6
やがて午前中から降り続いていた雨も綺麗に上がった頃、珠希さんと拓真君は渉たちに何度も頭を下げて店をあとにしていった。店内から見える窓の外の木々には、薄日が差してキラキラと輝く雨の残りが、緩やかに吹く風に乗ってきらめいている。
五月も下旬になると、よりいっそう日が長くなる。洗いざらしとなった雨上がりの薄茜色の空に薄っすらと架かる虹のアーチが、店の中からでもよく見えた。
「でも、あんな少ない情報量で、よく弘人さんが珠希さんから身を引こうと思ってたんじゃないかってわかったよな。拓真さんだって、野乃の推理を聞いて思い出したところがあったし、俺なんてさっぱりわかんなかったのに、なんかすげーよ……」
しばしその虹を三人で眺めていると、感心したように元樹君が口を開いた。いや、感心したというよりは、野乃の洞察力に戦々恐々といったところかもしれない。
文香さんと上尾さんのときもそうだったけれど、野乃がお客様と対峙しているとき、渉や元樹君はすっかり蚊帳の外だ。二度も彼女たちの失恋を救い、送り出した野乃を間近で見ていると、やはり渉も野乃に一種の畏怖のような念を抱いてしまう部分がある。
「そんなの、こじつけに決まってんじゃん」
しかし野乃は表情一つ変えずに、しれっと言う。
「……は、え……?」
渉と元樹君の空気の抜けたような声が見事にシンクロし、一瞬の静寂を作る。そんな二人を一瞥して、野乃は窓の外に目を向けると、その理由を話す。
「珠希さんは、先生についていくことを決めて弘人さんとの思い出を整理しようとしてたけど、そう簡単に整理できるものじゃない。もう亡くなってしまっているんだから、なおさらのはずでしょ。でも、これからを生きていく人にとっては、いつかはサヨナラしなきゃいけない思いっていうのも、きっとあって当たり前なんだと思う。珠希さんは、誰かに〝それでいい〟って言ってもらいたかっただけだと思う。拓真さんの話を聞いてたら、もしかして弘人さんも珠希さんのことが好きだったんじゃないかと思ったの。珠希さんが先に先生の話をしてくれたのも大きい。こじつける、なんて言い方をしたら全員に失礼だけど、でも珠希さんには、胸を張って先生のところへ行ってほしかった。先生に対しても弘人さんに対しても、後ろめたい気持ちでいてほしくなかったんだよ」
「そ、そうなんだ……」
「うん」
「うん、って。なんか野乃、俺の知らないところでいろいろ考えてんだな……」
「そりゃそうでしょ。汐崎君だって、私の知らないところでいろいろ考えることもあるでしょ? それと同じことだよ。たまたま、強引でもいいからこじつけられる材料があったことと、珠希さんが私がでっち上げたこじつけを〝自分の解釈次第〟って言ってくれる人柄をしてただけで、本当は上手くいく自信なんてちっともなかったし」
そう言って手のひらを握り込む野乃の手が微かに震えていることに、今さらになって渉はようやく気づいた。一か八かの賭けだったんだろう、どう転ぶかは未知数で怖かったんだろうと思うと、野乃のその小さな体を無性に抱きしめてやりたくなる。
幼稚園児の頃よりはだいぶ大きくなったが、おそらく野乃の体格は平均よりやや小ぶりなように思う。その体で珠希さんが抱える失くした恋に向かっていった野乃を思うと、抱きしめたくなるのもそうだけれど、自分が淹れたコーヒーで早く「美味しい」と心から笑ってもらいたい気持ちが、自然と胸の奥から湧き起こってくる。
相変わらず元樹君に対してはドライな口調を崩さないけれど、気を張らずに接せられる相手だからこそ、野乃はそんな言い方ができるのだろう。元樹君も元樹君で、そんな野乃をすっかり受け入れている様子だし、なかなかいいコンビかもしれない。
「でもさ、一個、よくわからないんだけど」
