第7話

「……今の、小鳥?」

「違う! ここには生き物はいない!」

 ばささ、とリアの耳元に何かがかすめた。頬が少しぬめる。金臭い。

「血……?」

 頬に触れると、傷は浅いらしくもう血は止まっていた。

 ばさばさ、と音を立てる何かが、旋回して戻ってくる。

「だめだ、やっぱりだめだ!」

 蛙が跳ねる。

「来い! 私はっ、こっちだ!」

 不意にリアの肩が軽くなった。

 わずかにあった体温が、肩から消える。心の中まで冷たくなった。

「だめっ、離れてはだめ!」

 あれは、きっと魔物だ。

 リアが怪我をしたから――またやられることを恐れて、ジークは自ら、叫びながら遠ざかったのだ。

 でも、こんな暗がりで離れたら、見失ってしまう。

 うっかり踏みつぶされたり、うっかり魔物に食べられても、分からなくなってしまう。

 見失う。それは嫌だ。

「だめよ!」

「ちょっと殿下うろちょろしないでー!」

「どこへ行ったんですか!?」

 ジークが返事をせず、ぴょん、と音を立てて遠ざかる。羽音がそれを追いかけて、森の奥へと入ろうとした。

 アライが火を掲げる。

「ムササビっぽい魔物かな! 速すぎてアライちょっと斬る自信ないな」

「どこへ行ったの!? 王子っ、ジークフリート様っ」

「様はいいって。ジークと呼んでって言ったのに」

 照れたふうに、ジークが呟く。木の根のかげに入り込んで隠れていたようだ。

「いた! ジーク!」

 リアが指さして飛びかかると、ジークは、鷲掴みにされながら微笑んだ。

「初めてちゃんと名前を呼んでもらった気がするなぁ」

「蛙気持ち悪い……!」

 喜ばれながら、リアは蛙の皮膚感触にうめいて、慌てて肩の上にジークを移した。

「殿下危機感なさすぎ色ぼけすぎ」

「アライの発言に同意する日が来るとは思いませんでした」

 イディアーテが冷ややかに言う。

 ばさばさ、と魔物が飛び回っている。羽音がやたらと大きいが、影の大きさは小さかった。

(数は、一つ? だったら――)

「布、貸してください」

 リアはアライから布を受け取り、大きく広げる。

 羽ばたく音が、近づいてくる。タイミングを見計らって、腕を上げた。

「えぇい!」

 布を広げて、リアは振った。布越しに、何か固いものが手に当たる。

(うぅ怖い……! 気持ち悪い……!)

 魔物の爪か牙が、ざくざくと布を突き刺しているようだ。まだリアの手には当たらない。そのうち刺さりそうで、ぞっとする。

「早くっ、アライさん早く!」

「あぁなるほど! そこに、いるんですね!」

「見れば分かるでしょ!?」

 泣きそうになるリアに、イディアーテにも松明を渡したアライが、余裕の笑いをこぼれさせた。

「大丈夫ですよお姫様。そんぐらい小さい魔物なら、殿下にだって何とかできます」

「え?」

「そういえば、そうだね」

 ジークが呟く。自分の王冠に手を伸ばした。アライ達の持つ松明の明かりで、王冠は金色にきらめいている。

 王冠の縁から、裁縫針のような銀色のものを取り出すと、ジークはぴょん、とリアの肩から飛び降りた。さく、と軽やかに、針が布に突き刺さる。

 魔物のうめき声がして、やがて、動きが止まってしまった。

「倒せたかな?」

「偉いですね殿下。アライさっきから言おうと思ってたんですけど、一匹二匹なら、うちで製造したその剣で倒せるんですから、お姫様を庇いたいんだったら自分で働いてください」

「魔物を倒せる剣って、何本もあるの……!? だったら、なぜ自分の国を出てこんなところに――」

 そんなものがたくさんあるのなら、いくらでも魔物を倒せるはずだ。リンデンの城に行かなくてもいい。自分の国で、暮らせるはずだ。

 ジークは針みたいな剣を引き抜いて、布の上から飛び降りた。

「倒そうと思えば倒せるよ。でも、いつどんなときに、どんな魔物が出るのかも分からない。私がいるせいで、自国の城にはしょっちゅう魔物が出るし――呪いは、ときたいし。リンデンに来たおかげで、自分の運命を変えるチャンスを得たんだ」

「カエルだけに! アライうまいこと言いました」

「言えてないから黙っていろ」

 イディアーテの眉間の皺が限界状態である。

 気を取り直して、アライは建設的なことを口にした。

「ちょっと場所を移して、野営しましょう。んで、イディアーテの妹さんは、馬車で来てんでしょ? そっちで寝泊まりしてくださいね」

「あったりまえですわ」

 茂みのかげで身を伏せていたマーサは、土を払って立ち上がった。王子の側にいたいのだろうが、いざ魔物が出てしまうと、マーサも戦えないし、隠れるしかできないらしい。距離をおいて、それ以上近づくのをやめていた。

