第1話

 視界が薄鈍色で覆われた。

 ばさばさと乾いた音が響く。


「ご、ごめんなさい!」


 少女は慌てて謝った。

 彼女の前には薄鈍色の紙切れ――大量のプリントに埋もれた男性が軽く目を回していた。


「あいたた……すまんすまん、無理して多く持ちすぎた」


「すいません、袖口そでぐち先生。あたしボーっとしてたみたいで……」


 少女は廊下に散らばったプリントを申し訳なさそうに拾い集める。二人とも前方不注意で衝突してしまったのだ。どれだけプリントを持っていたのか、リノリウムの床は紙で埋め尽くされていた。

 少女はこの学校指定の、赤を基調としたタータンチェックのスカートを履き、白のワイシャツを身にまとっている。後ろで一つに結ったしなやかな長い黒髪の先が、かがんだ拍子にぱさりとプリントの上に落ちた。

 苦労して拾い終えると、紙の束は袖口の上半身を覆うほどの山になった。これでは前が見えなくなるのも当然だ。


「さんきゅな。まったく、紙ってのは集まると重くてたまらん」


 袖口は軽い口調で礼を言うと、よっ、と気合を入れて立ちあがった。よろよろと足をもつれさせそうになっていて、見ていてかなり危なっかしい。


和装わそう、こんな時間にどうした? 忘れもんか?」


「あ、いえ、理恩りおんを迎えに、保健室に行くところです」


 袖口の足取りを心配しながら、少女――和装こよりはそう答えた。


「理恩? ああ、上原のことか」


 袖口は納得してうなずくが、その様子はプリントに隠れてよく見えない。


「すまんな邪魔して。早く行ってやんな」


 彼は紙束からわざわざ苦労して片手を離し、手をひらひらと振る。危なげなバランスのまま廊下の奥へと去っていった。


「先生、大丈夫かな?」


 こよりは苦笑しながら、自分の担任の後姿を見送った。少々頼りないところもあるが、生徒とまるで同級生のように気さくに接する、人気の高い教師だ。

 こよりは自分の目的を思い出すと、向かおうとしていた方向に急いだ。こんなところで時間を食っている場合ではなかった。早く理恩のところに行かないと。

 こよりの親友、上原理恩うえはらりおんは朝から不調を訴え、昼休みに入ってすぐ保健室で休んでいた。結局放課後まで戻ってこず、こよりは彼女を心配して迎えにきたのだ。

 理恩が体調を悪くしてしまったのも無理はない。彼女はつい先日、最愛の父を事故で亡くしたばかりだった。今日忌引きが明け、ようやく学校に出てこられるようにはなったが、父を亡くした隙間が一週間やそこらで埋まることはない。

 理恩と小さなころから付き合っているこよりは、もう一度あの明るい笑顔を取り戻してほしいと心から願っていた。

 あと少しで保健室に着くというところで妙な音が聞こえていることに気づく。こよりは耳を澄ませた。


「ああっ! ああぁぁぁああっ!」


「な、なに!?」


 耳を澄ますどころではない大きな声が廊下に響き渡った。反響していてわかり辛いが、どうやら保健室のある方向から聞こえてきているらしい。


「理恩!」


 彼女になにかあったら――はやる心を押さえつけ、こよりは保健室へと走る。

 近づくにつれ、声は大きくなる。それと共にこよりの心臓の鼓動も速く大きくなっていく。

 保健室にたどり着くと、戸を開けるのももどかしく思いながら引き戸を開け放った。

 空気がぶわっと一気に廊下へと流れ込み、こよりの髪がなびく。見ると窓が開いており、そこから風が吹き込んでいた。

 しかし、こよりが視線を釘づけにされたのは、窓ではなかった。

 病院の一室を切り取ったかのような保健室特有のカーテン付ベッド。こよりの髪と同じくなびくカーテンの隙間から、苦しそうな表情をした男子生徒の顔がちょうど見えている。廊下に響いた声は彼が発したもののようだ。

 そして、彼の額の上に別の人間の手が添えられていた。

 手が、ぼぅっと光を帯びている気がするのは目の錯覚だろうか。

 カーテンに遮られ、その人物の姿は確認できない。光に透かされてかろうじて影だけが見える状態だ。

 いったいカーテンの中でなにが起こっているのだろう。問題なのはその奥のベッドに理恩がいるということだ。まだ体調が快復していないならば、今もベッドで寝ているはずだ。一刻も早く彼女の元に駆けつけたいが、体験したことのない異常事態にこよりは足を踏み入れられないでいた。

 カーテンの隙間からのぞいていた手が、いまだ苦しそうに呻く男子生徒の額にぴたりとあてられる。その手をひらりと裏返したと思うと、苦悶の表情を浮かべていた男子生徒の顔が急に和らいでいく。ものの数秒で彼は嘘のように安らかな表情になった。なにが起こっているのか皆目見当もつかないこよりは、その様子を茫然と見守るばかりだ。

 次の瞬間、ひと際大きな風が部屋に吹き込んできた。カーテンはさらに大きくたなびき、中を露わにした。


「あ――」


 一人の見知らぬ少年が立っていた。薄青の襟付きシャツを着ているが、この学校の制服とは形が違う。なぜか辞書ほどもある白い本を腰に括りつけていて、明らかに生徒ではない。やがて少年は男子生徒の額から手を引っ込めた。


