彼女――一井珠希いちいたまきさんは、美容師さんなのだそうだ。専門学校を卒業し、なんとかヘアーサロンに就職が叶い、今は二年目の二十四歳なのだという。

「専門学校に入学したのが二十歳のときで。……高校の頃はちょっとやんちゃしてたっていうか、まあ、平たく言うとよく学校をサボってガラの悪い友達と遊んでたんですけど、高三のときの担任が、私が髪の毛をいじるのが好きそうだからって、そっちの道に進んだらどうだって言ってくれたんですよ。実際、自分の髪も人の髪もアレンジするのが好きだったし、漠然とですけど、美容系の仕事に憧れも持ってました。友達にも親にも口に出して言ったことはありませんでしたけど、そういうのってわかるんですね。あの担任、けっこう鋭いっていうか、落ちこぼれの私みたいな生徒のこともちゃんと見てくれてて」

 ふっと笑い、けれど珠希さんは「でもうち、けっこうなド貧乏だったんで」と言う。

「専門学校に通えるだけのお金なんて最初からなかったんです。だから突っぱねてやったんですよ。家の事情も知らないで勝手なこと言うな、って。……あ、うち、母子家庭なんですけどね。確か三者面談のときだったと思います。母がどうしても仕事を抜けられないからって私一人で面談を受けてたんですけど、もうたまらなくなっちゃって」

 ちびり、エスプレッソを含んで、珠希さんは続ける。

「そういう家庭環境もあって、世の中全部が敵に見えてました、あの頃は。なんとかお情けで卒業させてもらってからもしばらくは、就職するでもなくバイトをするでもなく、フラフラする時期が続きました。……でも、本当にどうしたらいいのかわからなかったんですよ。この気持ちをどう処理したらいいのかも、ぶつける先も、行き場も」

「はい」

「でも、担任は違いました。もう担任じゃなくなったのに、暇を見つけては勝手に家庭訪問に来て、最近どうだ? 何か困っていることはないか? ってしつこく聞いてきて。そのたびに追い返してたんですけど、ある日、職場で母が倒れちゃって……。過労でした。私がいつまでもフラフラしてるせいで、母は昼も夜も働きづめで。しばらく養生すれば大丈夫だっていうことだったですけど、そのとき私、世界にたった一人放り出されたような気分になって、気づくとその担任を母の搬送先の病院に呼んでたんです」

「それは……お母さまも珠希さんも大変な思いをなさいましたね」

 どう相づちを打とうかと考えたが無難すぎる台詞しか浮かばず、渉は申し訳ない思いに駆られつつも、おずおずと口を開く。すると珠希さんは、自嘲気味にふっと笑みをこぼした。当時のことに後悔してもしきれないという、静かな笑みだった。

「全部私のせいなんで。大変だったのは母ですよ」

「でも、それから珠希さんは、更生……っていう言い方が合っているのか、ちょっと自信はないんですけど、きちんと手に職をつけて今は美容師のお仕事をなさっているじゃないですか。やっぱり担任の先生から勧められたことが大きかったんですか?」

「そうですね。そうなる、かな。母の顔をまともに見たのって、病院のベッドの上で腕に点滴の針を刺して眠っていたときだったんですけど。いつの間にこんなにやつれちゃったんだろうって思うほど、本当に疲れきった顔をしてたんです。母一人、子一人でずっとやってきたから、ほかに頼れる人もいなくて、どうしようって途方に暮れてしまって。駆けつけてくれた担任の顔を見たとたん、私、うぉんうぉん泣いちゃったんですよ」

 そのときのことを思い出しているのだろう、珠希さんがわずかに頬を赤くして恥ずかしそうに髪の毛をいじる。耳に掛けてあるほうの右側の髪の毛だった。

 でも、その気持ちは大いにわかる。渉は「はい」とほんのり笑って頷くと、珠希さんが話しはじめる際に自分用にも淹れたエスプレッソをそっと口元に運んだ。少し冷めてきてはいるが、酸味と苦みのバランスがちょうどいい。偶然にも今朝、エスプレッソを飲みたいなと思っていたので、珠希さんの話にかこつけて飲めてタイミング的にもよかった。

