第4話 正論と強気の狭間
窓から見える景色がこれほど明るく感じられたことがあっただろうか。廊下に並ぶ大きな硝子から見下ろす中庭は、季節の花で溢れている。きっと使用人が手入れしているのだろう。ゼジッテリカはじっと庭を見つめ、その中に動く白い点を探し出した。
「本当だ、鳥もいる!」
「今朝も見かけましたから、この辺りに巣があるのかもしれませんね。鳥には詳しくないので、確かなことは言えませんが」
人差し指で窓に触れると、隣に立つシィラが首を縦に振るのがわかった。ちらと横目で見上げれば、シィラは穏やかな顔で庭先を見つめている。いや、そう思った次の瞬間にはこちらを振り向いた。
「さすがはファミィール家のお屋敷ですね。お庭まで立派です」
ふわりと微笑まれて、ゼジッテリカはぎゅっと青いドレスを掴んだ。どきりとするような笑顔だ。こうして当たり前のように言葉を交わしてくれるだけでも十分なのに、シィラの眼差しはいつも温かい。昨日会ったばかりなのに、もうゼジッテリカは抵抗する気を失っていた。
「うん。でも私、今まで全然知らなかった」
ゼジッテリカは瞳を細めた。今までは、部屋の外にいる時間は限られていた。食事をする時や移動時間、何かの儀式の時などだけで、それ以外はずっと部屋の中にいた。
それでも十分だと思っていたが、それは思い込もうとしているだけだったらしい。こうして窓の外を見ているだけで浮き足立つなんて、ゼジッテリカ自身も予想しなかった。
気恥ずかしさと悲しさが胸にこみ上げてきて、ゼジッテリカはまた庭へと視線を戻す。先ほど見た白い鳥は姿を消していた。どこかへ飛び立ったのだろうか。
「廊下をゆっくり歩くことも、ほとんどなかったの」
部屋の外で自由にしていられるのは、テキアと一緒の時だけだ。しかし最近のテキアはとにかく忙しく、顔を見せることも減っていた。食事を共にするのが精一杯だった。
「そうだったんですか。本当に部屋にこもりきりだったんですね」
シィラは深々と相槌を打つ。その長い髪がふわりと揺れるのを、なんとはなしにゼジッテリカは視界に入れた。
こうした何気ない仕草の向こうに母の影がちらつくのは、髪の長さのせいだろうか。母の笑顔は記憶の中で段々ぼんやり薄らいでしまっているが、後ろ姿だけは鮮明だ。金の長い髪をなびかせて歩く様を、ゼジッテリカはいつも寂しく見送っていた。
「あーっ!」
と、そこで不意に廊下の奥から声が響いた。一瞬何が起こったのかゼジッテリカにはわからなかったが、それが女性の叫び声だと認識した途端に体が強ばる。
「いた!」
思わずシィラの服の裾を掴むと、廊下の奥から誰かが走り寄ってくる靴音がした。聞き慣れない硬い音だから、使用人ではなく護衛の者だろう。
「まさかと思ったけど本当にいたー! ちょっとシィラ、何やってんのっ」
駆けつけてきたのは、赤い髪をざっくりと切った大柄な女性だった。彼女はゼジッテリカに一瞥をくれた後、ずんずんシィラへと詰め寄る。
「マランさん、おはようございます」
「おはようじゃないって。なんで直接護衛がゼジッテリカ様を連れ出してるの。報告受けて慌てて確認しに来ちゃったじゃないっ」
唾を飛ばすような勢いでまくし立てる、マランと呼ばれた女性。どうやらシィラとは知り合いらしい。ゼジッテリカはおずおずと、シィラとその女性を見比べた。
「それはもちろん、リカ様がずっと部屋の中にいるのは健康によくないからですよ」
「……はぁ?」
「外に出ずにただ怯えているだけなのはよくありません。それではあちらさんの思うつぼです。あ、リカ様、こちらはマラーヤさん。私はマランさんとお呼びしています」
