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第6話
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焦げた臭いのする、タールのような塊は、ぬるりとその触手を伸ばした。思ったより動きが早い。
「蛇みたいね……!」
とっさに避けて転がったが、木切れは吹き飛び、たき火は魔物にひっぱたかれて消えてしまった。
ただでさえ薄暗いのに、視界がかなりきかなくなる。
(弟と、練習はしてたけどっ……)
荷物からナイフを取り出せるだろうか。魔王と結婚させられたら、密着した瞬間にナイフで一突きにしてやろうと思っていたので、刃物は使える。
だけれど、魔物に出会うのは初めてだ。
(ナイフなんて、通用するのかしら)
身震いがとまらない。アライが抜いた剣の切っ先が、リアの鼻先をかすめていった。
「アライ! 気をつけて」
いつの間にか放り出されていたのだろう、リアの足下から、ジークフリートの声がした。
(踏みつけちゃう!)
我に返り、リアはしゃがんで手を差し出した。
「登って!」
「えっ? いいのかい?」
「いいからっ」
着ている軍服の生地が厚いので、幸い、蛙の感触はあまりしない。肩に乗ったらしく、ジークがリアの耳元で礼を言った。
きいん、と甲高い金属を立ててから、アライが魔物から距離を取った。
「魔法使いどもも、ほんっと何考えてんですかね。アライには分かりかねます。魔物ってのは戦争用に改造した生き物らしいけど。手に負えなくなって捨てるから、野生化しちゃってまぁ」
「魔物って、そうなの?」
「さぁ。少なくとも、アライんちではそう言われてますよ」
「アライさんって、どういうご家庭……」
リアが呟くと、ジークがちょっと首を傾げた。
「リアは、私よりもアライのことが気になるの?」
「え? いえ、そういうんじゃなくて」
「そういうんじゃなくて! と。なるほど」
アライが追従した。合間に、魔物との剣戟が挟まる。魔物の見た目はどろどろしているが、金属のようで、うまく斬れない。
「アライんちは基本生き物を飼って育てるタイプの古い魔法使いの家なんですが、その生き物が生理的に大嫌いだったアライは魔法使えません。剣に魔法を仕込んでもらってるんで、魔物は追い払えますけど。なっかなか斬れないんで……さがってて、くださいね?」
ふざけた軽い口調が、嘘のようにひやりと冷える。イディアーテよりも低い、それでいてどこか、薄寒く笑うような声だった。
「気をつけて、アライ!」
「王子。心配している場合ですか。逃げますよ」
「イディアーテ! やっぱり城へ、戻った方がいい……やっぱり、彼女を巻き込むわけにはいかないよ……」
「そうおっしゃるなら、さっさとキスでも何でもしてください! この意気地なし」
口早に罵られ、ジークがうつむく。リアは肩口の蛙が落ち込むのを見ていられなくて、イディアーテを睨みつけた。
「ちょっと、あんまりひどいこと言わないであげてください」
「そうだと思われるなら!」
当然のように、イディアーテの怒りの矛先がリアに向いた。
「さっさとキスしてください!」
「嫌よ!」
「これだけ暗ければ、蛙だろうがイカだろうが蛇だろうが、みんな同じです!」
「違うわよ! 何言ってるの!」
「覚悟を決めて、あの城に来たんでしょう!」
ぴしゃりと決めつけられ、リアは口ごもる。
そうだ。運命を変えたくてここまで来た。
蛙は、こんなに――わりと、いい人そうなのに。
(好きでもない蛙なんかと、キスなんて無理よ)
だけど、二番目に開けたドアの中身よりはマシかもしれない。
あの半裸の王様(仮)は、ものすごく贅肉がたふんたふんしていた。飛びついたら気持ちよいのかもしれないけれど。
何となくあの人は、リアの話なんて聞かずに一方的に喋りそうだった。偏見かもしれないが。
それに比べてこの蛙は、どうやら、リアの予言などについても、ちゃんと話を聞いてくれそうだ。
――話を聞いて、まともに取り合ってくれる、それだけのことが、「魔王の花嫁」という予言に十数年間苦しめられたリアにとってはありがたい。
(ストラでは、みんな、予言のことなんて諦めるか、ばかばかしい大したことじゃないって笑い飛ばすんだもの)
真剣に悩み始めたリアの横で、ジークが小刻みに頷いた。