「殿下のご心痛の種には、なりたくありませんもの!」

「いやぁ既に十二分にご心痛の種じゃんとアライはお察ししますけども」

 ふん、とばかりに顎を上げて、マーサはアライを睨みつけた。

「貴方は黙らっしゃい」

「黙りますよ。アライ、イディアーテの妹に興味ないし」

「いちいちイラっとする人ねえ! ……それよりも。ちょっとそこの貴方」

「……私?」

 リアは、急にまた指を突きつけられて瞬きした。

「マーサ。人を指さしてはいけないよ」

「ごめんなさい殿下。……で、そこの。貴方」

「彼女はリディアーレ・ストラだよ」

「そうですか。リディアーレさん」

 呼ばれて、リアは背筋がぞくりとする。

「何ですか?」

「貴方、そんな地面で寝転がるおつもり?」

 顎を上げて睨まれ、リアは意味が分からなくて眉をひそめた。

「私は確かに、背負ってる荷物一つで、寝間着も寝袋もなしで野宿しながらリンデンまで来ましたから、今夜も地面に寝転がって休憩するつもりですけど」

「……わたくしの馬車は、もうちょっと、空きスペースがありますの。貴方ぐらい、荷物と一緒に積んでさしあげてもよろしくてよ」

「……はい?」

「あぁ。そうか。マーサは、歳の近い女の子の友達が少なかったものね。よかった、友達になれそうな人が見つかって」

「え?」

 ジークがきらきらと、何気なく失礼な発言をした。

 大好きな殿下の発言に、うぐ、と言葉に詰まって、マーサはきびすを返してしまう。

 森の中にも、馬車の通れる道があるのだろうか――リアはちょっと心配になったが、ジーク達も心配していないようなので、考えるのをやめた。

 きっと、大丈夫なのだろう。

(友達、ね……)

 友達がいたら、リアはこんなふうに一人で軍服を着て、故郷を飛び出したりしなかっただろうか。

(ストラでは、歳の近い子なんてみんな、私に近寄ろうともしなかった。隣国に行っても、「魔王の花嫁」というだけで、ものすごく哀れまれたし。手を握ってかわいそうにかわいそうにって言われるか、ばかばかしいって笑われるばっかりで話が通じないから、苦労したわ)

 物思いに沈むと、嫌なことしか出てこない。悩みから浮上して、リアは水面に飛び上がった魚みたいな気持ちで、勢いよく聞いた。

「魔物が出るのに、野営なんてできるの? 襲われるたびに斬らなきゃならないでしょ……失敗したら、」

 想像しただけで恐ろしい。

 近くにいたアライが、首だけこちらに向けて、おざなりに頷いた。

「えぇまぁ仮にもアライは魔法使いんちの出なので。簡易的な魔法陣は書けるんです」

 ごりごり、と抜き身の剣で、アライは地面に円を描いた。

「ここに入ってれば、目くらましになります。ただ、見つからないですむかどうかは運次第。完全じゃないですから。魔物は、気配とか、魔法を察知するし……アライは一晩中起きて番をします。日があるうちは、さほど数も出ないし、当座は夜をしのげればいい」

「大丈夫なの? 一人で起きていられる?」

「私が交代で番をします。何かあれば、アライを叩き起こすので問題ない」

 イディアーテが毅然と請け合った。

 ジークがしきりと「すまないね」とか「城に戻らなくていいのかい」と言っているが、アライもイディアーテも、それぞれ気にしていない風情だった。

 火をたき直して、荷物を解く。すぐに、地面に布を一枚敷いただけの野営地が完成した。

 食料を分けてもらい、火の通った温かいスープとパンを得て、リアはお腹も温まった。

(いい、気分)

 膝を抱えていると、うとうとしてくる。

 濃紺の空に、粉砂糖みたいな星が散らばり始める。

 リアの足下で、ハンカチの上に座った蛙が、あれは北極星、あれは赤い星として有名なベルデ、などと空を指さしている。

 眠たくて、瞼を持ち上げるのが大変だったけれど、嬉しそうなジークの口調を聞いていると、リアまで何だか嬉しくなった。

(あぁ。星は、ずっと出ているのね)

 雲さえなければ、月の薄い夜には、星々はさんざめくようだ。

 ストラや近隣国では、「魔物にさらわれるから、夜更けに外に出てはならない」と言われている。窓を閉め、分厚いカーテンや木戸で出入り口を塞いでしまう。だから、旅の途中くらいしか、こんな夜空を見ることはない。

 思いながらも、瞼が閉じる。

「あれ。殿下、お姫様はおねむの時間みたいですよ」

 アライがばさばさと何かを広げる。イディアーテがややあって「危ないことをするな!」と舌打ちした。「いいじゃん、布って言ったって、たき火の上またぐくらいでそうそう燃えないって」どうやら、たき火越しに布を投げて寄越したらしい。

 ジークが布に埋もれてふごふごしながら、リアにも掛け布をかけてくれる。

 蛙のつたない手足の感触がして、リアは気持ち悪さに身震いした。けれど、次第に気にならなくなる。

(優しい人ね)

 何だか懐かしいくらい、穏やかに、リアは眠りの中に落ちた。

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