第22話

 鏡に、放射状に罅が入る。細かく砕けた破片が、空気を一瞬、白く染めた。

 リアは、ほっとして腕をおろす。ジークから貰った指輪に、魔物を倒せる小さな針が仕込まれていたのだ。それを使って突いてみたところ、鏡は簡単に割れてしまった。

「それにしても……壊したものの、同じような景色ね」

 鏡を壊した先も、鏡で囲まれた通路になっていた。

 この空間は、鏡で細かく仕切られているようだ。

「実在する場所なのかしら。私、幻覚を見てるとか」

 鏡に、人間や動植物が映り込み、脅かしてくる。だが、鏡自体も含め、すべてが幻覚だったら?

 鏡を片っ端から破壊して出口を探すというのは、あまりいいやり方ではないのかもしれない。

「幻の壊し方とかって、聞いたこともないし」

 気持ちがひしゃげそうになったとき、がしゃん、と鏡の割れる音が響いた。

「誰……?」

 足音が近づいてくる。

(誰、なの)

 心臓が小鳥みたいに羽ばたいている。必死で胸を押さえながら、片方の手で、針を構えた。

 大きさも形もただの針だけれど、これなら、魔物を追い払える。

 リアにとっては、唯一の武器だ。

「あれ? これも幻かな」

 足音を立てて現れた者は、空色の瞳を瞬いて、首を傾げた。

「リア? 本人、だよね。大丈夫?」

「ジーク……?」

 貴方も本人なの、と問う前に、リアは声を荒げてしまった。

「貴方! 怪我してるじゃない!」

「え? うん。ちょっと。これは」

 目を逸らそうとしてやめ、ジークはリアをじっと見つめる。

「……ちょっと、ね?」

「ちょっと、じゃないでしょ!」

「ちょっとね、鏡を割って外に出ようとしたのだけれど。まだ人間に戻って日が浅いから、加減が分からなくて。怪我をしてしまって。でも、大丈夫だから」

 ジークは手を、自分の背で隠そうとした。当然、リアは後ろに回り込んで腕を取る。

「思ったよりひどくなさそうね……浅い傷ですんだのかしら? でも怪我は甘く見ちゃだめ」

 リアは、軍服の内側に持っていたハンカチを引っ張りだした。ジークの手のガラス片をよく払いのけてから、巻きつける。

「後で、ちゃんと手当して貰って」

「うん、ありがとう」

 ジークはリアの手を取って、血のにじむハンカチとリアの手にキスをした。

「ちょ、今そんなことしてる場合じゃないでしょう……!」

 頬を赤らめたリアに、だってかわいいんだもの、とジークが照れ笑いを浮かべた。

「ねぇリア。君が願ってくれるなら、私はどんなことでもできる気がする」

「鏡を割ることも? やめておいて。貴方の指輪の針で、鏡を割れたの。だから、するならこれを使ってね」

「……そうだね」

 ジークは、せっかく言ってみたのに云々と小声で呟いている。どことなく元気がないが、リアは努めて明るく励ました。

「大丈夫よ! 自分で脱出できなくても、いずれきっとアライ達が見つけてくれるわ」

「……そうじゃなくて……」

「殿下見ーつけた」

 噂をすれば、がっしゃんと鏡を割り砕いて、アライとイディアーテが顔を出した。

「ご無事ですか」

 イディアーテが目ざとくジークの手とリアの顔を見た。

「私は問題ないよ。リアがハンカチを巻いてくれた。緊急性はないので、後で安全になったら看てくれると助かる」

「そうですか。貴方はどうです」

「私も平気。怪我をしてるのはジークの方。私は、指輪の中にあった針で、鏡を何枚か割っただけだし」

「割ったんですか」

「割りました。ジークは素手でやっちゃったみたいだけど」

「あぁ、それで怪我を」

 じっとイディアーテに見つめられ、ジークはふわふわと視線を泳がせた。

「うん、まぁちょっと、やってみたくて」

「で、これを壊し続けても出られそうにないんですよね。さっきからやってるんですけど」

 アライが鞘入りの剣で、割れた鏡を左右に払いながら首を傾げた。彼らが来た方角を見て、リアは思わず口を開ける。

「うわ、私達が割ったのって、貴方達と比べたら勢いも規模も小さかったのね」

 延々と鏡が砕かれ、そこだけ道になっている。従者達は果てしなく歩いて、ようやくリアとジークに遭遇したらしい。

「やっぱり、魔王が助けてくれるのを待つしかないのかしら? 叫んでみようかしら」

