第17話
*
(魔物は、魔王の花嫁のことを知らなかった)
むろん、自国の王様の后の顔を、知らない人だっている。そういうことはある。
でも。
(どこの国の人と婚姻を結ぶ予定であるとかくらいは、知っていてもいいんじゃないかしら)
噂が出回らないものだろうか。
もしかしたら。
リアの心に、微妙な火がともる。
魔王のところになんて、行かなくていいのかもしれない。
うっすらとした希望。
それは同時に、微妙な加減で、リアの心を押しつぶした。
(魔王のところに行かないのなら)
ジークとの旅だって、ここで終わる。
*
どうしよう。
イディアーテは、表情を変えぬまま、内心で焦っていた。
力弱き蛙であった主。
ジークフリートが、人に戻ってしまった。
困る。
(王子はそれでも、友人だと言ってくださるかもしれないけれど)
唇を噛み、血が出ていると指摘されて無表情にそれをやめながらも、イディアーテの思考は止まらない。
人型の魔物(トカゲに似ていたが)に出会っても、山道をずんずん進んでいっても、イディアーテの思考は堂々巡りだ。
(私は、どうしたらいいんだろう)
眉をひそめて、主を見る。
盗み見られた主は、楽しそうに、リアと手を繋いで、たまに耳元に何かを囁きかけている。
機嫌も体調もよさそうだ。
だから、イディアーテが不安がる要素など、今は一つもない。なくていい。ないはずだ。
それなのに。
「お兄さま」
背後から、遠慮がちに声をかけてくる者がある。普段の偉そうな性格と異なり、ひっそりとした調子だった。
ものすごく嫌そうな顔を作って、イディアーテは振り向いた。
「何だ」
「ちょっと馬車が脱輪したりして、しばらく、殿下を追えなくなっていましたの。ようやく追いつきましたわ」
「そうか」
イディアーテは妹をためつすがめつした。それから、
「無事そうでよかったな」
それで話を終わらせようとした。
「ちょっと! お待ちくださる?」
「何だ」
「殿下はどこです」
「お前の目は、節穴か?」
「それはっ! 幼い頃の殿下にものすごくよく似ていらっしゃる男性が増えていることには気がついているんですよ、でも蛙とは別の人である可能性も、あるじゃありませんの」
魔法は、とけたんですか。
妹は、イディアーテにそう聞いているのだ。
はっきりしない言い方をするマーサに、イディアーテはため息をついた。
「人に戻られた」
「あぁ……」
「これで、私の役目も終わるだろう」
「……何をおっしゃってるんです、お兄さま」
マーサが、冷ややかに兄を見上げる。
「お兄さまは、殿下のご友人でもおありでしょう。これからが大変ですわよ? 蛙であるからこそ、政治からもいささか離れてらしたのに、人に戻ってしまわれたのだから」
「そうなんだが」
イディアーテは呟いた。
「私のことは、いらなくなるかもしれんなと、思ってな」
「……呆れた」
マーサが目を見張ってから、ため息をついた。息を吸い直して、声を張った。
「殿下!」
「何だい?」
リアの手を離さず、ジークが半身で振り返る。もしかしたら、これまでのやりとりが聞こえていたのかもしれない。イディアーテは恥ずかしくもなる。自分は弱音を吐いていたのだから。
マーサがジークに駆け寄った。
「殿下。このたびは呪いの解除、おめでとうございます」
「あぁこんなところでひざまづこうとしないで、マーサ。せっかくの衣装が台無しになってしまうよ」
「ところで殿下。呪いは、どうやっておときに?」
「え?」
一瞬、ジークは気まずそうな顔をした。
「……あの……それは、その、愛の力で? かな」
「ちょっと、やだその言い方」
「だってリアがキスしてくれたから、私は蛙から人間に戻れたんだよ」
「やだ人前で……」
「殿下」
氷点下を記録する凍えた声で、マーサが二人のやりとりをぶったぎった。
「本当に、そんな方と一緒に、道を歩まれるんですの? お兄さまやアライや私達の不安を、分かってらして?」
その言葉が、さらにこの場を冷やしていった。
*
リアは、こわばった体を、いっそう縮めて立っていた。
ジークは変わらず手を握ってくれていたけれど、その温かさは苦しみも生む。
(……私、)
この人達が長年守って、大切にしてきた蛙の王子を、呪いをとくというだけで、振り回して、こんなところに連れてきてしまった。
彼らから見ればリアなんて、蛙の呪いがとけた今、目障りなだけかもしれないのだ。
ジークが柔らかな口調で、マーサに聞いた。
「私がどんな不安を君達に与えているのか、教えてくれるかい?」
「……っ、その方ばっかり、大事にしないでくださいな!」
子どもみたいな焼きもちを焼いて、マーサが叫ぶ。
