「――それでいいんですよ」

 しかしそこで、柔らかな、けれど凛とした野乃の声が静かに響いた。見ると野乃は珠希さんと拓真君にそれぞれ微笑みかけ、何がいいの? と瞳を揺らす彼女に再度微笑みを深くする。この前のように野乃だからこそ気づけた何かがあるのだろうか。藁にも縋る思いとはこのことかもしれない。野乃の声に必死に耳を傾けている渉が、そこにはいた。

「拓真さん。弘人さんのことで伝えなきゃいけないことって、何だったんですか?」

「……え。ああ、弘人さんが亡くなる前に言ってたことなんですけど。妙なんですよね、失恋したらどこかの浜の小さなコーヒー店でエスプレッソが飲みたいって。そのときは言ってる意味がわからなかったんですけど、人づてに珠希さんが美容室を辞めたことを聞いて、急にそのことを思い出して。弘人さん、自分でエスプレッソマシンを買っちゃうくらい好きだったんで、それで、どうにも胸が騒いだんです。で、実際に珠希さんの行き先を突き留めたら、ここで。この店で待ってたら珠希さんに会えるかもしれないと思ってエスプレッソを飲みながら待ってたら、本当に珠希さんが現れるし……。弘人さんのことで伝えなきゃいけないことっていうのは、珠希さんには幸せになってほしい、って。そう、なんの脈絡もなく言ってたことなんです。だからもう、何がなんだか……」

 ふいに野乃に尋ねられて、拓真君は目を瞬かせながらも事情を説明していく。終始、キツネにつままれたような顔だった。珠希さんも渉も元樹君も、ぽかんと口を開ける。

 しかし野乃だけは、納得したというように深く頷く。

「想像でしかないんですけど、弘人さんはもともと、珠希さんから身を引くつもりだったんだと思います。ところで珠希さん。担任の先生と弘人さんは、面識は……?」

「え。ああ、あったよ。恩師だって紹介したこともあったし。でも、どうしてそれが身を引くことと繋がるの? 確かに弘人は、そのサーフショップではバイトだったけど、ちゃんと将来に向けて道を進んでたよ。身を引くほどのことじゃないんじゃ……」

「いえ。おそらく、珠希さんを想っていればこそです。拓真さんにこぼしていたことは、もうすぐ失恋してしまうだろう自分を想像して言ったものなんじゃないかと仮定することができるんです。……たぶん弘人さんは気づいていたんですよ、担任の先生が珠希さんに教師として以上の気持ちを持っていることに。先生と自分を比べたときに、この人になら珠希さんを任せられるって思ったのかもしれません。珠希さんのことを真剣に想っていたから、珠希さんに苦労をかける道は選べなかったんだと思います」

「そんな……」

 野乃の推測に、珠希さんはただただ言葉を失う。故人の気持ちは残された人たちが想像することしかできないものだけれど、しかし渉にも少しわかってしまう。

 不安定な収入では好きな人を幸せにしてやれないという男側の気持ちだ。

 同じ人を想っているからこそ気づいてしまった担任の先生の想いは、当時、二十二歳だった弘人さんには脅威に見えたのかもしれない。先のことを考えるなら、安定した職に就いている人のほうが珠希さんも何かと安心だと踏んだと考えることもできる。

 現に珠希さんは、美容師という職を手につけるために頑張っていた。それは彼女が高校生ではなくなってからも見守り続けた担任の先生の力も大きい。珠希さんが目標に向かって頑張っていることに刺激を受け、自分も好きなことを仕事にしようとたくさん勉強をしてはいても、やはり焦ってしまう部分も多かったのだろうと思うのだ。

 そんなときに、まだ道半ばの自分よりも、すでに何歩も先を歩んでいる〝ちゃんとした大人〟が珠希さんに想いを寄せていることに気づいてしまったら……。

 渉だったら、何があっても彼女を自分の手元に置いておこうと思える自信がない。

 男として情けない限りだが、でも弘人さんの気持ちも、手に取るようにわかる。

「だからか……」

 すると、拓真君が嘆息をもらした。渉たちの視線を受けると、彼は言う。

「弘人さん、珠希の背中は遠いな、ってよく仕事の合間にこぼしてたんですよ。それも俺にはよく意味がわからなかったんですけど、弘人さん、妙なところで押しが弱いっていうか、自分以外の人のことも考えちゃうところがあるっていうか。……そういうことなら、辻褄が合います。珠希さんのことが好きなのにどうして付き合わないのかって茶化したときも、困ったように〝俺にはもったいない〟って言って笑うんです。俺、男なんで、今なら弘人さんが一歩を踏み出せなかった気持ちがわかります。ビビりますよ、正直。その先生がどうこうってわけじゃないんですけど、なんかこう、男として戦う前から負けた、みたいな気持ちって、やっぱり持ってしまうところがあるんですよ」

