第16話

 走る。肺が痛む、気管が不意にひゅうと鳴る。不自然に膝が曲がりそうになる。

「うわっ!」

 木の根に蹴躓いた。ざわざわ、と魔物が近づいてくる気配がする。

 涙がこぼれる。膝を折り、ぺたりと尻をつけて座り込んで、リアは呟く。

「ジーク。どうしよう」

「どうしたの」

 握りつぶされかけたにも関わらず、ジークは優しく問いかける。リアがぼんやりと見ていると、彼はリアの膝の上に飛び乗って、手を伸ばした。

「どうして泣くの?」

 だって。リアはうつむく。ジークの顔が近くなる。鼻先が触れる。まるで、犬に触れているような、少し湿った感触がした。

「私、こわい」

「え」

 リアの唇が動いて、ジークに当たる。

 これまで、ひどくおそれてきたキス。

 たった、皮膚一枚が触れるだけのことだ。犬や馬に対して、あるいは家族に対してだったらいくらでもしてやれること。

 そうした親愛の、喜びさえ伴うものではなくて。

 意志をほとんど込めないで、ぶつかるだけの、キスをする。

「怖いの。だって……」

 魔物の気配が、すぐ後ろまで迫っていた。剣戟が聞こえ、やがてやむ。

 どうやら魔物は、目標を見失って森の奥へと戻り始めたらしい。

(それはそうね……魔物が、呪われた者を追いかけるのなら、もうここにはそんな者、いないんだから)

 ふわり、と、リアの膝の上で、暖かい風が生まれた。空気が、熱を持って広がっていく。

「貴方は蛙だから、私のことを好きでいる。もし人間に戻ったら? そう思ったら怖くてたまらない。私のことなんて、捨てるんでしょう……でも、貴方が呪われたままだと、ひどい目に遭う……だったら、呪いはときたいの」

「捨てたりなんか、しないよ。何を言ってるの?」

 声の感触は変わらぬままに。

 呆れたふうに、ジークフリートは吐き出した。リアの膝からおりている。自らの膝を折り、腕を差し伸べて、指先でリアの頬から涙を拭い去った。

 泣いているリアの顔をのぞきこんでくるのは、晴れ渡った空の色。

「貴方、目が青かったのね……? 空みたい」

「青みがかった黒、だとは言われたけれど。空、とは、初めて言われたなぁ」

 ふふ、と楽しげに笑って、前髪が触れあう位置で、人の姿でジークは告げた。

「初めまして。人の格好で君に会うのは、初めてだから。……それで、私は、君にもう一度キスをしてもいいのかな?」

「え?」

 一瞬ためらったジークは、後ろで咳払いされて肩をすくめた。従者達がいつの間にか追いついていたのだ。

「仕方ないか」

 唇の端をかすめて、ジークはリアの頬にキスを落とした。

「ありがとう、リディアーレ。私の呪いをといてくれて……そして、その……好きでいてくれて……」

 リアは見上げながら、必死に返す言葉を探した。視線が泳いで仕方がない。

(どっ、どうしたら……!?)

 これほど至近距離に人の顔があるだなんて、弟以来ではなかろうか。

(どうしたらいいの!?)

「――あ!」

 リアは視線を定めた。ジークが蛙のときに頭上にあった王冠が、今は薄茶色の髪に乗っている。

「王冠が」

「え?」

 リアが指さすと、ジークが傾いで、王冠が滑り落ちた。リアは掌で受けとめて、そっと返す。

「あぁ、本当にこんなにちっちゃいんだ」

 ジークは手足をもてあまし気味にして受け取ると、ふと笑う。

「指輪にするつもりでいたけれど、さすがに入らない。……そうだ」

 彼は思い出したようにリアの手を拾い上げた。

「指を借りてもいいですか? きっと君の方が似合うと思うから」

「え」

 ジークであれば小指でもいいくらいの、金の小さな王冠。彼はそれをリアの指に差し入れた。

「ね? ちょうどぴったりだ」

「……っあ、意味分かってやってるの?」

「何が? 薬指だから?」

「わっ、分かってて……」

「だって、せっかく私を蛙から人に戻してくれたのに。好きでいたら、迷惑ですか?」

「めっ、」

 指輪を渡したまま、ジークはリアの手を離さない。触れた手が熱くて、いたたまれなくて、リアは顔をうつむけた。

「迷惑じゃ……ないです」

「えっ?」

「何この二人超うざい!」

 アライが笑顔で言い切った。

「アライ、その言い方はちょっとないんじゃないかな」

「殿下だってそれっだけ照れてる顔で言うくらいなら黙って押し倒しとけって感じでアライ超気まずい。それとお姫様に申し上げときますけど、指輪の内側に小さい針が仕込んでありますからね。お忘れかもしれませんが魔物退治用の、殿下用の剣ですから。人間刺しても死にませんけど、魔物くらい追い払えるし刺さったら痛いからお気をつけて」