ジークはちょっと首を傾げてから、
「……十年近く、君達を苦しめてきてすまなかったね。もう、大丈夫だから。君は、私を蛙にした責任なんて感じなくていい。そもそも、あれは私の自業自得なのだし。マーサ、君は美しくなった。もう、気がかりになっていた「蛙」はいない。どこでも、好きな場所へゆけるし、何でもできる。大丈夫だよ」
「そういう! 意味じゃ! なくて!」
マーサが拳を握り、地団太を踏む。山道に場違いな淑女の格好が、これまた場違いに泥だらけになっていた。
「いつも、そう! 殿下は、わたくしがわがままを言っても、ちっとも困ってくださらない!」
「困ってることも、あるよ? 君はこうして、危ない道なのについてきているし……早く帰った方がいい」
「そういう「困る」じゃなくて! というか殿下、ほとんど口調が困ってないでしょう! わたくしがキスしたって、焦りもしないし」
「キス」
ぎこちなくリアが呟くと、ジークがちょっとだけ慌てた。
「前も聞いたかもしれないけれど、蛙のときだよ!」
「ほら! 殿下は、その方のことばっかり! 後から出てきたくせに! わたくしよりちょっと先にドアを開けるなんて! 運命を横取りするなんて!」
運命の横取り、という単語で、リアの思考が息を吹き返した。
あのときの光景が視界をよぎり、あの瞬間の怒りがよみがえる。
「……お言葉ですけど。私、貴方に突き飛ばされたから、あのドアを開けたの。最終的には」
「何ですって?」
思い返しているのだろう、マーサの顔が青ざめた。
「確かにリンデンで、人を突き飛ばしましたけれど……わたくしが、一押ししたの……?」
愕然としたマーサは、やがて逆上して一声あげた。
「いいですわ! 二人して幸せになればいいです!」
およそ呪いの言葉とは思えない発言を残して、マーサが全速力で山道を引き返した。途中で転んだが、すぐさま使用人にキャッチされ馬車へと連れて去られてしまった。
「……ごめんね、リア」
ジークは、マーサが消えた後もしばらくそちらを見つめていた。
「何が……?」
「私は……その……ちょっと、鈍いところがあって」
「知ってたわ」
「え」
「知ってたけど。……あの子、貴方のことを好きだったんでしょうけど、それ以外のことについても、怒ってたと思うの。私、確かに、急に現れて、貴方達をめちゃくちゃにしたんだわ」
ぎゅうっと、リアはジークの手を握り返した。痛い痛い、と言われて、ようやく離す。
「だからね、ジーク。私、一人で、魔王に会うわ」
「そんなのさせられないよ」
ジークは即座に言い返した。
「私にとって、アライやイディアーテが友人であり、味方であったように。私は君の味方でありたい。私達が君に巻き込まれるのが心配だと言うのなら、私一人が君についていく。イディアーテ達は、蛙となった私に縛り付けられていた被害者でもあるから、もう、王宮に戻っても構わないし」
「だからっ、貴方のそういうところがだめなのよ」
リアは真面目に顔をしかめた。だめ、という言葉を受けて、ジークが何だかぼんやりとした。
「あっごめんなさい、貴方自身はとてもいい人だし、私もみんなも、きっと貴方のことを好きよ」
「ありがとう」
「それでね。ねぇイディアーテ。貴方、王子から離れてさっさと家に帰りたい?」
「……いえ。ですが、王子が望まれるのであればそうします」
「アライはどう?」
「アライはー、面白そうだし殿下のこと好きなんで帰れって言われても嫌ですし。っていうか途中棄権するぐらいなら最初っからついてきてませんしぃ」
彼らの言葉に対し、ジークはありがとうと微笑みかける。リアは緊張で固まったまま、厳しく言った。
「ジーク。この人達は、貴方のことが好きなの。友人だって言うのなら、この人達をちゃんと、貴方の人生に関わらせてあげて」
「ちゃんと?」
「マーサが言うのは、もっともだわ。……貴方、あの子を大事に思っているからこそ、対等じゃなくって、守ってあげるか自分から遠ざけてあげるのが一番だって、思ってるでしょう。呪いのせいでみんなが気をつかって貴方の側にいたって、思ってるでしょう。でも、あの子は呪いがとけても、貴方と……友達? で、いたいのよ。イディアーテも、アライもそう。友達っていう言い方がおかしければ……上司と部下。貴方、とっても愛されてるのよ」
「……」
山道を小リスが駆けていく。二、三個の木の実が落ちて、こんこんと転がっていった。
どれくらい沈黙していただろう。
ぽかんとしたジークが、やがて春風を受けた花芽のように、軽く息をした。
「そうだね。……そうだ。私は確かに、彼らを遠ざけようとしていたね」