「で、ベタな話なんですけど、担任に〝これから一緒に頑張ろう、応援するから〟って言われて心を入れ替えて、それからはバイト三昧です。自分で働いたお金で専門学校に通おうと思って。母は気にしないで好きな道に進めって言ってくれたし、担任も奨学金の制度がある学校をいくつも調べて資料を取り寄せたりしてくれたんですけど、私なりのケジメっていうんですかね。自分で働いたお金じゃないと意味がないと思ったんです」

「ご立派です」

「はは。でもまあ、そのおかげで食べていくためだけじゃない働く意義とか、仕事への向き合い方とか、大切なことをたくさん教わりました。美容師ってカットの技術も大事ですけど、接客業ですから。居酒屋とか販売系とか、とにかく接客のバイトをしました」

 それを機に、今まで付き合いのあった友達とは縁を切ったという。これもベタだけど、ということだったけれど、珠希さんはもともと、どこにも行き場のない気持ちを紛らわせたくて、ちょっとやんちゃの道に走ってしまったところがあったそうだ。

 最初、目標を持ってバイトをはじめた珠希さんを仲間たちは「頑張れ」と応援してくれたそうだけれど、だんだんと付き合いが減っていくと、彼らのほうからも自然と離れていき、今では何をしているのやら、という感じですっかり疎遠になってしまったらしい。

「でも、一人だけ親身になって応援してくれた人がいたんですよ」

「それが珠希さんの……?」

「そうです。失恋の相手です」

 そう言うと珠希さんはまた一口、エスプレッソを口に含む。コーヒーの温度が下がって苦みが強く感じられるようになってきたのか、それともその恋に苦い思い出があるのか、彼女はエスプレッソを口に含んだ瞬間、わずかに表情を歪めた。

「そうして、やっとお金が溜まって入学の目処が立って。学校は高校を卒業したばっかりの子がほとんどでしたけど、中には私くらいの歳の人とか、もっと上の人もいて、毎日楽しく学校に通いました。カットの技術がだんだん身についてくると、誰かの髪を切ってみたくなるじゃないですか。そのときは付き合いのある友達っていったら、私のことを親身に応援してくれた彼しかいなかったし、その話をしたら、ちょうど切りたいと思ってたって言って、まだまだぺーぺーの私の初めてのお客さんになってくれたんです」

「はい」

「正直言って、当時からめちゃくちゃ好きでした。私の周りから友達が減っていって、さすがにヘコんでたときも、彼だけは〝俺は珠希がちゃんと夢を叶えるまで応援する、だって初めて持てた目標なんだろ〟って何度も励ましてくれたんですよ。ベタだろうが何だろうが、好きにならないわけがないじゃないですか。それがなかったら、今こうして美容師になれてなかったと思うし、またやんちゃしてたかもしれません」

 それから珠希さんは、「このシガレットケース、彼のものなんですよ」と再び鞄から先ほどの茶革製のケースを取り出し、表面を愛おしそうに撫でた。女性が持つにしては渋いケースだと思っていたが、どうやら理由はこういうことだったらしい。

「でも彼、私が美容師の国家試験に合格する前に……海で死んでしまったんですよね」

「――えっ?」

「サーフィンが好きで、海辺の小さなサーフショップ兼軽食も出すカフェで楽しそうに仕事をしたり、休みの日は一日中、海に入っていたり……将来は自分でもサーフショップを開くんだとか言って、インストラクターの資格を取るための勉強もしてたし、オーナーみたいに軽食も出したいからって調理師の勉強もしてて。そういうところも大好きだったんですけど、告白の前に訃報が届いて……。あれから二年です。海を見ると未だに、彼の命を奪ったくせに穏やかに波打ってんじゃねーって思いますけど、それでも彼が好きだったものだから、どうしても嫌いになりきれないんですよ。だから困ってるんです」

「……そう、でしたか。それは……なんというか……」

「はは。残念ですよね、私がどれだけ好きだったかも知らずに死んじゃうなんて。もし天国かどこかでこれを聞いてたら、ちくしょーって悔しがってくれるといいんですけど」

 言葉に詰まる渉に、しかし珠希さんは気丈にも笑ってそんなことを言う。相手の生死で失恋の重さが量られるというわけでは、もちろんないけれど……思いがけず重いものを抱えてここを訪れた珠希さんに、渉は咄嗟には何も言えなくなってしまった。

「店長さんには負けるけど、彼、エスプレッソを淹れるのが上手かったんですよ」

 すると、渉を案じてか珠希さんが少しおどけたような口調で言った。「……おそれいります」と返すと、珠希さんはふっと笑って「けっこう値の張るエスプレッソマシンとかも買っちゃったりして」と、またおどけたような口調で言い、肩を竦める。