「あっ、はい、忘れてた……ありがとうございます」

「いーえぇー。ところで殿下、でっかくなられたけど具合悪くないですか?」

 リアの礼を一瞬でかわして、アライがジークをじっと見つめた。ジークは服の袖を引っ張りながら、その場でくるりと一回転した。

「あぁ、そうだね。服もちゃんと着てたし、いきなり変な格好で出てこなくてすんでよかったよ」

「いや服の着心地とかの話ではなくて」

「急に背が高くなると骨が痛むって聞くけれど、どこも痛くないよ。ただ、身長も伸びてて、何だか変な感じがするなぁ。あ、でもこの高さって、イディアーテの肩か頭に載って見ていたくらいかな?」

 どことなく、蛙でいたときよりもはしゃいでいる。

(それもそうね)

「十年近く、蛙でいたのよね?」

 落ち着かなくて指輪を触りながら、リアは問いかける。

「そうだね。蛙でいすぎたせいで、どこか変なところがないか、気になるなぁ」

「蛙でいる間に太っても痩せてもなくてよかったですね殿下。今のとこ頭のおかしなところはありませんよ」

「そうかぁ。よかった」

 さりげなさなどまるでなく、酷いことを言うアライに、ジークがひょいと手を伸ばした。

「はい?」

 首を傾げたアライの頬を、軽くつねる。

「はい!?」

「ごめんね。いろいろと迷惑をかけて」

「殿下それ謝る態度じゃありませんけど」

「ごめんね」

「分かってて言ってますね」

 アライが文句を垂れると、ジークが腕を広げて抱きついた。

「うわ! 殿下何なんですか!?」

「嬉しくてねー!」

 言い返す間にもう、ジークはアライから離れてイディアーテを抱きしめている。

 嫌がってもがいたイディアーテだが、すまなかったねと言われて大人しくなった。彼はジークの肩を叩いて「問題ありません王子」と言葉を返した。

 イディアーテを離したジークは、にこにこしながら、リアに手を差し出した。

 握手だろうか。

 所在なく指輪をいじっていたリアは、右手を差し出す。

 掴まれ、軽く引っ張られて、我に返った。

「えっちょっとジークっ」

「ありがとうリア。君の気持ちが、ありようが、すべてが、何だかとっても好きなんだ!」

 あけすけに叫んで、ジークはリアを抱きすくめる。

「え」

 固まったリアは、飛びつかれた勢いを支えきれず、仰向けに倒れ込んだ。

「重っ、重いですってば……! ちょっと!」

「嬉しいんだ」

 ぎゅうぎゅうと地面に押しつけられて、リアはうめく。

(人間って、重たいんだわ)

 弟や父母の、愛情を込めた抱擁とは違う。一人分の重さが、肺を押しつぶしそうだ。この重さを――ジークの人生を、一部分であれ、預けられていたのだ。

(私、この人の命を、……運命を、預けてもらってたのね)

 抱きしめ返す。何だか、気恥ずかしさが消えて、気分のよさが心に残った。

 人に戻ったジークがねだるので、リアは手を繋いで道を歩いた。我に返るととても恥ずかしい。

(平常心、平常心)

 アライ達が後ろから、からかう顔でついてくるが、リアは努めて、これが普通なんだと自分に言い続けた。

 その後、日の高いうちに、人の気配に遭遇した。

 初め、アライは「盗賊ですかね」と剣の柄に手をやり、イディアーテも退路を確認した。ジークがやめさせ、足音を殺して進んでいく。

 荷車と、持ち主らしい壮年の男が一人、無舗装の道の真ん中に座り込んでいた。それから、馬が一頭いる。

 荷車を引く馬が機嫌を損ねて、立ち往生しているらしい。どのみちまだ山が深く、その日のうちには里に出られないので、持ち主はあまり急いでいない。

 リア達に気づいた男は、やぁ旅ですか、私はリンケルまで行くんですよ、などと気さくに話しかけてきた。

 ジークとアライが荷車を押してみたが、馬は動こうとしなかった。それどころか、尻で荷車を押し返した。

 男は、手助けに対して礼を言いながら、盗人も出ない地域だし今日はここで野営しようかな、と笑っていた。

「気をつけて。よい旅を」

 声を掛け合い、リア達は男と別れて道を急ぐ。

 そう、急いでいた。

 本能的に、なのかもしれない。

 リアはあまりここにいたくなかった。

 だって、この付近には、鳥獣の気配もほとんどしないのだ。

(何か、出そう)

 荷車と男から数歩も離れないうちに、ぞくりと鋭い寒気がした。

(何これ)

 苦しい、怖い、嫌だ。

 胸をせり上がってくる苦い感覚。

 息ができなくて酸欠と貧血を同時に起こしそうになる。

 この感じを、知っている。

「また魔物っ……?」

「おおっと、お姫様もずいぶん、勘がよくなられたようだ、アライも心強いですよ」

「思ってもないこと、言わないで」

 どこから、どんな魔物が来るというのだろう。

 見回すと、木々に遮られて見えづらい空が、ふわりと曇った。靄だ。

 斜面を滑り降りてきた靄は、あっという間に、荷車やリア達を取り囲んだ。

 泥水を踏む音。誰かが来る。

「人……?」

 人、だろうか?

