3
翌日。
「あ、雨だ……」
一抹の不安にも似たもやもやした気持ちを抱えながら、開店前、店先の掃き掃除をしていると、鼻先に一つ、ぽつりと冷たい感覚があった。今朝は晴れていたが、店内の掃除を先にやっているうちに雲行きが怪しくなっていたようだ。まるで開店に合わせて降ってきた雨に、渉は急いでホウキとちり取りを手に店内に避難する。
ものの十数秒で強くなったので、もう外の掃除ができなくなったのだ。まだ途中だったが仕方がない。髪の毛に残る雨粒を払い落として【恋し浜珈琲店】の看板を軒下に出し、ドア横の【close】のプレートを【open】にひっくり返す。
このまま降り続くのかはわからないが、傘立ても出しておいたほうがいいだろう。雨の日は客足が鈍るけれど、もしかしたらまた珠希さんが店を訪れてくれるかもしれない。
しかし、渉の期待に反して、珠希さんは午後になっても現れなかった。今朝、野乃と二人で食パンを美味しく食べきったので、今日の昼食は適当にあり合わせで済ませる。
期待というよりは願いに近いかもしれない。渉が勝手に案じているだけなので、仕事もあるだろうしこればっかりは仕方がないのだけれど、もう一度、彼女の顔を見ておかないことには、どうにも渉の気持ちがすっきりしないのだ。
何かの前触れとは思いたくないが、雨はまるで珠希さんの静かな悲しみを表しているかのように、あれからずっと降り続いている。しとしとと、弱い雨に変わっていた。
そんなとき、ふと顔を上げると、いつの間にか店の中にお客様が入っていた。ドアベルの音を聞き逃してしまったのだろうか、二十歳そこそこの若い男性だった。
初見のお客様だ。渉は慌ててカウンター内の椅子から立つと、
「いらっしゃいませ。ここは恋し浜珈琲店です。お好きな席へどうぞ」
雨の湿気でベルの鳴りが悪くなったのかもしれないと思いながら、いつものようにお出迎えの台詞を口にした。しっとりと雨に濡れたその男性は小さく会釈をすると数瞬、店内を見回し、昨日、珠希さんが座った入り口に一番近い窓際の席を選んだ。
「エスプレッソを一つ、お願いします」
水をお持ちすると、男性は手に持っていたメニュー表から顔を上げずに言う。白地にヤシの木とサーフボードが描かれたTシャツの袖口から伸びる腕は日に焼けて黒く、何かスポーツをしているのだろう、同性の渉も憧れるほど逞しく引き締まっていた。
「かしこまりました。少々お待ちください。タオルも持ってきますね」
「あ、すみません。傘持ってなくて」
「いえ。しばらく空調も切りましょうか? 濡れた体では冷えますし」
そのとき初めて顔を上げた男性は、申し訳なさそうに眉尻を下げて「じゃあ、はい……お願いしてもいいですか」と言う。やはり顔も日に焼けて黒い。意志が強そうな眉と大きな二重の目、スッと通った鼻筋は精悍な顔立ちそのものだ。そこに髪が伸びて地色の黒が混ざったメッシュ状の金髪がよく似合う。あと二ヵ月弱もすれば恋し浜に海水浴に訪れる若い男の子たちの格好を一足先にやっている、という感じだ。
「かしこまりました」と一礼し、空調を切ってタオルをお持ちする。ありがとうございます、と小さく頭を下げる男性に「いえ」と微笑みかけ、渉はカウンターに入りさっそくエスプレッソを淹れる準備をはじめた。グラインダーで豆を挽くところからだ。
まだ冷房は必要ないが、こんなふうに雨が降る日はコーヒー豆のためにも空調は欠かせない。しかし、豆ならまた新しいものを買えばいいけれど、もしかしたらここに訪れてくれるのはこの一回きりかもしれないことを考えると、自分にできる精一杯のおもてなしで出迎えることこそ大事だと渉は考える。リピートなんてしてくれなくてもいいのだ。ここで過ごす時間がそのお客様にとっていいものになってくれれば、それで渉は満足である。
