第26話 滅亡する世界
「うん、そういうことは、僕もすごく興味があるね」
神代社長はバタフライ効果について語り始めた。
「遠い大陸の蝶の羽ばたきが、大きな波風となって、ひとつの島国を飲み込んでしまうっていうスケール感を持って生きているとね。見えてくる世界が、ガラっと変わってくるんだよ。ボタン戦争なんて昔の言葉だけどさ、今の世界は、その小さな羽ばたきで、世界が滅びることがないように、システムを構築しなきゃ、ならないんだよ。これ、発想の転換ってやつね。田嶋先生が好きな」
まさか、こんな場所で、世界が滅亡する話が出るとは思いもしなかった。
「未来予測なんて簡単にはできないけれど、悪い予感はよく当たるんだよ。それをビジネスにしたらどうかって言うのが、この会社を興したきっかけなんだよ」
ずいぶんなことを言う人だと思った。
「羽佐間君には、その才能があるんじゃないのかな」
僕は少し怖くなったが、それでも言いたいことは、言わなければいけないと思った。そう思えて、そう行動できるように、僕は変わったのである。
「それはどうでしょうか。僕にはわかりません。ただ、ひとつひとつの選択を大事にしなければいけないとは、思います。これからは、そうやって生きていこうと……別に誰かの死に際にそういうことを吹き込まれたわけではないのですが、選択を間違えれば"世界が滅ぶかもしれない"くらいの覚悟で、エッチなビデオを借りれば、失敗はしないんじゃないですかね」
神代社長は僕を大いに気に入ってくれて、是非ともうちに来て欲しいと言ってくれた。僕は田嶋先生に紹介されたもう一社のこともあるので、そこは先生と相談をさせて欲しいと、即答を回避した。
次の日、僕は田嶋先生を訪ねて、正直、あの社長は苦手だと話した。それでも仕事は面白そうで、そこにお世話になりたいと話すと、こんな話を聞かせてくれた。
「神代は油断ならない男だ。それが分からん奴には、紹介はせんよ。羽佐間は慎重な男だ。多分、基本的に人間を信じていないだろうが、それでいいだよ。信じる奴は騙される。統計などというものは、人を騙す道具でしかない。そう考えられる奴が、一番そういう仕事には向いているのさ」
早くから就職先が決まっていた僕は、正直なところあまり真剣にゼミに参加していなかった。だから先生にもあまり興味を持っていなかったが、なるほど。この先生にしてあの卒業生なのか。
それを縁というのであれば、僕の選択――卒論が簡単でいいというのは、そのこととまったく直結していなかったわけだから、バタフライ効果というのは、確かに恐ろしいし、逆に意識したところで、回避可能なわけでもない。
結局、そのとき、そのときの価値基準で選択を繰り返すしかない。
"選ぶのはあなた"
"あなたは選ばれた"
"選ぶのは自由"
"選んだのはあなた"
第七の選択のあとに見たテレビ画面に映し出された映像が脳裏に浮かぶ。
"あなたは正しい選択をすることができる"
天使でもなく、悪魔でもなく、僕自身で決める。
僕はその場で人事課の担当者に連絡をとり、四月からお世話になる旨を伝えた。
僕は人生の大きな選択を10日あまりで決めてしまったことになる。
アダルトビデオを選ぶよりも時間をかけていない気もするが、いくら時間をかけたからといって、必ずしもいい結果が得られないということを、僕は知っている。
この時僕は、すでに"最後の選択"の答えを決めていたのかもしれない。
しかしそれは、まだ、まだ先のことだ。
僕は母に連絡を取り、就職先が決まったことを伝えた。
「じゃあ、お祝いしないといけないわね。土曜日はアルバイトあるの? うちに来ない」
通常土曜は隔週で昼にバイトが入っている。今週は休みだった。
「大丈夫だよ。何か美味しいもの作ってよ。なんか、お腹空いたよ」
ここ数日、食事が不規則になっていたのは確かだった。
「あなた、ちゃんとご飯食べているの?」
だからと言って、正直に食べていないとは言えない。
「どうしても弁当とかラーメンとかになっちゃうからさ、たまには手料理をたらふく食べたいと思って」
自分でも不思議なくらいに、そういう言葉ができてしまう。
「あら、やだ、この子ったら、どこでそんな調子のいい言葉を覚えたのかしらね。彼女でもできたの?」
これが"オンナの勘"というやつなのか。それとも"母の千里眼"なのか。電話口でも動揺を隠せないところは、まだまだ僕は青かった。
「そんなんじゃないって、そんな暇ないし……」
まぁ、確かに彼女ではないんだ。天使と悪魔だ。
「就職が決まったからって、羽目を外しちゃダメよ。人間、どこでどうなるのかわからないんだから」
僕は嫌な予感がして、適当な理由を付けて電話を切った。
うっかりすると、またしても"いつ世界が破滅してもおかしくないんだから"なんてことを言われかねないと思ったからだ。
しかしどうやら、そういうことなのかもしれない。
みんな心のどこかで、世界が破滅するイメージを共有しているのかもしれない。
僕は改めて戦慄した。
そして、その運命を握っているのは、僕なんだ。
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