 何かを忘れているような気がして、リアは天を仰いだ。深夜のように真っ暗で、けれど空と違って、気が塞ぐような圧迫感があった。

「あっ」

「どうしたの?」

「アライが魔王から取り上げた笛を、吹いたらどうかしら?」

 リアに見上げられて、ジークがつかの間固まった。

「……いいよ」

「何でそんなに、何かを覚悟したような顔をするの?」

「アライ。笛を」

 ジークに手を差し伸べられたアライが、えー、と嫌そうに眉をひそめた。

「嫌ですよアライ。どっちかって言うと花嫁様がやる方がマシなんじゃないですかね」

「ちょっと! その言い方やめて!」

 リアが小声で叱ると、アライが「だって分かってないでしょ」と半笑いした。

「偽魔王がさっきこそこそ言ってたでしょ、笛を奪ったから魔王を奪えたって」

「だから、何……あ」

 さすがにリアも気がついた。

「笛を吹いたら、魔王位を自分のものにできるってこと?」

「または、魔王の持ち物に手を出したということで、魔王に喧嘩を売った形になるのかな。でもいいよ」

 ジークが微笑んで、アライに数歩近づいた。アライが同じだけ退くが、ジークの踏み込みが早くて追いつかれる。逃げようとしたが蹴躓いて、仰向けに転がった。

「アライ、しっかり逃げろ!」

「いてて、イディアーテお前それなら笛持って逃げろよ!」

 罵りあう従者達をよそに、ジークがアライをくすぐった。

「ちょ、殿下卑怯……!」

「笛はもらっていくよ」

 銀色の細い光を掴んで、ジークは素早く息を吹き込んだ。

 何の音もしなかった。

「……あれ?」

 首を傾げた、そのとき。

 急に、空気を大量にはらんだ風が送られてきた。上だ。上空に、ばっさ、と、屋敷一つありそうな翼をふくらませて羽ばたく鳥がいた。

「鳥なの……?」

「鳥にしては、顔が獅子のようだね」

「魔物ってこと?」

 薄暗い世界の中、闇よりなお暗いその鳥型の魔物が、きえぇえと妙な声で鳴いた。不思議と花の香りがした。咲きかけの、朝方の優しい蕾のような、ほのかな香りだ。

「誰か、笛を吹いた?」

 高くて澄んだ声が、鳥の背から呼ばわった。

 ジークが鳥を見上げて、息を吸い込んだ。

「吹きました。我々だけでは脱出できなさそうでしたので、魔王のお力を借りたくて、呼ぶつもりで吹きました。無礼をお許しください」

「いやいいんだけど別に。人間が吹いたって、エーテルが違うから。縦笛と犬笛の違いみたいな」

 答えながら、魔王が鳥型の魔物の頭を撫でる。鳥が一声鳴いて、突然、地面近くに飛び降りてきた。

「びっ……」

(びっくりした……!)

 思ったより風圧はなかったが、それでも鏡の破片は皆四方へと吹き飛ばされていった。瞬間移動みたいに、瞬き一つの間に地面へ降りた魔物は、くるりと人間達を見回した。

「乗っていいよ。レディ・ホクシーが許可してくれた」

「ホクシーって言うの?」

「言うの」

 乗っていいと言われたので、リアはジークに後ろから押されながら、鳥によじ登った。

 黒いけれど、ふわふわした羽毛だ。

「すごい。普通の鳥は、外側の羽がもっと固いのに。柔らかくって暖かくて、とても素敵ね」

「本当だね」

 ジークが鳥に登り、イディアーテとアライが後に続いた。

 全員が乗ってから、鳥が羽ばたいて急上昇する。

「そういえば、魔王……偽物はどうなりましたか?」

「ん? 今、僕の意識の一部だけがここにいるんだけど、もう片方の意識の方では、あと二、三歩で決着ってところかな。君達が笛を吹いたから、ちょっと気が散ったけど」

「ごめんなさい、私が言い出したの」

「いいよ別に」

 風を切って、垂直に近い形で鳥が空を駆ける。耳がちぎれそうに冷えて、手足の感覚がなくなっていく。

 このままでは振り落とされる――と覚悟したとき、視界が開けた。

 まぶしくて、目が開けられない。

「うぅ」

 リアは床に転がって、しばらくしてから目を開いた。

 腐っていたのが嘘のように真新しい絨毯。テーブルなども傷一つない。

 近くにジーク達もいて、体を起こすところだった。

「魔王は、どこ?」

 リアは呟いて、気がついた。最後の数匹の雨蛙が、魔王に食われて消え去るところだった。

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