第18話 涙の記憶

「さぁ、こっちに」

 僕はデリアに腕を掴まれ、そして駆け出していた。


「デリア、なんで、いや、これはいったい……、運転手は、僕は、嗚呼、なんてことを……」

 デリアの手は相変わらず冷たく、湿り気があり、僕の手を引くうしろ姿は獣の翼と小さく引き締まったお尻、尾てい骨から生えている黒くて長くて細くて艶のある尻尾。本当にセクシーだ。


「どうして、こんなことに、なぁ、助けなきゃ。デリア、止まって、デリア!」


"現在、緊急回避モードです"

 後ろを振り向くと、乗用車の前の部分は電信柱にぶつかったかのように先端がつぶれていた。フロントガラスは割れ、人影が見える。ぐったりとしている。


「助けなきゃ、あの人……死んじゃうよ」

 すぐに野次馬が集まってくる。スマフォで撮影する人、電話を掛ける人、車の中の様子を覗う人、大きな声で何かを叫んでいる。どうやら運転手の意識がないようだ。


"危険地域からの離脱を確認、緊急回避モード解除"


 通りの反対側に出て、狭い路地に入り、横道に入る。そこには小さな公園があり、そのベンチまで彼女は僕を引っ張っていき、無理やりに座らせた。

 公園には野良猫が二匹こちらの様子を覗っている。


 彼らには僕らが認識できるのだろうか。


 小さな滑り台と砂場、ベンチが二つに、街灯とトイレがあるだけの小さな公園は、周りの建物に陽射しを遮られ、物悲しく、冷たく、荒れていた。


 僕は今まであまり疑問にも思っていなかったことの答えを、いきなり目の前に突き付けられ、自分の愚かさや無関心さや、無責任さ。そして自分が置かれている状況のリアルさに震えるしかなかった。


 僕は機密事項モードについて勘違いをしていた。


"~ただし選択者が機密事項と宣言した情報についてはこの限りではない。天使、悪魔のそれぞれに機密事項として宣言された行動、言動があった範囲の時間の記憶は、機密事項を宣言された天使、または悪魔の記憶から削除される。ただし、同時にどちらに対しても機密事項であることを宣言することはできないものとする。また機密事項の総発動時間は12時間を超えてはならない。また機密事項の総発動時間は12時間を超えてはならない。また連続して1時間を超えてはならない~"


 時間の制限は、単純に僕に対する制約だと考えていたが、これはアデールやデリアが、僕を守るために必要な行動限界時間だったのだ。


"~選択者はこれより168時間は天使と悪魔の加護を受け、不死身とする。ただし選択者が世界の滅亡を望む場合はこの限りではない。また、選択者が宣言した選択期日までの間は天使と悪魔の加護は受けられないものとする~"

 僕はこの加護というのは、天使でも悪魔でもなく、もっと絶対的な神のような存在によって、僕の不死身が守られるのだと考えていた。

 だからもしも事故に合いそうになったら、僕は物理法則を無視して瞬間移動をしたり、物質を通り抜けたり、或いはいったん死んでも行き返るみたいな、そういうことをイメージしていたが、それは間違いであった。


「なぁ、デリア。機密事項モードと緊急回避モードについて、聞いてもいいか」

「はい。ただし、現在のシーケンスは、機密モード化における緊急回避モードの発動並びに、付随する規則事項モードです。制限時間はあと1分です」

「ならば、まずデリア。君にお礼を言わなきゃな。僕を助けてくれてありがとう。そして……、どうして教えてくれなかったんだ! こんなことになりうると、どうして、もっと、早く……、僕は気づかなかったんだ。ゴメンよ、君にあんなことをさせたのは、僕なんだ。君が悪魔だからじゃない。僕が間抜けだからだ」


 無表情なデリアに僕はすがり付き、涙を流した。

 涙の熱さに遠い記憶を思い起こされる。


 こんなふうに涙を流したのは、小学生の時以来だ。

 友達数人と公園で野球をやって遊んでいると、そこに隣の学校の上級生がやってきて、僕らを追い出そうとした。まぁ、よくある上級生が下級生にやる理不尽の類だが、いつもなら尻尾を巻いて逃げるところを、その日の僕は機嫌が悪く、うっかり逆らってしまった。


 機嫌が悪かったのは、アヤネェに家の手伝いをサボったことを注意されたからであり、僕がうっかり忘れたのが悪かったのだが、忘れていることを注意されれば、すぐにやれたものを、アヤネェは自分で全部やってしまってから、僕の挽回のチャンスを与えず、ただ批難するのである。

「言ってくれればやったのに」

「言われなければできないなんて、いつまで子供のつもりなの」


 僕は子供だ。小学生6年生だ。子供と言われるのが一番嫌だということを、アナネェは解っていない。


 結果僕は中学生相手に喧嘩を売り、ボコボコにされる一歩手前で、アヤネェに仲裁されてしまうことになった。情けなくて悔しくて、僕は泣いた。

「馬鹿ね。中学生相手に喧嘩をして勝てるとでも思っていたの」

「だって、僕、悪くないもん」

「でも、正しくたって、暴力で解決するなんて、そういうの、嫌いよ。本当、子供なんだから」


 助けてくれてありがとうと礼を言えず、ごめんなさいとも謝れず、僕は泣くしかなかった。


「あなたが間抜けだからだはありません。デリアが悪魔だからではありません。あなたのせいではありません。残り10秒。教える必要を認めません。礼には及びません。通常機密事項モードに移行します」


 デリアは姿を消した。


「機密事項モード解除だ」

 アデールが姿を現した。彼女は何が起きたのかを何も知らない。天使の微笑みで僕を見つめている。

「アデール、僕は……」

「どうされましたか、京次様」

 アデールはまさに天使のごとく僕の傍らに舞い降りた。

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