第13話

 山が深まって、道が険しくなる。

 石が多く、土の道はぬかるむため、徒歩にした方がいいという話がたびたび出た。

 それでも馬を連れていたが、ついに、深い谷を越えなくてはならなくなった。

「馬は大丈夫、みんないい子で賢いんで、ここで離しても自力で国へ帰れます。マーサもいるから預けてもいいし」

 アライが馬をおりる。荷物から縄を取り出して、その辺りの石に端を結び、対岸へ投げつけた。ふわりと大木の幹に絡まった縄は、日差しを浴びて端が光った。

 もう一本同じように縄を渡すと、手元にある二本の縄の端を近くの木にくくりつけた。

「さすがにドラゴンは今呼べないんで、アライ自力で頑張りますよ!」

 片目をつぶってから、アライが縄を軽く揺さぶって強度を確かめた。二本の縄のうち、上の縄は手で掴み、下の縄に足をかけて、すいすいと渡り出す。命綱代わりの縄がアライの腰に結ばれていて、その端もこちらの岸の、別の木にくくりつけてあった。

 無事渡り終えたアライが、自分の腰の縄を外す。そして、丈夫そうな別の木に結び直した。リアの前で、イディアーテが元・命綱の、こちらの岸に取り残された端を、木からほどいて外し、リアの腰に結びつけた。

 これで、もし途中で足を踏み外して落下しても、向こう岸のアライが引き上げてくれる。

(とはいえ、怖いものは怖いのよ)

 ひょう、と、冷えた風が谷底を渡る。ひらりと、蝶が横切った。小さな影が驚くほど早く、谷川に落ちる。その、底の遠さ。

(これはっ……さすがに怖い!!)

 リアは硬直する。

 ジークが軽く首を傾げた。

「リア。私も行こう。力にはなれなくても、近くにいれば心強いかもしれないし」

「しかし、王子。貴方に万が一のことがあっては」

「リアを落とすつもりかい?」

(怖いこと言わないで!)

 リアは声が出ず、拳を握って自己表現した。

「不謹慎です、王子」

「ごめんごめん。あんまり真面目な顔をするものだから」

「こんなところで笑ってどうするんです」

「笑ったら、肩の余分な力が抜けて、体が楽に動くじゃないか」

(も、もっともだわ、でも)

 リアは黙って、足下を見る。髪をくくっているため、襟足が寒い。首筋を抜けた風が、ふわりとリアの肩を押すした

「ぐっ……」

 結局、動けないリアの肩に、力づけるためにジークが乗った。蛙ということで逆効果な気がしたが、リアは抵抗できなかった。

「わあ、殿下の体重分重くなってバランス崩れそう」

 アライが不吉なことを言いつつ、対岸で命綱を持ち、待ってくれる。

 リアは一歩、踏み出した。

 襟足が寒くて、気が散った。

(平常心……!)

 もう一歩、足を出した。それだけで、足下はもう、深い谷底となる。

(大丈夫、大丈夫よ)

「大丈夫だよ」

(私、小さい頃に弟と……イバラと一緒に、庭木に登って遊んだじゃない! リンデンの城壁にも登ったし!)

「大丈夫だよ。下を見ないで。地面に引いた線の上を歩くつもりで、行こう」

(大丈夫――)

「大丈夫だから、」

「ジーク王子」

 リアは、今まで無視していた蛙を、見ないように注意しながら口を開いた。見たらたぶん、落ちてしまう。

「気が散りますジーク王子。お願いですから黙ってて」

「うん、ごめんね。信じているよ、リア」

 よくよく考えてみれば、ジークの命はリアの肩にかかっている(肩に乗っているし)。

 縄の真ん中辺りまで、そろそろと、虫が這うように進んでいく。もう少しで向こう岸だ。

 気が抜けそうになったとたん、急な風が吹いた。リアは悲鳴を飲み込んだ。腹の底がひどく冷える。縄にしがみついた掌と、全力で縄の上で踏ん張る足が痛んだ。

 ジークも、リアの服にしがみつく。

(怖い)

 下を見ないようにしていたのに、風で揺らされて、否応なしに視線が落ちる。谷底をのぞき込むと、ふわりと自然に体が浮いた。

 瓶いっぱいに蛙を詰め込んで持ってこられたときと、どちらがより衝撃的だろうか。

「うっ」

(思い出しちゃった)

