。香水にはとんと疎い……それ以前に、男女問わずファッションや髪型にも驚くほど疎い渉だけれど、これは男性用の香水なんだろうか。女性がつけるにしては飾り気のない香りに、クールで格好いいという彼女のイメージが上塗りされる。
余談だが、前下がりショートボブやクールビューティーなどの言葉は、野乃が読んだまま忘れて部屋に持って上がらなかった彼女の雑誌から、つい最近学習した。渉個人の性格のせいもあるのだろうけれど、男一人の生活では最近の若い子のファッションに鈍感になってしまうのも無理はない、といったところだろうか。思い出して雑誌を取りにきた野乃に「……そういうの読むんですね」と驚かれたのは三日ほど前の出来事である。
それはともかく。
「お待たせいたしました、エスプレッソでございます」
エスプレッソ用の豆を細く挽き、適度に圧をかけて抽出したそれを銀盆に乗せて持っていく。小ぶりのカップの中ではコーヒーの上にとろりとした泡が蓋をしていて、それもあって渉の中では〝ふわふわしたコーヒー〟というイメージが強かったりする。もっとも、エスプレッソは濃いので、見た目ほど味はふわふわとはしていないけれど。
「あ、ありがとうございます」
軽く頭を下げた彼女に一礼し、渉はカウンターの中へ引っ込む。使ったコーヒー豆やエスプレッソマシンの手入れを終えると、さっそく読書の続きに取りかかる。
「あの、これいいですか?」
声をかけられ「はい?」と顔を上げると、彼女が気まずそうにシガレットケースを手にしていた。これも女性が持つにしては渋い茶革製のケースで、少し離れたところにいる渉にも、なかなかに年季が入っているものだということが窺えた。
各テーブルに灰皿は置いていないので、彼女の表情からは、禁煙なのはわかっているけれど、という声が聞こえてくるようだった。どうやら彼女は愛煙家らしい。渉は吸わないのでよくわからないが、コーヒーと煙草のセットはどういうわけか合うというのが源蔵さんの持論だ。体に悪いからと奥さんの幹恵さんや元樹君に何度となく言われているそうだけれど、ついつい家でやってしまい、また怒られるのが常なのだという。
「申し訳ございません。小さいお子さん連れのお客様もいらっしゃるので、誠に勝手ながら、店内禁煙とさせていただいているんです」
「あ、いえ。そんな謝んないでください。ちょっと言ってみただけですから」
渉が心底申し訳ない顔をしているせいか、彼女は焦ったように顔の前でパタパタと手を振り、愛想笑いを浮かべながらシガレットケースを鞄に戻す。店内禁煙です、とあらかじめ店の表に表記していない渉が悪いのだから、そんな顔をされると逆に渉のほうこそ申し訳なくなってくる。しかし喫煙スペースを設けるとなると、店の中にそれ用のドアを新しく取り付けたり空調を整備したりという設備面での費用がかさんでしまう。
恋し浜珈琲店の売り上げは渉と野乃が細々と食べていける程度のものだ。おすそ分けで賄っている部分も多いので、本当に心苦しいが彼女にはしばし我慢してもらうしかない。
「……じゃあ、代わりと言ってはあれですけど、私の話、聞いてくれません?」
すると、彼女がそう言った。小さく小首をかしげ、頬杖をついて渉を見る。
「偶然見た誰かのブログでここのことが書いてあって。失恋を美味しく淹れてくれるってあったから、ちょうどよかったし来てみることにしたんです」
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