「お待たせいたしました、エスプレッソでございます」
「あ、ありがとうございます。タオルもありがとうございました」
「いえ」
タオルを受け取り、また渉はカウンター内に戻る。読みかけの単行本を開いて、しかしあっと思い立ってまたカンターを抜けた。ドアベルの様子を見に行こうと思ったのだ。
ベルを下から覗き込み、何度か軽く鳴らしてみる。――鳴った。
一つ頷き、再度カウンター内に引き返す。となると、やはり渉が聞き逃したのかもしれない。ベルは新しいものではないけれど、そう古いものでもない。さっきはこの湿気で音の響きが悪くなったのだろうかと思ったが、よく思い返してみれば、このベルはつい最近降った雨のときでも普通に鳴っていた。見たところ埃が詰まっているわけでもなさそうだし、そもそも、ベルの構造上、そうそう大量の埃が溜まるわけでもないだろう。
「静かでいいところですね」
すると、男性がこちらに顔を向けて微笑んだ。
「コーヒーも美味いし、雨でお客さんもいないし、店長さんには失礼を承知で言っちゃいますけど、一人でゆっくり過ごすには今日はいい日です」
「恐れ入ります。確かにここは静かでいいところですよね。僕も気に入っているんです。店から海も見られますし、店に来てくださるお客様も、みんないい人たちばかりで」
「ああ、なんかわかります。でもそれって、店長さんが癒し系だからですよ。店長さんにならなんでも話せる、みたいな空気がもう出来上がっちゃってるって感じがします」
「そうですか? 意識したことはなかったんですけど……」
「絶対そうですって。店に入った瞬間のマイナスイオン、半端ないっすよ」
「はは。そう思っていただけて光栄です」
渉はにっかり笑う男性に照れ笑いを浮かべる。面と向かってお客様からこんなことを言ってもらったのは初めてだ。しかも、初見のお客様である。初めて入る店だからこそ、お客様のほうは店内の雰囲気を敏感に感じ取れるのかもしれない。素直に嬉しい。
「どうぞごゆっくりなさってください」
「はい。じゃあ、遠慮なく」
それからしばらく会話は途切れ、男性は静かに降る雨を眺めながら、ゆっくりとエスプレッソを口に運んだ。ときどき渋そうに口元を引き締める様は、そういえば昨日、珠希さんが冷めかけのエスプレッソを飲んだときにした表情に少し似ているような気がする。
昨日に続いて今日もエスプレッソが出たのは、偶然なんだろうか。珠希さんが選んだ席に、まるで向かい合うようにして彼が座っていることも。
でも、彼女が語ってくれた恋の話は、胸が抉られるように切ないものだった。渉は、偶然にしては出来すぎていると緩く頭を振り、その思考を頭の隅へ追いやる。年齢もサーフボードが描かれたTシャツも、サーフィンが趣味なら日に焼けていたり体つきが逞しくなるだろうことも、彼女が話してくれた彼の特徴に似ているけれど、でも彼はもう……。
すると直後、ドアベルがけたたましい音を立てた。何事かとそちらを見ると、血相を変えて店に入ってきた珠希さんを野乃と元樹君が慌てて追いかけてきたところだった。
「……ど、どうしたの?」
数拍虚を突かれたが、かろうじて渉は三人にそう尋ねる。
どうやらもう野乃たちが学校から帰ってくる時間になっていたらしい。珠希さんのほうは、ここに向かう途中に野乃たちと偶然にも居合わせたのだろう。もう一度彼女の顔が見られてほっとはしたけれど、しかし、これは一体……。
「――
「久しぶり、珠希さん。人づてに珠希さんが美容室を辞めたって聞いて、居ても立ってもいられなくなっちゃって……。俺なんかに会いたくなんてなかっただろうけど、珠希さんの勤め先の人とかにいろいろ聞き回って、追いかけてきました。……