「蛙が苦手であるなら、こんな申し出をされてはつらいよね。無理はしなくていいよ。私は呪われているし、魔物に狙われもするけれど……呪いさえとければ、普通の人間だから、そのうち、仲のよい友達にくらいは、なれるかもしれないからね。ゆっくり、知り合えばいいよ。リア」
「……さっきから、黙って聞いていればッ、いい気になっていますわね!」
突然、それまで黙っていたマーサが気炎をあげた。
暗くて見えないが、魔物から遠い場所で、叫んでいるようだ。
「殿下が……っ、幼少時から度重なる「大好きです」「愛してます」「お嫁さんにしてください」等々のわたくしの気持ちを踏みにじってぜんぜん気がつかない鈍い人だというのは、以前から理解していました……! けれど。貴方」
びしりと、指を突きつけられた(気がした)。リアは完全にこちらに怒りが向いていることを察する。
「それほど恋愛沙汰にかまけない殿下がっ、これほどまでに心を砕いているというのに! どうして! キスの一つや二つや三つくらい、してさしあげないんです! わたくしは、殿下以上に貴方の無関心さに苛立っていますよ!」
「そういう問題じゃないでしょ! っていうか、貴方にそんなこと言われる筋合いなんてないわ」
「そういう問題です!」
魔物が変な声をあげて暴れ回っている。木がなぎ倒される音でよく聞こえないが、アライが緊張感なく「あれー?」と言っているようだ。
「魔物は、戦争や呪いがなければ、基本的には近づいてこないんです! 恐怖や苦痛、それを呼び起こす呪いに、反応するんですから」
マーサが涙ぐみ、鼻をすすった。子女らしくない素直すぎる反応に、リアは言葉を探しあぐねる。
(貴族や、姫君っていうものは……もっと冷たくて……)
扇の陰でくすくす笑ったり、ドレスの端からするりとつま先を出してこちらのドレスをひっかけて転ばせたり、目も合わせないで微笑むような人達のことではなかっただろうか。
真正面から感情をぶつけられて、リアは戸惑う。
「あの……」
「……殿下は、はじめ、ご両親が集めた国中の、有志の力を借りて、呪いをとこうとされました。でも、とけなかった。殿下を愛しているわたくしのキスも、殿下の心を素通りする……」
(え、何、ちょっとこの展開……!?)
「あの、私、他人の色恋に口を出したくないんだけど……巻き込まないでほしいんだけど……」
リアは、素直な少女の発言をどう扱っていいのか分からない。その後ろで、魔物がずうん、と地面に倒れる。
適当な木切れに火をつけて、アライが死体を確認した。
「おーよしよし。倒した倒した。アライ偉い」
「怪我はないかい?」
「このぐらいで怪我なんかしませんよ殿下。ってかまだもめてんの?」
黙っていたイディアーテが、アライの視線を受けて首を振った。――私まで巻き込むな、という気を察して、アライが肩をすくめる。話を変えて、
「しかし、相変わらずこの森は人っ子一人いませんね」
「人がいないのは当然だろう。リンデンの城には、呪われた者が集まっている。城自体は大魔法使いの魔法で守られているから、魔物が近づくことはできない。だが魔物は森に潜んで、通りすがりの呪われた者を食べるからな……わざわざ森を通る人間は、そうそういない」
「森に生き物がいなかったのは、魔物が潜んでいるからなの……?」
「そういうことだと思うよ」
危機感なく、リアの肩の上から、蛙がのんびりと言った。
「ちょっと貴方。人の話を聞きなさいな!」
少女が憤り、茂みを分けてがさがさと近づいてくる。リアはそそくさとイディアーテの後ろに回り込んだ。嫌そうにかわされるが、リアだってこんなところで美少女と喧嘩したくない。
(だって、あの子の言うことはもっともだわ。好きな人が困っているところを、自分で助けたかったのに、いきなり現れた私がかっさらったなんて)
いや、まだ蛙を助けてはいない上、リアが逃げ出したせいで魔物に追われるという事態になっている。
(私、キスすればいいのかしら)
何だか、そのくらい安いもののような気がする。
あんな魔物に襲われたりすることもなくなるし、この蛙王子達も自由になるのだ。
リアを置いて。
(う……私、何かものすごく嫌なこと考えてる)
そのとき、何かが、くるる、と喉を鳴らした。
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