やがてゆっくりと息を吐き出した拓真君は、意を決したように口を開く。

「……俺がいけなかったんです。波が荒れてたのに、やっとボードの上に立てるようになって、つい楽しくて無理に弘人さんに付き合ってもらったから。そのことは、弘人さんの家族にも珠希さんにも、一生をかけて償っていきます。人の命を奪っておきながら謝ることしかできないのが本当に申し訳ないんですけど、やっぱり俺には謝ることしかできません。……あのときは本当にすみませんでした。本当にすみません……」

 そう言って頭を下げた拓真君は、顔を上げると渉たちにかいつまんで事情を説明した。

 拓真君が弘人さんに出会ったのは十八歳のときの、夏の盛りだったそうだ。当時弘人さんは二十二歳で、珠希さんとは同い年。彼女が美容師の目標に向かって頑張っている姿に刺激を受け、自分も好きなことを仕事にしたいと思うようになったという弘人さんが働いていたサーフショップ兼カフェで、知り合ったのだという。

 その頃の拓真君は俗に言う不良少年で、不良仲間たちと万引きを謀ろうとしていたところ、弘人さんに見つかったらしい。拓真君だけ運悪く捕まってしまい、警察に通報されることも覚悟したという。しかし弘人さんは「自分もやんちゃしてたから」と言って、やることがないならここで働けと、黙っておく代わりにそんな条件を出した。

 もちろんタダ働きだ。最初は渋った拓真君だったが、休憩時間のたびにサーフボードを抱えて、まるで子供のように海に駆け出していく弘人さんを見ているうちに、自分もサーフィンをしてみたくなったのだそうだ。話をすると、弘人さんは拓真君に店のサーフボードを与えた。弘人さんのお給料でプレゼントしてもらったものだった。

 それから弘人さんと拓真君は、一心にサーフィンに興じた。「呑み込みが早い」と弘人さんは褒めてくれたが本当のところはわからない、と言いつつも、拓真君は、サーフィンの腕が上達していくことが楽しくて仕方がなかったと、そのときのことを振り返った。

 しかし、盛夏も過ぎてそろそろ海に入るのも終わりだという頃、最後にもう一回、と拓真君は渋る弘人さんに頼み込んで一緒に海に入ってもらうことにした。その日はサーフィンをするには少し波が荒れていて、だから弘人さんは渋ったのだ。

 案の定、何度やってもうまくボードの上に立てず、拓真君は楽しくない。そのうちパラパラと雨が落ちてきて、風も出てきた。でも拓真君はボードに立つまではやめる気はなかったという。毎日のように海に入って気も緩んでいたのだと、拓真君は言った。

「気づくとすぐ近くに高い波が来てました。近くにいた弘人さんが、逃げろって叫んでました。でも俺、急に体が動かなくなって……。気がつくと、病院のベッドの上です。そのすぐあと、弘人さんが俺を助けようとして波に呑まれたってオーナーから聞きました。大丈夫なんですよねって聞いても、オーナーは何も言わないままで……」

 だから俺が弘人さんを殺したんです、と拓真君は声を詰まらせる。

「海は楽しいなんて、慢心以外の何ものでもなかったんです。人の命を奪うのも海だってことに弘人さんがいなくなってから初めて気づくなんて、本当に愚かでした……」

 喉を詰まらせ、ボロボロと涙をこぼす拓真君もまた、けして癒えることのない傷を抱えてここへ来たのだ。今にも後悔に押し潰されてしまいそうなその姿に、誰も口を開ける人はいない。ただ彼が鼻をすする大きな音が断続的に店内に響くだけだ。珠希さんも野乃も元樹君もまだしっとりと雨に濡れたまま、元樹君のすすり泣く声に顔を俯かせている。

「……だから会いたくなかったのよ」

 すると、顔を上げた珠希さんがふいに口を開いた。目はまだ涙に潤んでいるが、もう涙は流れていない。軽く目を瞠り、「……え?」と小さく声を漏らす拓真君に向かって、彼女はクールな目元をそのままに続ける。それは、静かな怒りの声だった。

「弘人の真似をしないで。弘人が好みだった服とか髪型とか、ちょっとした癖なんかも全部コピーして、弘人になりきっちゃって。どんなに弘人を真似ても拓真は拓真でしかないんだよ。これからの人生、そうやって弘人になりきって生きてくつもりなの?」

 そう問われて、拓真君はいっそう膝の上の握り拳に力を込め、俯く。しかし、珠希さんには当然、今の拓真君の姿は良く見えないだろう。見るに堪えないと言ってもいいのではないだろうか。珠希さんの言うことが本当なら、拓真君は弘人さんが生きるはずだったこれからの人生を彼のために捧げている。それは償いや悔恨の念からくるものなのだろうけれど、珠希さんにとっては見ていられない姿なのかもしれない。