「やっぱり高いもののほうが美味しく淹れられるんですか?」

 聞かれて渉は、自身のエスプレッソマシンをちらりと振り返りつつ、口を開く。

「……そうですね、エスプレッソは圧をかけてお湯をコーヒーの粉の中に瞬間的に通して抽出するものですので、家庭用のもので比較的安価なものですと、少し圧の弱いマシンになってしまう可能性があります。粉はエスプレッソ用の細く挽いたものがありますので、グラインダーといって豆を挽くマシンは必要ないかと思いますけど……本格的なエスプレッソをお楽しみになりたいなら、高くても性能のいいものを選ぶといいかと思います」

「へえ、そうなんですね。店長さんの前で失礼ですけど、二万も三万もするマシンを買って一体何を目指してるんだとか思ってたんですよ。そっか、だからか。これで納得です」

「お役に立てましたでしょうか?」

「はい。とっても」

 それから珠希さんは、やっぱりプロに淹れてもらうと美味しいですね、と言って綺麗にエスプレッソを飲み干し、ごちそうさまでしたと代金を置いて店をあとにしていった。

 渉は最後まで彼女になんと声をかけたらいいのかわからないままだったが、そんな渉の心中を察した珠希さんに「誰かに聞いてほしかっただけですから」と笑われてしまい、逆に渉のほうが気遣われてしまうという、なんとも間抜けな結果になってしまった。

「……笑ってたけど、大丈夫かな」

 空になったカップを洗いながら、たまらず渉は海のほうを見やる。珠希さんの好きだった人は海で亡くなったという。自分の想いを告げる前に彼の命を奪った海が憎くないはずがないのだ。嫌いになりきれないから困っている――それは本当だろうけれど……。

 と。

「ただいま帰りました」

「おじゃましまーす」

「……ああ、おかえり。野乃ちゃん、元樹君。何か飲む?」

 リンリンとドアベルが鳴り、今日も野乃と元樹君が揃って帰ってきた。渉は、はっと我に返るといつものように笑って二人を出迎える。野乃が「渉さん、汐崎君をあんまり甘やかさないでください」と言うと、元樹君が「今日はちゃんとお金払うし」と間髪入れずに返す。それからも二人は「……ほんとかな」「マジだって」などと仲良く(野乃はそう思っていないが渉には仲良く見える)会話をしつつ、適当な席に向かい合う。こういうところが仲が良く見えることに果たして野乃は気づいているのか、どうなのか……。

 それはさておき、渉は一気に賑やかになった店内で一つ息をつくと、野乃リクエストのオレンジジュースと、元樹君リクエストのサイダーを持って二人の元へ運んだ。自分一人では珠希さんの話をどう扱ったらいいか途方に暮れかけていたところだったので、今日も賑やかな二人が帰ってきてくれて、なんというか、心の底からほっとしたのだ。

「……渉さん、なんか元気がないみたいですけど、どうかしました?」

 すると、ふいに野乃に尋ねられて、渉の肝は瞬間的に冷えた。本当にこの子は人の心の動きに敏感だ。いつも通りに振る舞っていたつもりだったのだけれど、どこかにいつも通りではない部分があったのかもしれない。いい歳をしたおじさんなのにまた気遣われてしまった……と自分が少々情けなくなりつつ、渉はゆるゆると首を振る。

「ううん、なんでもないよ」

「そうですか……。でも、何かあったら言ってください。私で力になれることがあるかもしれないし。ここで下宿させてもらってるんだから、それくらいさせてくださいね」

「うん、ありがとう」

 野乃の言葉に小さく罪悪感を覚えながら、しかし渉はそう言って笑うに留めた。

 珠希さんの話は、他人の渉が聞いてもとても重いものだった。

 彼が亡くなって二年だという。珠希さんにとってその重みは今も少しも減っていないどころか、ますます重みが増しているのかもしれない。それを思うと、いくら身内である野乃にだって、そう易々とこんなお客さんが来てね、なんて話せるわけがない。

「……」

 なんとなく心配だな、と再度海を見ると、先ほどまでは晴れていたのに今は少し曇り気味だった。そんな渉を野乃も心配そうに見ていたのだが、渉は気づかなかった。

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