第11話

 途中なんども危うい状況になりかけたが、ようやくのぼりきることに成功した。


「はぁ~、つっかれたぁ」


 こよりは荒くなった息を屈んで整える。腕も足も全身がじんわりと熱を帯びていた。


「こより様、お疲れ様です」


 なにごともなかったように復帰した帯乃助がこよりを労わる。自分もこういう翼がほしいとぼんやり思った。

 先に着いていた綴は次の道を探すために辺りを見回しているようだ。

 やっと立ちあがれるようになったこよりは、同じようにきょろきょろと周辺を眺めた。


「なんだろ?」


 少し離れたところに地面の色が変わっている場所があった。こよりは興味を惹かれ、今までの疲労も忘れてそこへ向かった。

 近づくにつれ、徐々に形がわかってくる。


「わっ……! すごーい!」


 そこにはなんと花畑が広がっていた。こよりの腰下ほどの背の、色とりどりの花がいっぱいに咲いていた。本棚が乱立する中、この部分だけは背の高いものがなにもない。風は吹いていないはずなのに、意思を持っているようにさわさわと揺れている。


「こんなところもあるんだ……」


 こよりはその幻想的な風景に思わずため息をついた。


「理恩様の心象風景の現れですな」


 いつの間にか追いついてきていた帯乃助が話しかけてくる。


「立派な花畑に見えますが、これもれっきとした『心想書』なのです」


「これも本なの!?」


「はい。必ずしも既存の本の形をしている必要はありません。その人物を形成する情報を記録してさえいれば、どんな形にもなり得るのです」


 帯乃助はぽすんと花畑の中に入ると、葉を嘴ではさみ、こよりに見せてくる。


「あ、紙なんだ……」


 間近で見てみると、確かに紙の質感をしていた。その表面全体には虫眼鏡で見ないとわからないような文字がびっしり書かれている。小さすぎてなにが書かれているのかは判別できないが、情報が詰まっているのは確かなようだ。


「理恩様は花がお好きなのですか?」


「うん。理恩のお母さんもお父さんも、お花を育てるのが趣味で、家族で一緒に水やりしたり新しい苗を植えたりしてた」


 こよりも一緒に手伝ったことがある。みんなで花の世話をしている理恩は本当に幸せそうだった。


「おそらく、楽しい幸せな記憶はここに蓄えられるのでしょう。それが形に表れているのです」


 ここは理恩の幸福感そのものなのだ。ここにいると自然と理恩の笑顔が目に浮かんでくるようだった。


「あれ……?」


 急に花畑がざわついたような気がした。そよ風を受けるように動いていた花が、今は嵐の前の湿った風を浴びるように変わる。


「こより様、お気をつけください」


 帯乃助が目つきを鋭くし、こよりに注意を促す。

 辺りの雰囲気も暗く落ち込んでくる。花はいつの間にか揺らめくことをやめ、黙り込んでしまった。こよりは不安に駆られ、帯乃助をぎゅっと胸元に抱きしめる。


「だれ!?」


 花畑の奥でがさりとなにかが蠢いた。そちらは背の高い花がひしめいていて、思うように見渡すことができない。

 目を凝らして花の中を確かめようとしたとき、ぞくりと悪寒が走った。

 血のような赤い眼がこちらを見ている。

 次の瞬間、花を掻き分けて黒い物体が飛び込んできた。


「きゃああぁぁぁ!」


 こよりは横合いに飛び退き、黒い物体の突撃をよけた。そのまま身体を地面に投げ出してしまうが、花がクッションになってそれほど衝撃を受けずに済んだ。


「な、にあれ……」


 花の上には自動車ほども大きさのある巨大な黒い生物が横たわっていた。虫のような見た目をしており、全体はぬらりとした表面の、鎧のような強固な皮膚を持っている。

 側面からムカデのような足が何本も生えており、ギチギチと不快な音を立てる。鼻孔の奥に生臭い臭いがまとわりついてきた。

 あれを見ていると、グロテスクさとは別に、心がかき乱されるような感覚に陥った。


「あれは、本の蟲です」


「本の蟲……?」


 蟲はぎこちない動きで旋回すると、飛び込んだ勢いでつぶれていた花に目をとめた。すると鋭い牙のついた顎を大きく開け、がぶりと噛みついた。


「あ、あいつ、花を食べてる!」


 乱暴に引きちぎり、むしゃむしゃと花を食べている。あの花はただの花じゃない。理恩の大事な記憶が詰まった本なのに。


「あれが理恩様の心を壊してしまった原因です。あの生物は『心想書』の情報を餌として増殖する忌まわしい存在。やはり理恩様の図書館には、彼らが巣食っていたようです」


 蟲は無造作に、無感動に本を食べ続けている。彼にとって本はただの栄養分に過ぎないのだ。


「こより様、ここにいては危険です。早く逃げましょう」


「う、うん」


 幸い蟲はこちらの位置を見失っているらしい。手近にある花を咀嚼しているだけで、その場を動こうとしない。

 こよりは帯乃助を抱きながら、慎重にその場から遠ざかった。あんなものに噛みつかれたらただでは済まないだろう。


「も、もう少しで見えないところに……」


 首筋に汗が流れる。心臓の音すら煩わしくなるほどの緊張が襲ってくる。

 ようやく蟲から完全に姿を隠せる位置まで来て、あとは離れるだけだと安心した瞬間、今度は後ろからがさりと音がした。


「こっちにも!?」


 こよりが急いで振り向くと、もう一体の別の蟲が現れていた。赤く光る眼をこちらに定めている。


「逃げ――きゃっ!?」


 逃げようとしたとき誤って足をもつれさせ、仰向けに倒れこんでしまった。


「あ……う……」


 蟲はゆっくりもてあそぶつもりか、飛び込むことはせずにじりじり距離を詰めてくる。こよりは恐怖で身体がうまく動かせない。

 巨大な牙が眼前まで迫ってくる。それでもこよりは立ちあがることができなかった。


(もうダメ――)

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