第17話 緊急回避モード
僕は三日ぶりに外出して数分後、車の事故に遭遇することになる。
もし規則事項がなかったら、無事ではいられなかっただろう。
"選択者はこれより168時間は天使と悪魔の加護を受け、不死身とする"
久しぶりに外に出たこと、デリアに生気と吸い取られて体力がすっかり落ちていたこと、精神が病んでいたこと。要因はいろいろとあるのだけれど、一番の原因は"スマフォのながら歩き"である。
最初の三日を天使と過ごし、そのまぶしさに耐えられなくなった僕は、四日目、五日目を悪魔と過ごした。
しかし悪魔との二日間で僕は徹底的に病んでしまい六日目を天使アデールと過ごすことにした。
バイトを休み、やらなければならない就職活動をさぼり、水も食事もとらずに悪魔デリアに心底惚れてしまった二日間で、僕は骨の髄まで生気を吸い取られてしまった。
でもそれを悪魔のせいになどしない。
全部自分が選んだことだ。
AV選びに失敗したからといって、パッケージや女優の演技やカメラワークに文句とつけても仕方がないことのように、それは自己責任という物なのだ。
もちろん失敗ではなく、何度でも見たい良作に出会ってそれで干からびるまで自慰行為をしたとしても、自業自得なわけで、そのような業を背負って生まれてきたのだから、僕は僕であることを卑下もしないし、否定もしない。
そういうことは本来誰にも知られないことであって、僕はこんな人間であってもコンビニのバイトでレジに立った時は、可愛い女子高生やきれいなお姉さんが居たとしても、それで欲情してあんなことやこんなことを妄想するわけではない。
天使や悪魔がそうであるように、規則事項モードや機密事項モードがあって、オンオフを繰り返しながら生きている。それは多かれ少なかれ、人とはそういうものであると、僕は信じて疑わない。
と、そんなことをあれこれ考えながら、僕はスマフォでメールやらメッセージやらを確認していた。
母が僕を心配して電話とメールをしてきている。
「就職活動の方はどう? 焦らずに時間をかけて、納得のいくまで、しっかり選ぶのよ」
母はこんな時、慌てず、しっかり、が基本である。
母のマイペースさは、我が家の支柱だといっていい。父は黙って語らずというわけではないが、昔から細かいことを僕に言う人ではなかった。
見守るというわけでもないが、そういう役はむしろ姉が負っていた。
「あんたって、肝心なところでツキがないわね。どうした? 堕ち込んじゃったりして、やけ酒でも飲んでいるの? 母さん心配しているから、ちゃんとメールくらい返信なさい」
姉のメッセージに妹が呼応する。
「こういうときこそ、気合が大事よ。面接官をぶっとばすくらいの勢いで、ガツーンと決めて来てよね。就職決まったら東京ばな奈買ってきてね。お母さんがご馳走作って待ってるって」
気合と根性にニンジンをぶら下げればなんとでもなると信じ、何事もなしてきた妹らしく、頼もしく、妬ましい。
めずらしく間宮次郎からもメッセージがきていた。
「風邪とかいっちゃって、彼女でもできたか? それともふられた? 就職活動とか大変なわけ? こっちは大丈夫だから、早く復帰しろよ。いや、実際、大丈夫じゃないから、マジで」
僕がどれほどの重圧を背負って、この六日間を過ごしてきたのか、僕を心配し、気遣ってくれるごく身近で、ごくわずかな人たちの日常を、僕のような者が壊していいはずはないのだ。
人類が滅亡しようが、世界が破滅しようが、僕は僕とつながってくれているわずかな、本の一握りの人たちのためになら、どんなに辛い選択も進んでやろうじゃないか。
この時僕は、そんな無駄に前のめりに前向きな気持ちになっていたものだから、すっかり、周りが見えなくなっていた。
そこに一台の乗用車が突っ込んできた。
というより、僕が走ってくる乗用車の前に、無防備に、無責任に、無自覚に飛び出したのである。
ブレーキ音とクラクション、どちらが先に鳴ったのか、それに気付いて横を向いたときには運動の法則に従って、まったく回避不可能な位置関係にあった。
避けられない。
僕はどうにか車がすれ違えるほどの路地から、自転車専用車線がある大き目の通りの交差点を渡りかけ、出会いがしらに車にはねられる寸前だった。とっさに僕が思ったこと。
"ゴメンなさい"は、僕がスマフォに夢中になる格好で考え事をしながら車の前に飛び出してしまったことに対する、運転手への謝罪から始まり、僕が家族や友人とのやりとりをスマフォでしていたことが事故の後にわかったとしたら、彼らにも申し訳ないという気持ち。そしておいしいものを食べさせてあげると言って部屋に置いてきた天使アデールに謝らなければならないという長い文脈の末尾に相当した。
"緊急回避モード"
デリアの声だ。それも規則事項モードの無機質なそれだ。
そして突然彼女は僕の前に姿を現した。
ブレーキ音、クラクションに続き、大きな激突音、ガラスの割れる音、金属が拉げる音、コンクリートが削れる音。
僕は混乱した。
生まれて初めて命の危険を感じ、そしてその危機から救われた。
それを救ったのは目の前にいる美しき悪魔である。
"ありがとう"とは言えない。
悪いのは、僕なのだから。
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