 荷車に、持ち主がしがみついて震えている。馬も息を潜め、硬直していた。

 靄が濃くなる。リアもジークも、イディアーテもアライも背中をつけあって、周囲から飛びかかって来そうなものを探して、待った。

 どれくらい待っていただろう。

 靄の白さの中に、じんわりとした重さが加わってくる。

 どこからともつかない、威圧感。

 やがて、急に靄が割れた。

 黒い者が二足歩行で、すたすたと斜面をおりてくる。

(人間?)

 違う。一瞬だけ見間違えたが、その生き物は、人ではあり得ない姿をしていた。

 トカゲのような肌、けれど蛙のようにぬめりを持っている。

(呪われた者? いえ、違うわね……やっぱり、魔物……)

「ジークの呪いはとけたはずよ、どうして魔物がついてくるの」

 リアが呟くと、予想外なことに魔物から返事があった。

「魔法の匂いがする」

 返事と言うよりも、独り言だ。

 しゃがれもしない、音程の不思議な、けれど人の言語である「声」が響いた。

「あぁ! いや、何でもないです」

 アライが口を滑らせ、慌てて取り繕おうとした。

「……そうか。魔法使いもいる」

 魔物は理知的な目で、アライとその剣をとらえた。

 が、特に攻撃を加えることもない。

 代わりに、荷車に近づいていった。

 魔物は、荷車にしがみついていた男を、指二つで引きはがした。その動きは羽でも拾うように優雅だが、力加減を考えていない。男は宙を飛んで悲鳴をあげる。

 ジークに見られ、舌打ちしたアライが、男をどうにか受け止めた。

 魔物が荷車の掛け布を引き裂いた。中にはいくつかの壷が並んでいる。素焼きのもの、鮮やかに彩色されたもの。金の、細首の壷もあるが、魔物はとりわけ地味な、黒っぽい丸壷をつまみ上げた。

 壷は意志があるように身震いする。

 魔物は無表情に、蓋の皮を指先ではがした。

 中身が見えないが、壷の口が薄青く発光していた。

 魔物は一瞬だけ、口を耳の上まで裂いて微笑んだ。そのまま中身を一息にあおる。ほのかに、中身の匂いが漂った。

「お酒……?」

「いかにも」

 リアの呟きに、魔物は満足げに頷いた。

「数百年を経た古酒をいくらか。それだけで同じ年月は生きながらえる」

「……そんなもので魔物が生きられるなら、人を襲わずに通商してちゃんと買えばいいのに」

 思わずリアは憤る。ジークがそっと、自分の背でリアを隠した。

 魔物は人間に構わず、来たときと同じように恬淡と山道へ消えようとした。

 やっと、よそへ帰ってくれる。

 リアはジークの服の背を掴み、息を吐いた。

 いくら危害を加えてこなくても、魔物は「怖い」ものだった。

 得体が知れない。

 魔物は、さっきの荷車の主みたいに人間を投げ飛ばして、それが死んでも構わないような顔をする、危ない生き物だ。

(帰って。早く。急いで。さっさと)

 震えているリアの前で、ジークが魔物に声を投げた。

「貴方が、我々に危害を加えないでくださるのはありがたい。そのついでといってはなんですが、一つ教えていただけないでしょうか」

「何だ。人の子」

 魔物がぴたりと足をとめた。体は山道に向けられたままで、首だけがぐるりと巡って、こちらを見る。

「呪いの匂いがするな」

「先だってまで、呪われていたもので」

 ジークは穏やかにその話を受け流した。すぐに核心に踏み込んだ。

「魔王の花嫁、というものに、お心当たりはありませんか」

(ちょっとジーク……!)

 止めたいが、自分が議題にあがってしまったせいで、緊張しすぎてリアは声が出ない。あわあわと口を開け閉めするだけだった。

「魔王の花嫁?」

 魔物はわずかに目を細めた。人のような仕草だった。

 白目のない、つややかな黒の瞳に、森の木々が映り込む。

「そんなもの、聞いたこともない」

(え……?)

「話はそれだけか」

「えぇ。ありがとうございます」

 ジークは至ってにこやかに、その魔物を送り出した。

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