木の葉と草を踏みしめて、ジークが一歩前へ出た。
「イディアーテ、アライ。一緒に来てもらっていいかな? 私に君達の運命をもらっても、いいかな?」
運命。
ちょっと言い過ぎじゃないかしら、とリアが訂正させようとした。だがそれよりも早く、イディアーテが王相手にするようにひざまづき、誓いの礼をした。
「……喜んで、王子」
一方のアライも、一瞬だけ膝を突く。
「はい殿下ー。ってかさりげなく永久的に主君と臣下っつー契約を結ばされた気がするな。アライそういうところが殿下の油断ならん点だと思いますよね……」
「ありがとう。私は君達に恥じない主君でありたい。そのためにもリアの憂いを払いたいな。……後で、マーサにも謝るね」
さりげなく人たらしな行動をしたジークの側で、リアは、もしかしたら自分がこの人に踊らされているのではないかと、ぼんやりと考えた。
でも、首筋にキスされて思考が吹っ飛んだ。
「なっ、何!?」
「うふふ……嬉しくって」
「何が!?」
「嬉しくって。キスできることも、対等に会話ができることも。蛙であったときにはできなかったことが、今はできる」
「やっ、やめて、何する気、」
するりと腰に腕を回されて、リアは焦る。
子どもみたいに抱き上げられて、女神様相手みたいに微笑んで見上げられた。
「私はね、リア。君のことが、好きなんだ。そのことまでもが、嬉しくってしょうがないだ」
さすがにそれは、知ってるわとは言えなかった。
*
「あのね。ちょっと昔話をしたいんだけれど」
野営地で、ジークが、夜半にそう告げた。人に戻ったおかげで、彼は自分でたき火を見張り、木をくべることができている。
ジークは、寝入って休んでいる従者二人を視界に入れながら、たまたま落ち着かなくて眠れなかったリアに、話してくれた。
それは、蛙の王子の物語。
まだ十代初めの幼い王子は、従者である子どもと、その妹とともに、森の奥の、魔女の庭へ踏み込んで呪われた。
それからというもの、どんなぬくもりさえ、凶器になった。
両親に抱きしめてもらいたくても、小さな蛙の身ではかなわない。両親を抱きしめてあげたくても、指にしがみつくのが精一杯だ。
その上、蛙は変温動物。人の体温は高すぎて、長く触れていられない。
暖炉の入った部屋は暖かすぎ、苦しくてたまらなかった。
食べ物だって食べづらい。スープは冷まさないと飲めなかった。小さなパンくずと刻んだ肉を一欠片だけ頬張った。この蛙の姿でも人の食事をし、人の言葉を話せたから、ジークは人の心を持っていられた。
普通の蛙みたいに生の幼虫を食べて蛙の言葉で喋っていたら、早晩、思考は退化していただろう。
怖かった。
本当に自分は人間だったんだろうか。
魔女が作り上げた魔法の生物ではないだろうか。
本物の王子は実は殺されたんじゃないか。
私は誰なんだろう。
記憶と言動がジークのままだから、イディアーテやアライ、侍従頭や両親達は、ジークがジークであることを信じてくれた。蛙の外見を哀れみつつも、人として十分な教育を施してくれた。
王位はいつでも妹に譲る気でいたけれど、妹は近くの国の騎士に恋していて、絶対にお兄様の呪いはときましょうね、そして王になってくださいましと言ってくれた。
本当にいいのかな。
ジークはずっと不安だった。
星の欠片のように、リンデンの城に女の子が飛び込んでくるまで。
飛び込んできてからも。
呪いがとかれて、ほどかれて人間に戻れてよかった。
不安を朝日と風と彼女が吹き払ってくれた。
今度は君を助けたい。
予言と呪いは、人を縛る点ではよく似ている。
私は予言の苦しみから君を、解放したい。
「何となくだけれど、大きな、重たいものが貴方の中にあるような気がしていたわ」
リアはそれだけ、柔らかに呟く。たき火は穏やかな夕焼けのようで、のんびりと微笑むジークの横顔を、優しく照らした。
「聞いてくれてありがとう、リア」
「……私なんて、本当に、大したことないのよ」
「そうかな?」
「そうよ。……蛙になっても人間らしい心を失わなかった貴方の方が、強い人だわ」
「そうかな」
瞬きして、空の色をした瞳を細め、ジークは手を差し出した。
「一緒についていってもいいですか。お姫様」
「嫌って言っても、来てくれるんでしょう?」
それにもう、離したくないと、先に――蛙にキスしたときにリアは言っている。
くすくす笑いあって、たき火の影で手を繋ぐ。リアは繋いだ手を軽く振った。
もうすぐ、魔王の住みかに、たどり着くのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます