心想の製本者
鷹沢ひろ
プロローグ
小さい頃、ふと思ったことがある。
この世界で真に生きているのは、実は自分だけ。それ以外の他人はすべて作り物でできている。
自分だけが考え、自由に動く力を持っており、周りの人々は人形のように合わせて動いているだけ。
子供らしい傲慢な考えだ。自己中心的で身勝手な思考だが、この考えを持ったことのある人は、意外に多いのではないかと漠然と思っている。
これを思いついたその日は、赤の他人はおろか、親や友達に至るまで、すべての人間が作り物のように見えてしまい、言いようのない恐怖を感じてベッドに潜りこんで外に出ないようにしたものだ。
しばらくは他人の顔をまともに見られず、しかも誰にも相談できず、その妙な様子に大人から散々心配されたが、所詮は子供の一時の思考で、次第にそんなことを考えたこともなかったように普通に人と接するようになっていった。
今でも、ふとした拍子にその考えが水のようにじわりと湧いてきて、周りの人間は自分が違和感なく生活するために巧妙に作られたモノなのではないか。なんて一瞬思うことがある。
しかし、その考えは今きれいさっぱり無くなった。
目の前には本がある。
精緻な細工で縁取られた、重厚な
それも、一冊ではない。
数を数えるのが馬鹿らしくなってしまうほど、視界の端から端に至るまで、目に見えるすべてが本といっていいほど無数の本が存在している。
先ほど、ここは図書館だと言っていただろうか。
図書館。
この場所を表現するなら、確かに最も適した言葉だと思う。
しかし一般的に想像する図書館とは全く異なる。
まず本の数が違う。視界に収まりきらない、なんてものではない。地平線の彼方まで、もう霞んで見えなくなってしまうその先まで、すべて本が並んでいるのだ。
いま立っている足場ですら、本と本棚の一部。
この下はどうなっているのだろうと思った矢先、頭の上を本棚が浮遊して通り過ぎた。
そもそもここは現実なのだろうか。
夢か現かなんて言葉があるが、ここはそのどちらでもない。気がする。
あたしはなぜこんなところにいて、先を急いでいるのか。
正直、道は険しい。こんな現実離れしているのに体力だけはしっかり消費される。
「おい、早くしろ」
加えて、この不機嫌を絵に描いたような声だ。
そいつをひっぱたきたい衝動を抑えながら、一歩一歩確実に前へと進む。
すべては彼女のためだ。
ここで踏ん張らねば、彼女はいなくなってしまうかもしれない。
しかし足が重いのもまた事実。息を整えようと足をとめると、本棚が近くを通り過ぎていった。
無数の本には、彼女の全てが詰まっている。
ここにある本は彼女そのものといってもいい。
感情も記憶も、作り物なんてものではない、人ひとりの生きた証だ。
本を見ていると、小さい頃の自分の考えは、なんて浅はかだったのだろうと思い知らされる。
生きているのは自分だけで、他人は全部作り物? そんなことはあり得ない。
彼女の全てがここにある。一冊一冊が確かな厚みを持ち、仔細に紡がれた文字列は、まさに人生そのものだ。
こんな壮大なものを自分のためだけに用意するなどあるはずがない。
仮に誰が用意するのというのだろうか。いわゆる神様だろうか。
違う。この本を書いたのは、まぎれもなく彼女自身だ。
彼女のための、彼女だけが紡ぐことのできる、唯一無二の本。
もちろんあたしだって、そこを歩く仏頂面だって、誰でも自分の本を持っている。
命と同じくらい大事な、命そのものの本が、害されようとしている。
そんなことは許されない。彼女が紡いできた本が、無くなるなどあってはならない。
「いま行くからね……」
自分に言い聞かせるようにつぶやき、再び歩き出した。
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