第6話 魔女の実験 後編

 次の日、俺が目を覚ますと、右手に違和感があった。

 右手の甲に、何と言うか、真っ直ぐカッターで切ったかのような切れ目が走っていたのだ。


「何だこれ……」


 俺がそっと手の甲を撫でると、グチュっと音がして切れ目がパカリと開いた。


 特に痛みはなかった。

 ただ、そこに、目があった。

 ギョロッとした目玉が俺の手の甲についている。


「何だぁ、こりゃあ……」


 俺は首をかしげ、自分の目を確認する。ちゃんとある。両目とも見える。少なくともこんな場所に眼球移植をした記憶はない。


 もしや邪眼……?

 都会に来て覚醒した?

 いや、この如月荘という空間が、俺の眠れる才能を目覚めさせた?


「眠れる獅子の目覚めは、これから始まる壮大な運命の序章にすぎなかった……」


 意味深なモノローグを語ってみたものの、むなしさが胸を満たすだけだった。


 だが、反応してくれる存在が一つだけあった。

 右手の甲に生まれた目だ。

 まるで意思があるように、俺の言葉に目をぱちくりさせる。


「なんだか愛らしいな」


 そっと撫でてやる。

 すると、右手の目は猫や犬の様に穏やかにまぶたを閉じた。

 どうやら気持ちが良いらしい。


「こいつ、生きているんだ……」


 不意に俺は昨日のことを思い出す。祈さんの作ってくれたシチューだ。

 ひょっとして、あれを食べたからこんな目玉が出来たのか。

 一人暮らしを寂しがっている俺に対する、祈さんなりの贈り物なのかもしれない。


 ふと寝床に置いておいたスマホに目がいった。

 時刻は八時半。家を出るデッドラインだ。


「ヤバい!」


 俺は飛び起きると、急いで準備を済ませて如月荘を出た。

 祈さんに事の次第を説明するのは後でいい。

 今日の一時限目は必修科目なのだ。

 上京して留年などしようものなら、母と妹に何をいわれるか分からない。




 なんとか一限目の講義に出席し、ふぅと一息つく。走ってきたので随分疲れた。

 疲労で机に突っ伏すと、手の甲の目がこちらをパチクリと見ているのに気がつく。


 シャーペンで突きたい。

 そのような願望が俺の中に生まれる。


 何せ触れてもまるで自分の肉体ではないように感触がないのだ。

 そこだけ部分麻酔を打たれたかのような、そんな気分。

 刺したら治るんじゃないかという考えが浮かぶのは無理もない。


 手に持っていたシャーペンを見ると、右手の目は怯えたようにフルフルと震えだした。どうやら俺の意思も体を通じてこいつには伝わるらしい。


「わかった。シャーペンで刺すのはやめておく。その代わり、良いか? 人前で目を開くんじゃないぞ。普段は俺の手に同化して静かにしてるんだ」


 瞬きで首肯する目の形をした寄生者。

 なかなか聞き訳が良いじゃないか。


「可愛いやつめ」


 俺が言うと、照れたようにまぶたをパチクリさせてくる。

 ふふ、こう言うのも悪くないかもしれないな。




 午前の講義が終わり、他の人たちがサークル仲間達と歩く姿を横目に、俺は学食で飯を食う。

 すると、何か問いたげな瞳で、右手の目が俺を見てきた。


「俺、まだあんまり学校に馴染めてなくてさ。友達、少ないんだ」


 すると「そうか」と言わんばかりの瞳で、右手の目は俺を見つめてくる。

 優しい視線だった。


「何だろうな。俺、お前と居ると心が落ち着くよ。お前は俺を馬鹿にしないし、焦らさない。黙って傍に居てくれる。でも、それが心地いい」


 すると、嬉しそうに右手の目は俺のことを見つめた。

 こいつが居れば俺は大丈夫かもしれない。

 そう思えた。




 その日の晩。如月荘にて、四人で食卓を囲う。

 最初は違和感のあったこの光景にも、大分慣れてきた。

 思えば、東京と言う都会の中で、こうして寂しさを抱えすぎないのも、この人たちのおかげなのかもしれない。


 その日の食事は、ハンバーグだった。

 でも、俺は朝食を食べていなかったので、朝飯がそのまま晩飯に回され、食パンに目玉焼きを食べていた。

 明日はちゃんと早起きしようと思う。


「そう言えばさ、鳳君」

「物を口に入れながら話すのは行儀が悪いすよ」

「あんたは母親か。そうじゃなくて、その後どう?」

「どう? とは」

「ほら、シチュー食べたでしょ? その後何か変化あった?」

「いや、別に」

「そっか。失敗かな」


 そこで俺は、右手の甲に走った切れ目を思い出す。


「そう言えば、目が出来ましたね」

「目?」


 俺が手の甲を見せながら「ほら」と言うのと、右手の切れ目が開いて目が出てくるのと、三人が口に含んでいた食物を噴出して全方向から俺にぶっかけるのはほぼ同時だった。


「鳳さん! 何ですかそれは!」

「鳳くん! 手に目が! 手に目が出来てますよ!」

「ちょっとあんた! 何でそんなの出来てるのに言わないのよ!」

「いや、何でって言われても……」


 三方からコメを噴射された俺は、全身米だらけになりながらも、そっと優しく右手を抱き寄せた。


「こいつと居る時間が、当たり前すぎて。忘れちゃってたのかもしれないな」

「消すわ、この目」

「えっ!? 嫌ですよ! そもそもこれを作り出したのは祈さんでしょうが!」

「あんたね、呪いに掛かってんのよ! そいつは人を使役して、最後は自我を食べて体を乗っ取る存在なんだから!」

「何ヤバイこと言ってくれてんすか!」

「ちょっと祈さん! 他の住人さんを実験に使ったらダメって入居の時に言ったじゃないですか!」

「だから責任取るっていってんでしょうが!」

「やだいやだい! こいつは友達なんだい!」

「あー! 面倒くさい! 安西さん、ちょっとこいつ抑えといてよ!」

「えぇ……、鳳君、よだれと米がついてて汚いですけど」

「あんたのも混ざってんでしょうが!」


 それから数十分の格闘を得て、祈さんの手により俺の右手から友達は消えた。


 俺は今でも思い返してしまうんだ。

 あの時、君が居てくれたから、辛くても頑張れた。

 たった一日だったけれど、僕の友達になってくれてありがとうって……。


「いや、ちょっといい話風に締めるのやめてもらって良い?」

「モノローグ読むの止めてくださいよ」



 数日後。



 部屋で俺が動画を見ていると、不意にドアがノックされた。

 祈さんだった。

 包装紙に包まれたプレゼントの様な箱を持っている。


「よっ、何してたの」

「エロい動画見てました」

「隠せよ」


 祈さんは呆れたように溜め息を吐くと、手に持った物を俺に差し出す。


「何すか、これ」

「この間は迷惑かけたからさ、ほんのお詫びよ」

「ほう、これはわざわざどうも」


 中を見ると、お菓子が入っている。クッキーにパウンドケーキ。どれも上手そうだ。


「食べてみなよ、ほら」

「じゃあ、遠慮なく」


 俺がクッキーを食べようとすると、祈さんは「あ、そうだ」とポケットからローションの様な物を取り出した。


「これ、先に飲んどいて」

「蘇生薬すか」

「うん。死なれちゃ困るからさ」

「なるほど、わかりました」


 ドロッとした蘇生薬を見つめながら、俺は今度母に手紙を書こうと思った。


 母さん、都会は厳しいけど、人体実験する人もいるけれど、何とか元気です。

 本当に、育ててくれてありがとう。

 さようなら。


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