 珠希さんがエスプレッソに苦い顔をしたときと、さっき拓真君が渋そうに口元を引き締めていた顔が似ていると感じたのは、きっとそのせいだ。珠希さんもまた、意識的にか無意識にか、弘人さんの影を追って生前の彼と似たような表情をしてしまうのだろう。

 おそらく、ウッディな香りの香水をつけているのも、弘人さんが好きな香りだったからではないかと思う。弘人さんが好きだった香りに包まれていれば、愛用していたものを身に付けていれば、ほんの少しは慰めになる――誰にも言葉を残せずに、好きな気持ちを伝えられずに旅立ってしまった弘人さんを、きっと彼女はまだ大切に思っているのだ。

 そしてもちろん、弘人さんを真似ているという拓真君も。

「私、葬儀のときに拓真に言ったはずだよ。後悔するくらいなら弘人に笑ってもらえるように立派になれって。弘人の真似をするのが拓真のそれなの? 間違っても弘人の家族にそんな格好で会ったりしないで。私だからまだそんな格好をする拓真の気持ちを理解できる部分もあるけど、きっと逆鱗に触れるどころじゃないはずだよ」

「……わかってます。でも、どうしてもやめられないんです」

「しょうがないね。だけど私もそうだよ。いつまでも追っちゃう気持ち、よくわかる」

 それから珠希さんは、さっきはきつい言い方してごめん、と拓真君に謝った。

弘人さんとあんまり似た格好だったから、一瞬、彼が帰ってきた錯覚に陥ってしまい、慌てて店に飛び込んだらしい。でもよく見ればそれは拓真君で、まだ弘人さんを真似ているのかと思ったら急に腹立たしくなり、精神的に不安定になってしまったのだという。

「二人も悪かったね。ちょうど店に入ろうとしてたところを押しのけちゃったりして」

「いえ、そんな……」

 野乃と元樹君が揃って首を振る。二人も大体の事情が呑み込めたようで、申し訳なさそうに微笑む珠希さんに、なんとも言えない顔で微かに頬を持ち上げてみせる。

「……でもね、今、付き合ってほしいって言ってくれてる人がいて、その人と付き合おうと思ってるんだ。昨日、店長さんには話したけど、高校のときの担任」

 すると珠希さんは、コーヒーカップをそっと包み込んで言った。

「拓真も何度か顔を合わせたことがあるはずだよ。いっつも寝癖だらけの頭をしてて、眠そうに目が半開きで。十一個も年上なんだけど、絶対に私より先に死なないからとか言っちゃってさ。それはまあ、あんまり信じてはないんだけど、弘人以外に初めて誰かの髪を切ってあげたいって思わせてくれたのって、その担任なんだよね。美容室を辞めたのは、担任についていくからだよ。赴任の話があって、それで、ついてきてほしいって。まだ付き合ってもないのに、結婚したいとか言うんだよ。びっくりしたけど、嬉しかった」

 珠希さんは、さらに続ける。

「ここに来たのは、弘人への想いを引きずったままじゃ、本当の意味で担任についていけないと思ったからなんだ。担任はそれでもいいって言ってくれてるけど、本心では早く吹っ切ってほしいって思ってるはずでしょ。私だったらそうだもん。だから、このシガレットケースも、弘人が好きだったヒノキの香りがする香水も、自分の手元に置いておくのは最後にしようと思って。……でも無理だね。どこかに捨てるつもりだったんだけど、拓真を見て弘人が帰ってきたって勘違いしちゃうし、結局、捨てきれなくて今も持ってるし。こんなんじゃ、赴任先に一緒には行けない。美容室を辞めて退路を断ったはずだったんだけど、ここに来たら、かえって踏ん切りがつかなくなっちゃった……」

 失恋を美味しく淹れてもらうつもりだったんだけどなぁ。

 そう言って苦笑した珠希さんの右頬に静かに涙が伝い落ち、エスプレッソに溶け込む。こんなはずではなかったという彼女の心中は、推し量るのも憚られて胸が痛い。

 それと同時に、渉はひどい焦燥感に駆られた。ここに店を構えていれば、どうにもならない想いを抱えたまま立ち止まってしまっている人たちが訪れる。けれどそれはその人たちにとって本当にいいことなのかどうか、急にわからなくなってしまったのだ。

 店の噂を聞いて立ち寄ってくれることは嬉しい。渉が淹れたコーヒーを飲んで、美味しいと笑ってくれるその顔があるから、なんとかここでやっていけてもいる。しかし裏を返せば、珠希さんや拓真君のように、渉がコーヒーを淹れるせいで、そのどうにもならない想いを助長させてしまうだけなのではないかと、ふと思い至ったのだ。

 もしそれが本当なら、ここで店をやっている意味は……?

 考えると、頭が真っ白になってしまった。

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