第20話

 リアは瞬きする。

 そもそもリアは、魔王の近くに行きたくなかった。

 どんな相手かも分からないし。

 弟が――イバラがやってくれるというのなら、頼ってもいいはずだ。

(でも、どうしてかしらね)

「私ね。イバラに、あんまり危ないことはしてほしくない」

「姉さん」

「自分でね、決めたの。怖いけれど、魔王に直談判しておこうかなって。……一緒に、行ってくれる人がいるから」

「僕だっているじゃないか」

「イバラは、私の弟で、小さくてかわいくって、私お姉ちゃんだからイバラのこと守らなきゃいけなかった。なのに、いつもイバラは、お姉ちゃんなんか大したことないって言う。……大したことないかもしれないけど、私、自分で魔王に会うよ。イバラ、下手をすると魔王を、殺してしまいかねないでしょ? 私がいじめられるから、貴方が、私を守ろうとして無理をしたり、頑張ってきた、その憤りだってあるでしょ、魔王に何をするか分からない。嫌だよ」

 どうしよう。声が震える。

 ぎゅっと握りしめた手を、横から、遠慮がちにもう一人の手がすくい上げた。

「ジーク」

 呟くと、それに答えて彼が笑う。

 胸のつかえが少しだけとれて、リアは、行きたいの、ともう一度言った。

「でも姉さん」

 そのとき、どん、と花火が上がった。イバラの仕掛けた、合図のものが、時間通りに上げられたのだ。きれいな色だが、それを喜べる者はいなかった。

「あーもういいや、行け。行っちゃえよ」

 イバラが苛立ちながら、追いやるように手を振った。

「本当は、一気に攻めるつもりだったのに。チャンスだったのに。でも――魔王を滅ぼしたり連行したりっていうのは、嫌なんだろ? 姉さんを渡したくないけど、自分で行くっていうなら――後で絶対追いかける。そのときまでに片がついてなければ、僕は、計画通りやるからね」

 リアの連れを睨むと、イバラは毅然ときびすを返す。駆け戻り、待機していた兵に指示を出しているようだ。

「時間は、弟さんが稼いでくれるみたいだね」

 四方の見張り小屋から、賑やかな声が聞こえる。金属がぶつかり合う音も始まっていた。

「これじゃ、戦争になっちゃう……!」

「魔物に対する行動だとしても、トラブルにはなるかな。その辺りを、弟さんが考えてないわけではないと思うけど」

 花火から煙が立って、刺激臭が辺りに流れる。イディアーテが顔をしかめた。

「幻覚薬ですね」

「煙と薬剤で人目をごまかせるかな?」

「イディアーテ、殿下、これつけて」

 アライが布を取り出した。ただの布だが、ないよりはマシだ。リアも口に布を当てる。

 視界がきかないが、方角は分かっているからとアライが歩き出した。彼が縄をくれて、一本の縄を四人で掴んで進んでいく。

「何者だ!」

 当然ながら兵に咎められる。だが、兵のほとんどは騒動の方角へ駆けており、リア達に気づくのは一人、二人程度だった。

「えい」

 アライが緊張感なく、鞘におさめた剣で兵士の足をなぎ払った。ジークも兵士に足払いをかけて転ばせ、リアの手を取ってなだらかな丘を駆けていく。

(これで、ようやく、)

 十数年間の悩みに、片がつくのだ。

 リアは、裏寂れた屋敷の前に立つと、壊れて傾いた門のそばを通り過ぎた。

「広いね」

 建物の中は広いけれど、それは豪華さとは程遠かった。

 調度品もあるけれど、凝った作りの花瓶達には白く埃が積もっている。天井はすすけて、蜘蛛の巣もあった。

 人の思うような「豪華」な屋敷だけれど、住む者にとって興味がなかった感じである。

「まるで廃墟みたいだね」

 ジークが首を巡らせる。絨毯は、踏むと弾力がなく、枯れ葉のようにくしゃりと崩れた。

「誰?」

 不意に、澄んだ声が誰何する。アライが剣の柄に手をかけ、イディアーテがジークの前に出た。声を張る。

「失礼。こちらは、魔王と呼ばれる方の住居と聞き及んでおります。私どもは魔王と呼ばれるその方を訪ねて参りました。貴方が魔王、と呼ばれる方でしょうか?」

「その通り」

 イバラよりも少し高く、声が答えた。

「ここは魔王の館。私が、魔王である!」

 暗がりから、誰かが音高くマントを払ってやってくる。

(人間?)

 そう思うのも無理はない。現れた者は、肩につくくらいの黒髪、星を秘めたような、きらきらした目を持っていた。肩も腕も細く、腰も貴婦人のように華奢だった。けれど、骨の感じからは少年に似てもいる。

 リアは辺りを見回した。

 他に、動く者はいない。

 誰一人、他にはいないのだ。

 悪い冗談みたいだった。

「貴方、北の大国の人じゃないわよね」

 リアの囁きに、自称魔王は眉を跳ね上げた。

「人間などと一緒くたにするな! 我を見よ!」

 マントをわざと広げて羽ばたかせた少年は、やはりどう考えても、悪ふざけしている子どもだった。

「魔王ねぇ。初めて見るから、本物かどうか分かんないな」

 アライが素っ気なく言いさすと、魔王は意外と憤慨することもなく、さもあらんと頷いた。

「人間の、とりわけ少女のようであるとよく侮られるのだ。人間と話すのは面白いな、見た目に左右される。ははは。だが見よ、この笛を吹けば、すぐさま魔物の軍勢が来て我を――あっ」

