第16話

「な、なにあなた」


 理恩はただならぬものを感じ取ったのか、前足を収めて若干距離を取った。


「自身の心想を見失っている奴に、名乗ってやるのは面倒だ」


 綴は写本を取り出し、ぱらぱらとページをめくる。


「あなたも、わたしの邪魔をするの? わたしとお父さんの間に入ってこないでよ!」


 理恩は感情に任せて攻撃を仕掛ける。綴の眼前に蟲の前足が迫った。


「少し、静かになれ」


 綴はページを破り取り、鎌に向かって投げつける。これまでと違い、ページは空中で状態を一瞬にして変化させ、真空の刃となる。

 漆黒の鎌と透明な刃が激突する。綴のすぐ脇に、切断された蟲の足が突き刺さった。勝ったのは綴の放ったページの方だ。


「ああああアアッ!?」


 予想外の反撃に、理恩が悲鳴をあげる。


「フン、意外ともろいな」


 綴が吐き捨てるように言う。その目は完全に蟲を見くだしていた。


「ああ、あなたなんなのよっ! 餌の分際で!」


「人間の口を借りないと、言葉も発せない虫けらが偉そうにほざくな」


 綴はもう一枚ページをつかみ、残った方の前足へ投げつけた。一瞬で刃へと変化し、いともたやすく切断した。


「あガッ! あああアアアア!」


 理恩は苦しみに悶える。切断された部分からどろどろとした液体が噴き出てきた。


「お父さん、助けて、お父さん!」


 理恩は無くなった足で必死にもがいた。先ほどまでの余裕は微塵もない。目の前の恐怖から逃げることしか頭にないようだ。


「チッ……やかましい」


 綴がさらに攻撃を仕掛けようとしたときだった。女王の傷口から零れ落ちた黒い液体が、意思を持ったように蠢きだした。


「お父さん、お父さん、お父さんお父さん!」


 理恩が父を求めて喚き散らす。それに呼応するように、ヘドロのような黒い液体は徐々に形を変化させた。細長い突起が人の身長ほどまで伸び、それが各方向へ枝分かれする。くびれができ始め、まさしく人の身体を形成した。


「お父さん!」


 理恩は待ち焦がれた少女の表情で父を呼んだ。

 黒い人型は彼女に呼応して腕を広げた。


「あれが、理恩のお父さん、なの?」


 形はひどく曖昧で、はっきりとした輪郭を保てず常に波打っている。色も蟲と同じ黒い皮膚をしており、頭にあたる場所に、一対の赤い眼が暗い光をたたえていた。まるで小さい子供がたわむれで作った泥人形のようだ。


「来てくれたのね、お父さん!」


 理恩の身体が女王の中に引っ込んだかと思うと、下部からもう一度ずるりと生えてくる。人形の父親に手を這わせ、愛おしむように抱きしめた。


「お父さん、怖いの。わたしを慰めて、ね?」


 理恩がそう言うと、人形はぎぎ、と油を差していない歯車のような動きで理恩の頭に手を乗せ、ぎこちなくなでた。


「あぁ……ああ! お父さん!」


 理恩は恍惚に満ちた表情を浮かべる。あの人形を父と信じて疑っていない。


「お父さん、ありがとう、お父さん!」


 理恩は人形を抱きしめる手を強める。人形が頭をなでるたび、黒い液体が零れ落ちて理恩を黒く染めた。


「ああやって、自分の中で都合のいい妄想に浸っていたようだな」


 綴が冷ややかな視線を送る。


「理恩が邪魔するなって言ったり、お父さんがるって言ったのは……」


「こういうことのようですな。蟲は宿主に都合のいい夢を見せて、その間に本を食べるといいます。常に満たされた状態にしておけば、多少記憶が欠落したところでなんの疑問も持ちませんから。それに、宿主に蟲を受け入れさせた方が、融合も早く済みます」


 理恩の顔を見ると、こよりも見たことのないほど満たされた、愉悦の表情を浮かべている。だが、それは蟲に都合よく作り出されただけのゆがんだ感情だ。


「あたし、許せない……!」


 こよりは静かな怒りを内に燃やしていた。人をただの餌や道具としか見ていないやつに、理恩をいいようにされるのは我慢ならない。しかし同時に、自分の力ではどうすることもできない悔しさをかみしめる。