「……そうですね。僕にもわかります、変なプライド意識というか」

 やや早口でそう言った拓真君に視線を送られて、渉も正直な気持ちを打ち明ける。

 本来はただお客様の話に相づちを打つだけだけれど、今回も踏み込んだ話だ。そして野乃の手によって、わからなかったことが、少しずつわかろうとしている。

 弘人さんの思いは、今となってはもうわからない。珠希さんが納得しなければ、これはただの茶番で終わってしまう。でも、もし彼女が弘人さんの思いを汲んで先生のところへ行く決心を固めようとしてくれるのなら、それは弘人さんが望むことではないだろうか。

 もしそうなら、弘人さんにとっても珠希さんにとっても、止まったままでいるお互いの思いを解き放つ大事な一歩になり得るかもしれない。先生にとっても、弘人さんの格好を真似続ける拓真君にとっても、けして悪いものではないように思えるのだけれど……。

「珠希さんは、ちゃんと前を向いて進もうとしてるじゃないですか。私、それでいいと思います。弘人さんを好きな気持ちも、先生を好きな気持ちも、珠希さんの中から生まれた気持ちです。どっちが大事かなんて無理に決める必要はないんです。先生だって、きっとわかっていると思います。だから珠希さんがここに来ることを許したんだと思うし」

 再び野乃が口を開く。その声は不思議と、渉の焦燥感も消してくれる。

 固唾を飲んで見守っていると、ふいに相好を崩した珠希さんが困ったように笑った。

「ああもう。みんな好き勝手なことばっかり言っちゃって。要は、私がどう解釈するかの問題なんでしょう? 弘人の気持ちを想像するしかない以上、先へ進むのも、立ち止まり続けるのも私次第なんだよね。……でもきっと、弘人は立ち止まることは許してくれないよ。そういう人だから私は好きになったし、弘人がいなくなってつらいときに支えてくれた担任のことを好きになっていったのも私だもん。やばい、私、モテモテじゃん」

 それから、へへ、と笑って肩を竦める。

 勝手なことを言わないでと声を荒げることも想像していたけれど、そう言った珠希さんの表情は、困っていながらも、どこか吹っ切れたような部分も感じられる。

 すっかり冷めきってしまったエスプレッソを含み、彼女は言う。

「もしかしなくても、拓真は私が死のうとしてるんじゃないかと思ってここまで追いかけてきてくれたんでしょ? 店には辞める事情は話さなかったし。……だって恥ずかしいでしょ、赴任先についていくとか。けっこうきつめの顔立ちをしてる私のキャラって感じでもないじゃん。それに、ただ偶然居合わせただけのあなたも、店長さんも、それからそこの君も、人がいいっていうか、優しいっていうか……。なんとなく雰囲気でわかっちゃうんですよね、心配してもらってる、案じてもらってるって。これじゃあ、ちゃんと幸せにならなきゃ弘人に悪いよ。シガレットケースも香水も、好きだった気持ちも、置いていくことも捨てることもまだまだできそうにないけど、でも私には、こんな私がいいって言ってくれる人ができたし。……うん。そろそろ、思い出に変える準備をしないとね」

 そう、一人ずつと目を合わせ、自分自身に言い聞かせるように。

 どうやら渉たちの気持ちは珠希さんに通じたようだ。昨日からずっと案じていたので、渉はやっとほっとする。それと同時に、キュッと身が引き締まる思いがした。

 これからの珠希さんは、自分なりに解釈した弘人さんの思いを受け継いで人生を歩んでいくのだろう。そんな彼女を少しでも後押しできるように、とびきり美味しいコーヒーを淹れてあげたいと思う。弘人さんが淹れたエスプレッソには、きっと勝るものはないだろうけれど。それでも、珠希さんのために。拓真君のために。

 ――そして、弘人さんのために。

「すっかり冷めてしまいましたよね。今、新しいものを淹れます」

 そう言って椅子から立ち上がった渉に、珠希さんが目元を軽く指で拭いながら言う。

「はい、お願いします。エスプレッソ、弘人のぶんも」

「かしこまりました。拓真君や二人はどうします?」

「お代わりで」

「私も」

「俺も」

「はい。エスプレッソ三つに、ホットカフェオレ二つですね」

 渉が笑って頷くと、四人も笑って頷き返してくれた。

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