 ずかずかと前進したアライが、魔王の持ち出した銀色の小さな笛を取り上げた。

「かっ、返して!」

「やだ。魔物呼ばれるとアライ困るし」

「返してよ!」

「嫌だってば」

 アライは笛を上へ振ったり下に振ったりした。魔王はぴょんぴょん跳ねて手を伸ばすが、アライの方が背が高くて届かない。アライは、まるきり子どもをからかうようにして、魔王を誘導してリアの前に連れてきた。

「で、魔王に直接聞きたいことがあるんですけどー」

「かっ、返せったら! 聞きたいことがあるなら何でこんなことするの!」

「いや、そもそも本当に魔王かどうか、証明できるのかなーって思って」

「だっ、だって! 笛、取り上げたくせに!」

「これしか、証明方法はないの?」

「なくはないけど」

 魔王は、本当に人間の子どもみたいにしょぼくれた。

「……その笛があるから、魔王を奪えたのに」

 頬を膨らませて、ぶつぶつ文句を言っている。

「えー? 本当に魔王か分かんないから、これはちょっと預かっとこうかな」

「……どうやって証明しろって言うんだよ」

 恨みがましく魔王が睨むが、アライはまるで堪えなかった。

 ふと魔王が視線を逸らす。リアも思わず耳を澄ますが、ネズミ一匹通らなかった。

 魔王は、薄暗い絨毯にふうっと息を吹きかける。絨毯の隅が見る間に燃え上がって、人間と魔王の影を細長く伸ばした。

「こっちに来い、ここの主として振る舞えば信じるだろう? 我がお客人にごちそうしてやる」

 絨毯は実際に燃えているわけではないらしい。炎は絨毯からわずかに浮いて燃えていた。

 魔王についていくと、大広間に出た。

 魔王の一息で、広間の明かりがすべてつく。今度は絨毯が燃えることはなかった。華麗な燭台に、蝋燭の明かりがきらめいた。

 その華麗さと裏腹に、テーブルは朽ちている。勧められ、リア達は傾いたイスにどうにか座った。

 魔王が手を打つと、テーブル上に、花瓶や花や、とりどりの皿が飛び出した。

 リアは思わず、手で口を覆う。イディアーテも同じ反応をした。

 豪勢な食事――元々は、そうだったのだろう。今や、肉は青緑に変色し、汁はよどんでひどい臭いを放っている。

 ジークがふう、と息を吐いた。

「どうやら、人とは違う食文化圏のようだ」

 でもこの辺りは食べられそう、と彼はぶどうの、新鮮そうな辺りを指さした。

 それでも食べる気にはとてもなれない。リア達はただ座って、目の前の「食べ物」から目を逸らした。

「えっ?」

 リアは、怪訝に魔王を見やる。

 魔王は、ナイフをおもむろに取り上げると、それごと腐ったリンゴを噛み砕いた。

 人に近い外見である分、突然牙が見えたりナイフなどを音を立てて咀嚼する様が不気味である。

(あんなに人間らしい格好をしてるのに)

 この屋敷に閉じこもっているせいか、魔王は人が食事するのを見たことがないのだ。人の作法とは違っている。歩く姿や座り方は、人間によく似ているのに。

(それにしても妙ね。近くの人の話では、魔王は大国の人と交流があったようなのに)

 食べ方くらい、洗練されていてもよさそうなものだ。

「魔王って、本当にこの人なのかしら」

 違和感がせり上がってきて、リアは呟く。

「げふっ」

 笑って流せばいいところを、魔王は、食べ物(仮)を喉に詰まらせた。

「……ふーん?」

 アライが代表して、半眼で首を傾げる。

「魔王の名前って何でしたっけ? まだ聞いてなかったなそういえば」

「なっ、名前? えぇと。確か。えーと」

 何だったかなと言い出しかねない雰囲気である。

「名乗ったことがないのかな?」

「あっ。そう! そうそう。それ」

 ジークが出した、助け船とも思える発言に、魔王はうかつに頷いた。

「……北の大国とやりとりしてるくせに、名乗ったことがないってわけですか」

 アライがざっくりと魔王の心理的傷口に槍を差し込む。

 ジークも、横で相づちを打った。

「人間は、ただ魔王と呼ぶだけでは飽き足らなくて、個別の名称をつけたがる生き物なのだけれど。そうですか。……名前はないのかな?」

「そう……いや、そうではない!」

 話に流されかけた魔王が、我に返った。

「まっ、魔物は名乗らないぞ! 容易には! 呪いをかけられてはやっかいだからな!」

「うまいこと言ったつもりになっちゃってまぁ」

 元は銀色だったのだろう、黒ずんだナイフを掴み、ひらひらと空を切って、アライが笑う。

「じゃ、北の大国の担当官のお名前は?」

「――は?」

 ぽかんと、魔王が口を開ける。

「切り抜けたなんて思ってやしませんよね? 貴方が魔王であるならば、北の大国の魔物担当官とか王様の名前を知ってるはずですよ」

「う、ぐ」

 イディアーテが腰を浮かせ、畳みかける。

「本物の魔王はどこへ行ったんですか」

「そ、それは……」

「とおー!」

 テーブルが叫んだ。と思いきや、テーブルを底から突き上げてひっくり返しながら何かが出てきた。黒髪の少年だ。魔王と同じ外見をしている。

 頬を上気させ、一生懸命に彼は言った。

「ついに見つけたぞ! 偽物め!」

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