すると、元樹君が頬杖をついて野乃と同じ窓の外を見やった。野乃は握り込んだ手のひらを緩くほどき、元樹君には顔を向けずに「なに?」と問う。
「弘人さんは、なんで好きなのにそれを
「……子供だねぇ」
しかし野乃は、またもやドライな口調でそう言う。ちょっと小バカにしたようにも聞こえるのは、野乃がわざとそう聞こえるようにしているからなのだろうか。
「はぁ⁉ 野乃だって俺と同い年だろ。バカにすんなよ」
「あ、やっぱそう聞こえた? ごめん、ごめん」
「なっ……!」
おや、本当に小バカにしていたようだ。元樹君がかわいそうだから、そろそろやめてあげなさい、と渉は静かに苦笑する。でも、そんなふうに言える相手がいることは、やはり野乃にとってプラスの要素が大きいことでもある。ケンカ腰になるようなら早めに止めようとは思うけれど、もう少し、このまま見ていてもいいかもしれない。
一つため息をつき、野乃が言う。
「汐崎君はまだ、身を引こうと思うくらい誰かを本気で好きになったことがないから、モヤモヤするんじゃない? 弘人さんが身を引こうとしてたっていう前提でこんな話になってるけど、でも、身を引くのは美学とかそういうんじゃなくて、相手の幸せを本気で思うから出てくる感情の一つなのかもしれないよね。告うのも告わないのも、どっちも正解なんだと私は思うよ。もしかしたら弘人さんも自分のことをちゃんとしたら告うつもりだったのかもしれないし、そこは私にもわからないけど……目の前に自分よりちゃんとしてる人が現れたら、やっぱり、ちょっとは後ろ向きに考えちゃうこともあるんだと思う」
「そういうもん……?」
「私はね。もちろん全部想像だけど」
「ふーん……」
納得したのか、いないのか。そう言って元樹君はちらりと野乃の横顔を窺う。野乃はまだ薄っすらと空に架かる虹を見ていて、ちょうど顔の正面に薄茜の西日を浴びていた。瞬きをするごとに薄らいでいく虹を見つめながら、野乃は今、何を思っているのだろうか。元樹君が再び窓の外に目を向けたので、渉もなんとなくそちらを見てしまった。
きっと元樹君は、まだキラキラしすぎているのだろう。眩いくらいにピカピカ光っていて、真っすぐな感情を持っていて、当たり前のように〝告う〟選択肢を口にできる。だからこそ野乃も救われている部分があるように思う。それでいい。それが彼の魅力だ。
「そんな恋をすればわかるよ」
野乃が言った。
その声はもうバカになんてしていなくて、ただ純粋に野乃の心からの言葉のように聞こえる。しかし渉には、そこに切なさも潜んでいるように聞こえた。できることなら元樹君にはわかってほしくない恋の形だと。そう、静かに訴えているようにも聞こえたのだ。
渉だって彼にはつらい思いをしてほしくはない。一度、失くした恋に立ち止まってしまったら、再び歩き出すまでに相当の勇気と覚悟と、それから長い時間が必要だから。
もちろん野乃にもだ。彼女は何に立ち止まっているのだろうか。
「まあいいや。今は親父の漁を手伝うのに夢中で、誰が好きとか、そういうのはあんまり考えらんないし。すみません、渉さん、今日も長居しちゃって。そろそろ帰りますね」
「ああ、うん。こっちこそ引き留めちゃってごめんね。いつでも遊びに来て」
「はい。カフェオレ、ごちそうさまでした。あったまりました」
そう言って席を立つ元樹君を送り出す。彼は最後に野乃に向けて「また明日な」と笑ってドアベルを鳴らして帰っていった。残ったのは、当たり前だが渉と野乃だ。そろそろ空いたカップを片づけようと、渉も傍らに置いた銀盆を手に、席を立つことにする。
「そういえば、渉さん。拓真さんは大丈夫なんでしょうか?」