やはり、ゼジッテリカが部屋の外にいるのはまずいようだった。それでもシィラは動じる様子もなく、そのままゼジッテリカへと女性を紹介までしてくれる。怒られていることに気づいていないかのようだ。ゼジッテリカはどう返事すべきかわからず、ただ曖昧に頷いた。
「う、うん」
「あのねぇ、シィラ。今はそんな紹介なんてしてる場合じゃ――」
「彼らは私たちの不安を煽りたいんですから、その手にのっては駄目ですよ。大丈夫です、私がついてますから」
頭を抱えるマラーヤへと向き直り、シィラは胸を張った。一体どこからその自信は出てくるのだろう。相手は魔物なのに。
「マラーヤさん!」
そこでさらに向こう側から声がした。今度は男の声だった。横目で確認すれば、癖のない金髪の青年が駆けつけてくるのがわかる。翡翠色の瞳が目立つ、細身の男だ。彼が足を踏み出す度に、身につけた防具の触れ合う音が廊下で反響していた。
「何かあったんですか!? あなたが血相を変えて廊下を走っていると、慌てた報告が来ましたよ」
「あ、シェルダさん」
マラーヤは額を押さえたまま、シェルダという男の方へ双眸を向けた。シェルダはそのままこちらへ走り寄ろうとして、その途中でゼジッテリカの存在に気がついたらしい。突として背を正して速度を落とす彼の顔は、困惑に満ちていた。
「すみません、ご無礼を。ゼジッテリカ様がいらしたんですね」
彼の瞳には「何故?」と描かれているかのようだ。やはり理由がなければゼジッテリカは外に出てはいけないらしい。先ほどまでの高揚感が、嘘のように萎んでいった。
ゼジッテリカには自由がない。魔物に狙われる前からも、狙われてからも、ずっとそうだ。いつまでこの生活が続くのだろう。
「シィラが連れ出したのよ」
「シィラ……? ああ、直接護衛の。……え?」
マラーヤの説明に納得しかけたシェルダは、その場で固まった。そしてぎこちない視線をゆっくりシィラへと向ける。せっかくの端整な顔立ちも台無しになるような、虚を突かれた表情だった。
「あなたが、シィラさん?」
信じがたいと言わんばかりの声が、ゼジッテリカの鼓膜を揺らす。どうやらシィラは護衛たちの中でも異端らしい。それが見た目の問題なのかは、ゼジッテリカにはわからないが。
「はい。ご挨拶が遅れてすみません、屋敷内隊長のシェルダさん。私がゼジッテリカ様の護衛のシィラです」
「そ、そうでしたか。失礼しました。しかし何故ゼジッテリカ様をこんな廊下へ?」
あえて肩書きつきで名を呼び、名乗るシィラは、ゼジッテリカから見てもずいぶんと攻撃的な態度だ。
それでも気を取り直した様子のシェルダは、話を本題へと戻した。大人たちの会話に挟まれて、ゼジッテリカは肩をすぼませる。自分が話題の中心にいるはずなのに、その輪には加えてもらえないこのもどかしさは苦手だ。
「ちょうど今マラーヤさんにも説明していたところですが、ずっと部屋の中にいると気が滅入るからですよ」
と、シィラの手がおもむろにゼジッテリカの肩に触れた。柔らかく、それでいて決して怖々とではない手つきで、そっとゼジッテリカの体を引き寄せる。
泣いて駄々をこねていた自分を慰める、母の手を思い出した。それと同時に、拗ねている自分をたしなめる父の手を思い出した。突然襲い来る息苦しさを堪えるよう、ゼジッテリカは唇を噛む。シィラの顔を見上げたくても見上げられなくて、視線が泳いだ。
「それは望ましいことではありません」
「し、しかしですねぇ」
反論の余地はないとばかりに言い切るシィラに、シェルダが眉間に皺を寄せた。そしてマラーヤと顔を見合わせる。ゼジッテリカにもわかる。守る対象が一定の場所にいた方が、彼らはやりやすいのだ。どこにいるのかわからない人間を守るのはきっと大変だろう。
シィラがやっていることは、護衛のやることではない。だがそれでも、ゼジッテリカは嬉しかった。それをこの場で言ってもよいのだろうか?