状況が飲み込めず戸惑っていると、珠希さんが小さく名前をこぼし、先ほどまでゆっくりとエスプレッソを飲んでいた男性が珠希さんに向かって深く深く、頭を下げた。
拓真というのは、どうやらこの彼の名前らしい。弘人、という人はおそらく、珠希さんと拓真君の共通の知り合い――海で亡くなったという彼女の想い人だろうか。
「拓真には……関係ないでしょ。私だけ美容師の目標を達成したって、もう弘人は戻ってこないんだから。私なんかよりずっとずっと夢を持ってた。そんな弘人の髪を切るのが、私は大好きだった。もう弘人はいないのに、誰の髪を切ったらいいっていうの……」
「それは……。でも珠希さん、聞いてください。弘人さんは――」
「その名前を言わないで! お願いだから……もう聞きたくないの」
「っ……」
どうやら、そのようだ。
言いかけた言葉を強く遮られ、拓真君は口元を引き結ぶ。ハラハラといった様子で二人のやり取りを見ていた野乃や元樹君も、拓真君につられるようにして口を結んだ。そのまま顔を覆ってわっと泣き出してしまった珠希さんの肩に、野乃が遠慮がちに手を置く。
さっきまではゆったりとした時間が流れていた店内は一変して、まだ細く降り続いている外の雨のように、しっとりとした空気に包まれてしまった。
「……あの、三人とも雨に濡れてるし、タオルと、何か温かいものを持ってくるから。とりあえず適当に座って待っていて。拓真君ももう一杯、淹れるから」
そう言うと、元樹君と目を見合わせた野乃が小さく頷いた。肩を震わせて泣く珠希さんは何も言わなかったが、野乃に連れられて席へ向かうところを見ると、このまま店を出ていく気はないようで、渉は内心でほっと胸を撫で下ろす。拓真君はなかなか席に戻ろうとしなかったけれど、渉が笑いかけると深く頭を下げ、元の席に座り直した。
渉はひとまず三枚のタオルを持って野乃たちのもとへ向かう。今日の天気は降水確率四十パーセントの曇り空、という予報だった。この程度なら傘はいらないだろうと野乃は持っていかなかったし、見たところ珠希さんも元樹君も傘は持っていなかったようだ。
弱い雨だが、ある程度の時間、外を歩けば、やはりそれなりに濡れてしまう。空調を切っておいてよかったと渉は思った。大事な人たちに風邪を引かせるわけにはいかない。
「……」
「……」
しかし、渉がコーヒーを淹れはじめても、口を開く人は誰もいなかった。渉も含めて五人ぶんを用意する音が静かに店内に響くだけで、それ以外は耳に痛い静寂が広がる。
でも、当然だった。軽々しく口なんて開けない。
少しして、野乃と元樹君にはホットカフェオレを、迷って珠希さんと拓真君にはエスプレッソを運ぶ。渉もエスプレッソだ。弘人さんとの思い出のあるエスプレッソを二人にまた淹れてもいいのだろうかと悩んだのだけれど、手が勝手にエスプレッソマシンに伸びていたので、迷うくらいならいっそ淹れてしまおうと腹が決まったのだ。
「――あの、珠希さん」
エスプレッソを口に運ぶと、意を決したように拓真君が声を発した。野乃たちに連れられて珠希さんが座った席は拓真君からすると後ろを向かなければ見えない席だ。拓真君はそちらを向いて膝に置いた手を固く握りしめながら、じっと珠希さんを窺う。
渉は腰を浮かしかけたが、拓真君に目で制されてしまった。珠希さんにはまだ野乃たちがついていたほうがいいとは思う。けれど、拓真君もまた、他人がいたほうが話しやすいこともあるのかもしれない。渉は彼に向けて一つ小さく頷くと、カウンター内の椅子に再び腰を落ち着けた。それぞれのカップからは、ゆらゆらと湯気が立ち上っている。
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