カチャカチャとカップを洗っていると、野乃がこちらに顔を向けた。自分のせいで亡くなってしまったと気に病み、ずっと弘人さんの格好を真似続けている拓真君が気がかりなのは、渉も同じだ。珠希さんだって、そのことを気にかけていた。
――でも。
そう思ったとき、渉はふと、なぜ拓真君が店に入ってきたときにドアベルの音を聞き逃してしまったのかがわかり、小さく「……あ」と声をもらした。
「え? どうかしました?」
カウンターに駆け寄ってくる野乃にあるものを見せながら、渉は微笑む。
「ううん。弘人さん用に淹れたエスプレッソの底に溶け残った砂糖があるんだけど、珠希さんも拓真君も、もちろん俺たちも、弘人さんのカップには触ってないでしょう?」
「……は、はい。でも、え、それって……」
「うん。たぶんだけど、二人をここに呼んだのは弘人さんなんだと思うんだ。そして、エスプレッソを飲んでいった。珠希さんのことも拓真君のことも心配でしょうがなかったんじゃないかな。珠希さんが前に進もうとしているところを見たら、拓真君も前を向けるかもしれないよね? その思いが、この砂糖なんじゃないかなって思う」
「……」
目を瞠る野乃に、渉はふふ、と笑って続ける。
「ここで会ったのは偶然って言葉で片づけられるだろうけど、弘人さんのカップに残った砂糖は、あまりにも現実的すぎる。拓真君が店に入ってきたときにドアベルの音を聞き逃してしまったんだけど、きっと鳴らなかったんだと思うんだ。だから弘人さんも、この店に一緒に入ってきたんだよ。変わろうとしている珠希さんを見てもらって、拓真君にも、変わっていいんだって思ってもらいたかったから。――とかね」
厳しいこじつけかな?
渉が苦笑混じりに頭の後ろを掻くと、野乃がふるふると首を振った。
「いえ。私よりよっぽど素敵なこじつけです」
「はは。だといいんけど。……でも、弘人さんにも俺たちにも、珠希さんたちにできることは、もうここまでなんだと思うんだ。弘人さんみたいに、二人とももう大丈夫だって思いながら心の中に留めておくことしかできないんだと思う。これは俺の勝手な想像なんだけど、もしまた拓真君がここに来てくれることがあったら、そのときはちゃんとベルが鳴ると思う。――それで野乃ちゃんの質問の答えにして大丈夫?」
そう尋ねると、溶け残った砂糖に目を落としていた野乃が顔を上げた。
「はい。すごくいい答えをもらいました……!」
「そう」
野乃がにっこり笑う。それにつられて、渉も眼鏡の奥の目を細めて笑った。
ふと窓の外に目をやると、いつの間にか虹は消えていた。その代わり、少しずつ夜の帳を下ろしていく東の空にせっかちな星が一つだけ、キラキラと輝きはじめていた。
「さあ、今日は何のご飯にしよう?」
「そうですね……景気づけって言ったら変ですけど、カツが食べたいですかね。確か豚ロースがあったと思うし、なんだか元気が出そうな気がしませんか?」
「うん、わかった。じゃあ今夜は高カロリー食にしようか」
「はい」
野乃をカウンターの中に招き入れ、渉は弘人さんのカップを洗う。その横で野乃が慣れた手つきでざるを取り出し、米びつから米を量っていく。
今日は渉自身にもちょっと信じられないようなことが起こったが、まあこんな日もあるさと、綺麗に洗い終わったカップを布巾で拭きながら渉は思う。
人を大切に思う気持ちは、生きている人も亡くなった人もきっと同じだ。誰も入れていないはずの弘人さんのカップに残った砂糖を見て温かい気持ちになったのは、野乃が、こじつけでも何でも、生前の彼の思いを二人に伝えたからなのではないかと思う。
弘人さんにも美味しいと思ってもらえていたらいいな。
そんなことを思いながら、渉はそのカップをそっと棚に戻した。
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