「っ!」


 少年は引き戸に手をかけたまま固まっているこよりの存在に気づき、キッと刃物のような鋭い視線を向けてきた。


「――見たか?」


「あ……えっと」


 突然言葉を投げられたこよりは、判断ができずに声を漏らすことしかできない。もっとも、正常に頭が働いていたところでまともに返事などできなかっただろう。

 少年はなおもギロリと睨みつけていたが、こよりが答えられないでいると興味を失ったように踵を返し、窓へ手をかけた。そのまま身を躍らせ、風のように姿をくらませた。

 こよりは今起こった出来事の整理がつかず、少年が出て行った窓を見ながら立ち尽くした。少年が腰に括りつけていた純白の本がいつまでも目に焼きついていた。


「って、理恩!」


 ハッと我に返ったこよりはようやく自分の目的を思い出した。急いで奥のベッドに駆け寄り、理恩の様子を確認する。

 さぞおびえているだろうと思っていたこよりは拍子抜けしてしまった。理恩はおびえているどころか目を閉じたまま、起きた様子が全くない。


「理恩、ねぇ。大丈夫?」


 呼びかけると理恩はようやく目を開け、ゆっくりとこちらを見る。まだ顔色は優れないようだが、見たところ大きな異常は見当たらない。こよりはホッと胸をなでおろした。


「こより……? どうしたの?」


「どうしたのって、ほんとに気づかないで寝てたの?」


「え? なにが?」


 理恩は寝たまま首を傾げる。たったいま真横で起こっていた出来事に気づいていないようだ。それほど深く眠りについていたのだろうか。


「……んーん、なんでもない。大丈夫? 帰れそう?」


「うん。心配かけてごめんね」


 こよりは持ってきていた理恩の荷物を渡し、そのまま家に送り届けることにした。


 理恩を家まで送ったこよりはまっすぐ自宅へは帰らず、その足である場所へと向かった。

 理恩の家から十分ほど、高校からもそう離れていない場所に、大きな建物が見えてくる。この町――平志町ひょうしちょう唯一の図書館だ。町の規模にしては不釣り合いな大きさを誇る、立派な図書館である。

 こよりは閉館間近の時間に、滑り込むようにして中へ入る。本がずらりと並ぶ建物の中を見回し、目的の人物を見つけた。


「栞さん」


 呼びかけられた人物は、こよりを見ると花のような笑顔を浮かべた。彼女はこの図書館で働いている司書だ。


「いらっしゃい、こよりちゃん」


 耳通りのよい、なめらかな声でこよりの名前を呼ぶ。色素が薄めのしなやかな長髪が特徴の女性で、年の頃もこよりとそう差はない。彼女の、心温まる笑顔を見るためだけに、図書館に通いつめる者も一人や二人では済まないらしい。同性のこよりから見ても、どきりとしてしまいそうな魅力を持っている。


「ちょっと待っててね」


 栞はそう言うと閉館作業に入る。こよりは勝手知ったる図書館と、司書室で待たせてもらうことにした。こよりは栞と親交が深く、頻繁に出入りしては話をしている仲だ。

 少しして栞が作業を終えて戻ってくる。扉を開けて閉める動作さえ、美しく様になっていて、こよりは栞のようになりたいといつも思っていた。


「こよりちゃん、お待た――」


 ぐう。

 どこからともなく低い音が鳴る。


「あら」


「あっ、これは……」


 音の主はこよりの腹だった。辺りも少し薄暗くなってきており、もうすぐ夕飯時といった時間になっていた。栞のような優雅な女性になるのはまだまだ先が長いらしい。


「ふふ、お菓子、持ってくるわね」


 栞は優しく笑みを浮かべて、紅茶とお菓子を用意してくれた。こよりは顔を赤くして肩を縮こまらせるばかりだ。

 こよりは用意してもらった紅茶をすすり、クッキーを一枚食べたところで先ほど起きた出来事を栞に話した。こうやって栞には学校などでの色々なことを話しておしゃべりを楽しんだり、相談事を聞いてもらったりしているのだ。


「そんなことがあったのね。学校に知らない男の子かぁ……」


「あたしなにがなんだか……」


「とにかく、理恩ちゃんが無事で安心したわ」


 栞はカップに口をつけた後、こよりに笑顔を向けた。


「はい……でもあんなことがあったのに、なにも気づかなったなんて逆に心配で」


 こよりは目を伏せ、そそがれた紅茶の水面を見た。


「そうね、しばらくは様子を見ていてあげないとね」


 理恩もよく一緒にこの図書館で栞とおしゃべりを楽しんでいる。こよりは、今日はなんだか隣に隙間が空いたような寂しさを感じていた。


「あら、もうこんな時間」


 言われてこよりが時計を見ると、すでに七時近くだった。これ以上お邪魔しては栞が図書館を閉められなくなってしまう。


「栞さん、理恩のこと心配してくれてありがとうございます」


「私がお友達のことを心配するのなんて当然よ。またなにかあったら、すぐに相談してね」

 

こよりはもう一度お礼を言い、すっかり暗くなった夜道を足早に帰宅した。


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