「いくらなんでも迂闊ですよ、シィラさん。いつ魔物が来るかもわからないんですよ?」
「あら、面白いことを仰りますね、シェルダさん。魔物が動けば気でわかります。近づいてくればすぐに気づきますよ」
シィラが責められるのではと案じたが、その必要はなかった。忠告するよう口を開いたシェルダにも、シィラはやはり譲るつもりはなさそうだった。声は柔らかく、口調も穏やかなのに、話している内容はずいぶんと強気だ。
「え、嘘。そんなことできるわけないでしょっ。まさかシィラ、魔物の気の区別がつくの!?」
そこでマラーヤが声を張り上げた。目を見開いた彼女の顔には驚愕が満ち溢れていた。気というものを知らぬゼジッテリカには何が何だかさっぱりわからなかったが、彼らにとっては常識的なもののようだ。
「はい、もちろん。何度も魔物と会った方ならわかるはずですよ」
「……そういえば、アースさんもそんなこと言ってましたね。妄言かと思ったのですが、あなたまで同じことを仰るなら、本当なんでしょうかね」
ついでシェルダが深々と息を吐いた。マラーヤはまだ目を白黒とさせていたが、シィラはくすりと笑い声を漏らしてから、今度はゼジッテリカの頭を撫でる。突然のことにどきりとして、鼓動が跳ねた。こうして何気なく触れてくる大人というのは今までいなかった。
「こんな些末なところで嘘を吐いても意味がありませんよ。リカ様、すみません。わからない話をしてしまって。気というのは技使いが感じ取れる特別な気配のことなんです。生き物なら誰でも持っているんですが、魔物には特徴があるんですよ。だから魔物が近づいてきたらわかるんです」
ゼジッテリカから手を離したシィラは、腰を屈めて顔をのぞき込んできた。その黒い瞳に見据えられて、ますますゼジッテリカはどぎまぎとする。この微笑みはどうにも心臓に悪い。
「そ、そうなんだ」
「はい。だから私の傍にいる時は心配しなくても大丈夫ですよ」
シィラにそう言われると、本当にそんな気がしてくるから不思議だった。彼女の言葉の方が魔法のようだ。それは時折テキアが見せる微笑にも似ている。滅多に笑わないテキアが穏やかな顔をしていると、ゼジッテリカの気持ちは驚くほど落ち着くものだった。
「本当、あんたは見かけによらず気が強いのね」
だが、そうマランが苦笑した、次の瞬間だった。突然シィラは上体を起こし、ゼジッテリカの肩を強く掴んだ。視界の端で青いドレスの裾が揺れる。
「シィラ?」
「噂をすればですね。魔物が動き出しました」
「……え?」
驚くゼジッテリカの声に、シェルダとマラーヤのものが重なった。顔を上げたシィラは、天井の辺りを睨み付けていた。その横顔は先ほどとは違い緊張感を孕んでいる。ゼジッテリカは実感の湧かない言葉を噛み締めながら、マラーヤたちの様子をうかがった。
「ほ、本当に?」
「ええ。シェルダさんたちはすぐに配置に。私はリカ様と一緒に部屋に戻ります。おそらく、屋敷外の方たちがすぐに動き出します」
動転するマラーヤたちに、シィラは素早くそう指示する。その頼もしさと今までの会話との差がうまく飲み込めずに、ゼジッテリカはぎゅっとドレスの袖を握った。どうしても現実感が湧かない。
「いや、それよりも屋敷外の人たちに知らせないと。まだ気づいてない可能性があります」
「待ってください、シェルダさん」
踵を返そうとするシェルダを、シィラは即座に呼び止めた。肩越しに振り返ったシェルダは、何事かと眉根を寄せる。
「屋敷外の人たちは大丈夫です。シェルダさん、先ほど言ったじゃないですか。アースさんは魔物の気がわかると。きっと大丈夫です。現に今動き出しました。それに魔物がこれだけ堂々とこんな時間から動き出すということは、私たちを試そうとしているんですよ。しっかり迎え撃って思い知らせてやらないと駄目です。動じてはいけません」
シィラにそう言われながらもシェルダが一瞬顔をしかめたのは、その話が本当なのかどうか信じ切れていないからだろうか。マラーヤも複雑そうな顔をしている。
そうか、護衛たちは互いの顔どころかどれほどの実力者なのかもわかっていないのか。ようやくゼジッテリカもそのことに気づいた。だからシィラを見て驚くし、疑るのだ。彼らはきっと自分しか信じていない。
「ですが、万が一に備える必要はあると思いますよシィラさん。ほら、マラーヤさんは配置に戻って他の護衛たちに指示をお願いします。僕はギャロッドさんに伝えてきます」
ゼジッテリカの予測を裏付けるよう、シェルダの毅然とした声が廊下に響いた。
マラーヤは一度頭を掻くと、ため息を吐いてからちらとこちらを見る。その何とも言いがたい、苛立ちを押し隠したような顔に、見覚えはなかった。ゼジッテリカにそんな表情を見せる大人は見たことがなかった。
「悪いけどシィラ、今のはシェルダさんの方が正論だと思う。でもあんたが感じたという気は信じておく。何もなければ、それはそれで幸いだからね」
言いづらそうにそうこぼしたマラーヤは、シェルダと共に走り出した。二人の背中が小さくなるのを見送るのは、何故だか胸が痛かった。
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