「リア」

 それまで口をつぐんでいたジークが、真摯に呟く。リアは思わず、自分の肩口を見てしまった。想像ではなくて生の、現実に存在する蛙の姿を至近距離で眺めてしまい、リアは無言で縄を掴み直した。

「リア、落ち着いて、」

 ジークが話を始める寸前、リアは、前置きなしに走り出した。

「うわあぁ!?」

 ジークの悲鳴もそっちのけで、リアは縄の上を走っていく。どうせ命綱はついているのだ、落っこちて谷にぶら下がったって、助けて貰える。

 ジークと二人で叫びながら、リアは勢いよく向こう岸に飛び降りた。

 ジークを振り落としてそのまま森の中に逃げ込みそうになったが、両腕を広げたアライに受け止められて、阻まれる。

「どうどう。さりげなく逃亡しようとしましたねお姫様」

 うっかり背負い投げされそうになり、リアはもがくのをやめて大人しくその場に崩れ落ちた。

 体力勝負で言うと(それ以外でもたぶん)、アライは手強い。

「逃げて、ないわ……っ」

「どうだかぁ。怖いからって殿下からも俺達からも逃げようとしないの」

「えっ? えっ?」

 地面で跳ねて、ジークがリアに近づいてくる。

「逃げるって、どこに?」

「うっ」

 つぶらな瞳で見上げられる。リアの胸に、鈍く、林檎みたいな異物が投げ落とされた。その名前は、罪悪感というものにとても似ている。

(私、弟がいるせいかしら。年下っぽく見上げられると、面倒みないといけない気がして落ち着かないわ……)

 リアが打ちひしがれ、ジークがその周りをぴょんぺたぴょんぺた回っている頃、アライはリアから縄を外して、対岸のイディアーテに手を振っていた。

「どーする? 命綱」

「下の縄をもらおう」

 イディアーテは、渡してあった二本の縄のうちの一つを自分の腰に結びつける。そしてもう一本の縄に紐をかけて、勢いよく地面を蹴った。崖には少しだけ高低差があるので、縄にぶら下がって宙を渡れる。

 ただ、縄自体あまり丈夫ではないようだ。体重が一気にかかるので、大きくたわんだ。

「あーだからアライそれやらなかったのに」

「まぁ、こっち側に命綱があるから、落ちることはないよ」

「慎重派に見えたけど、結構、そうでもないのね」

 無事にイディアーテもこちらに着いた。

 谷に渡した、残りの縄はどうするのだろう。リアの疑問に、イディアーテがちょうど答えを出す。

「マーサ。縄を回収しておいてくれ」

「言われずとも、させておきますわ!」

 返事があってすぐに、向こう岸に、そそくさと使用人達が現れる。縄をといてくるくると巻き、崖の前に停車した馬車の方へ駆けていった。

(マーサはどうするのかしら)

 ついに馬車を置いていくのかと思って見ていると、工具などを取り出した。それらを振り回して、賑やかな音が始まった。

「何、あれ」

 アライとイディアーテは屈伸して、体をほぐしている。すぐに出発しなさそうなので、マーサがどうやって渡るのか、見ていてもよさそうだ。

 しばらくごそごそしていた向こう側は、やがて、突然に、何かを運び出した。

「木……?」

 しかも丸太ではない。スライスした木の板を、崖の、幅の狭い場所に渡している。距離が足りないと思われたが、いくつか継ぎ足して幅の広い一枚板のようなものを作り出した。

 そして、その上を一気呵成に馬車が渡る。

「……橋!?」

 ふわんふわんとたわむ木の橋を、馬車が渡り終える。使用人達もこちらの岸に渡ってくると、また木を回収して積み重ねた。ご自由にお使いください、と書いて置き去りにするようだ。

「よその土地の資材を勝手に使ったのは、いけなかったね」

 ジークがちょっと難しそうに言う。

「資材云々よりもっ、アレができるんならっ、貴方もあぁやって楽に移動できるんじゃないの?」

「今、使用人がいないからなぁ。リンデンに行くときは護衛をつけてもらったけれど、その後は断ったんだ。リンデンにいれば安全だから、必要ないし……そもそも、呪われた私に人をつけると、魔物に襲撃された際に多くの者が傷ついてしまう。従者の数が少なければ魔物から逃げやすいし、橋を作って渡すことができなくても最小限の力で崖を渡ることはできる。問題はないよ」

「そうなんだけど」

 王子が危ない方法で谷を渡り、その国の貴族があんな派手な方法を使うのは、変な感じだった。

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