「あたしの力じゃ理恩を助けられないから……お願い」


 こよりは綴に改めて頼んだ。理恩を絶対に救ってほしい。


「フン、言われるまでもない」


 綴は短く言うと、未だ人形を抱きしめている理恩を睨みつけた。


「夢はもう見飽きただろう?」


 綴は理恩に近づきながら挑発する。

 その言葉を聞いた途端、理恩は動きをとめ、ぐるんと首だけをこちらに向けてきた。まるで彼女自身も人形になってしまったかのようだ。


「あなたさえ……あなたさえ来なければ! わたしはここで幸せに暮らせたのに!」


 理恩はむき出しの憎しみをぶつけてくる。赤く染まった目が飛び出るほど見開かれた。


「その先に残されるのは、蟲に喰われて抜け殻になったお前の身体だけだ」


 もし本を食べ尽くされてしまったら、妄想を見たまますべてを失うのだろうか。それとも、最後の最後その妄想にすら捨てられ、絶望の内に消え去るのだろうか。想像することすら拒否したくなる。


「うるさい、うるさいのよっ! なんでもいいから早くここからいなくなってよ!」


 理恩は身体を再び女王の額に移すと、残った足を刃物のように変化させ、綴に振りおろした。

 綴は冷静に数歩さがってそれをよけると、ページを女王の胴体に放った。ページは皮膚を貫いたが、浅く刺さっただけだ。


「そんなの痛くもかゆくも……」


「――爆砕バクサイ


 綴が離れたページに文字を書くと、淡く光る文字が女王の内部から爆風を起こした。


「ギャアアぁアァぁ!?」


 理恩の叫びがこだまする。黒い肉片がはじけ、どろどろの液体が飛び散った。


「あなたなんなの!? どうして? わたしがなにしたっていうの!?」


 綴は無言でページを放つ。女王の身体が次々に削り取られていく。


「なんでわたしから奪うの? わたしは普通に暮らせればいいの!」


 理恩は必死に反撃するが、ことごとく綴によけられてしまう。


「お父さんが死んじゃったって、わたしにはお父さんがいれば幸せなの!」


「理恩、なに言って……」


「記憶が混同しているようです」


 理恩は激しい攻撃によって、明らかな混乱を示した。彼女の中には本物の父親と、蟲の作り出した父親が同時に存在している。


「なのにお父さん、なんであんなこと……!」


 理恩はもはや、綴やこよりのことは意識にない。苦しみから逃れたい一心で叫ぶだけだ。


「どうして捨てちゃったの? お父さんがくれたものなのに! わたしすっごく嬉しかったのに! 大事にしてたのに!」


 理恩の言葉の端々から、父親への憤りを感じる。理恩の大事なものとは、ヘアピンのことだろうか。

 綴がページを変化させ、女王の左側の足をすべて切断する。バランスを失った巨体がぐらりと傾き、崩れ落ちた。


「あ……ア……」


 理恩はすでに息も絶え絶えだ。女王の身体は自身の黒い血に沈んでいる。

 綴が黒い海の中をゆっくりと歩く。倒れてここまで降りてきた理恩の身体の前に立ち、静かに見おろした。


「――お、父さん、なんで、いなくなっちゃったの……?」


 綴はゆっくり目を伏せると、とどめのページを放つ。女王は爆散し、大量の紙片となった。すがるように手を伸ばした理恩の身体も、地面に溶けて消えていった。


「理恩……」


 こよりの耳に、理恩が最後に残した言葉が残響する。悲しみに満ちた声。あれはきっと理恩の本心だったのだろう。

 あれだけ黒く淀んでいたドームの中はすっかり静謐さを取り戻し、白い無数の紙片が散らばるのみだ。


「あとはこれを、本に直せば理恩は元に戻るのね?」


 こよりが待ちきれず、綴に確認する。ついに本の蟲を倒し、理恩が救われるのだ。自分のよく知った、明るく優しい理恩が帰ってくる。


「…………ふむ」


 舞いあがるこよりとは対象に、綴は眉間にしわを寄せている。

 普段の表情も渋面だが、さすがに今くらい喜んでもいいだろうとこよりは思った。


「どうかされましたか?」


 帯乃助も疑問に思ったのか、綴に問いかける。


「いや……これを全部直すのは骨が折れると思っただけだ」


「面倒がらないで早く直してよ!」


「五月蠅い、今やるから口を閉じろ」


 綴はやれやれといった調子で紙片に手をかざす。紙片が淡い光を帯び、ドームが輝きに包まれた。

 これで長かった冒険も終わりだ。やっと元気な理恩の姿を見ることができる。

 こよりは期待を胸に、輝きを見守った。

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