蛙の王子と魔王の花嫁~魔法の城~
せらひかり
プロローグ
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人のぬくもりは、彼にとって凶器だった。
いつでも、少し冷えたものを食べ、冷たすぎない場所に布を置いてくるまった。昔は、友人と呼べる人がいたけれど、今でもそうなのか、正直なところ分からない。
瞬きして、密やかに願う。
どうか、どうか来てくれますように。
私のために。
(私の、運命となる人が)
これを思うのは、もう何度目だろう。長い間、誰も来ない。もしかしたら、誰も来やしないかもしれない。信じたい気持ちは擦り切れて、ぼろ布のようになっていた。
それでも彼は、その気持ちを握りしめてただ待った。
ある日、ドアノブがかすかに、音を立てた。
木のドアは薄いくせに、いつも外の物音を遮ってしまう。けれどこの日は珍しく、ごく密やかに音を立てた。
彼は、じっとドアを見つめる。
(どうか、私のために)
ドアを開けてほしい。その願いは、これまで叶うことがなかった。
けれど、今回は。
ドアを開けて、人影が転がり込んできた。
緊張と嬉しさで、心臓が、音を立てて壊れ落ちていくような気がした。
*
絶対に、変えてやる。
リディアーレ・ストラは、茶の巻き毛を一つにくくり、ドレスを脱ぎ捨てた。
(運命なんて!)
涙ぐみ、リディアーレ――リアは、今日のために隠しておいた、丈夫な軍服を取り出した。弟が、かっこいいと言ってねだって手に入れた、お飾りの軍服だ。ちょっと弟の部屋から拝借した。弟は今、政治に興じていて、もうこの服に興味がないらしく、姉に奪われたことに気づかなかった。記章はナイフで引きはがし、房飾りも取りのけておく。
袖を通し、リアは軽く飛び跳ねた。腕や膝もよく動く。乗馬服なんかよりも、体が動かしやすい。丈も、リアにはちょうどよかった。その上黒色で、闇に紛れて逃げるのにうってつけだ。
ドレスから着替えたまま、ひとけがなくなるのをじっと待つ。
ざわついた廊下が、夜が更けるにつれて静かになった。
頭痛がするからと言って早めに部屋に引き上げたけれど、こんなに夜遅くなるなんて思わなかった。
(みんな、宵っぱりなんだから)
月のない夜。
リアは、深呼吸して、ナイフやハンカチ、水筒や乾パンなどの装備を確かめる。それらを小さな鞄に詰めて、ベランダから外に出た。背高い庭木に飛び移り、地面に着くとすぐに隠れた。
見張りの巡回ルートを知っているので、タイミングを見計らって、庭を突っ切る。
何度もイメージで練習した道行きだった。
城壁の側にある穴に飛び込むとき、不安になって振り返った。
城はまだ明るく、冷たい空気の中で冴え冴えと、白鳥のような姿でたたずんでいた。
(もう帰れないかもしれない)
そう思うと、目の奥がしびれて、涙で前が見えなくなる。リアは、きっと帰ってくると呟いて、涙を拭わず、城に背を向けた。
*
翌朝、ストラの第一王女はいつまで経っても起きてこなかった。不審の念を抱き、皆が部屋を改めたところ、書き置きだけが見つかった。
――運命なんて信じません。魔王の花嫁だなんて、絶対に嫌です。
母親は「あぁ」と呟いて額を押さえる。
「あの子ったら!」
両親だって、娘を魔王に渡したくない。けれど、「リアが魔王の花嫁になる」という予言を変えられないから、悲しみをこらえて娘を差し出すつもりでいたのだ。
娘が逃げ出してしまった今、喜んでいいのか泣いていいのか、分からなくて困惑する。
きっと、あんな女の子なんて、城を出れば、すぐさま夜盗に襲われるか、獣に食われるか、それとも魔女に食べられてしまうことだろう。
彼女の身の安全を考えれば、捜してやりたい。けれど魔王に引き渡すことを思えば、捜したくない。皆、リアを逃がしてやりたい気持ちはあるのだ。
「どうしたの!」
二日酔いの親戚を介抱していたリアの弟が、ばたばたと遅れて駆けつけた。
「姉上が、家出……? ばかな」
リアに似た顔で、端のくるりとした髪を揺らし、弟は首を振った。
「何もかも、台無しだ……!」
リアがどこへ逃げたのか、分からない。最近、あまり姉に会っていなくて、行きそうなところも思いつかない。弟の不安感はいっそう募った。
眉をひそめ、彼は呟く。
「こうなったら……計画を、実行に移すしかない」
誰にも聞かれぬよう、壁際で呟いた弟は、やがて毅然と歩き始めた。
こうしてリアの家出一日目は、少しだけ静かに幕を開けた。
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