第22話 逢魔の救世主

「またゼジッテリカ様とお散歩ですか」

 いつもの廊下から中庭を眺めていると、不意に声をかけてくる者がいた。ゼジッテリカと同じまばゆい金髪が目立つ男だ。顔には見覚えがあるのだが、名前が思い出せない。

 ゼジッテリカが顔をしかめていると、側にいたシィラが頷くのが見えた。

「はい、今日は天気がいいので庭を眺めていたところですよ。あらシェルダさん、お疲れです? お顔がやつれたような」

 振り向いたシィラは心配そうにそう尋ねる。そうだ、シェルダという名前だった。シィラの声につられて男の方を見上げれば、確かに青白い顔をしていた。それは亡くなる直前の母や父の様子を思い起こさせ、ゼジッテリカの背筋を冷たくする。

「ああ、単なる寝不足です。屋敷の外へ人員を割いているので、どうしても屋敷内は手薄になるので」

 シェルダはちらとだけゼジッテリカを見遣り、翡翠色の瞳を細めた。言われてみれば、屋敷内で見かける護衛の数が減っているような気がする。ゼジッテリカは深緑のドレスの上でそっと拳を握った。

 ゼジッテリカたちを守るために、彼らは無理を重ねているのだろう。中には命の危険にさらされた者も、殺された者もいる。逃げ出した者をどうして責められようか?

 しかし残りの者に負担を強いるのは、ゼジッテリカの望むところではない。困った問題だ。

「そうでしたか。体を壊さないよう気をつけてくださいね。あなたに倒れられては、きっと皆が困ります」

 首の後ろを掻くシェルダに向かって、シィラはふわりと微笑んだ。記憶を辿れば、確か彼にも何か役職がついていたはずだ。責任のある立場というのは大変なのだろうとゼジッテリカは想像する。――テキアがそうであるように。

「ありがとうございます。でも気分はずいぶんましですよ。救世主の話題のおかげで、皆は活気づいていますからね」

「……救世主?」

 それでも軽い調子で笑ったシェルダは、悪戯っぽく片目を瞑った。その響きに聞き覚えがなく、ゼジッテリカはシィラと目を目を見交わせる。シィラも不思議そうな顔をしていた。

「ご存じないですか? 魔物を切り裂く正体の知れぬ女性の話」

「ああ、その話ですか。……女性なんですか?」

 右手をひらりと振りつつシェルダはそう続けた。その話ならば、ゼジッテリカもテキアから聞いた。真夜中に現れ、護衛を狙う魔物を突然切り裂く何者かがいるらしい。

 けれどもその正体については明らかとなっていないはずだ。女性だというのも、ゼジッテリカは耳にしていない。

「はい。先日、尾のように揺れる長い髪を見たという者がいまして」

「でも、それだけで女性とは……」

「あー確かにそうですね。髪の長い男性もいます」

 シェルダとシィラの話は続いた。たわいもない会話を交わす時のような、穏やかな声音だった。このところ緊迫するやりとりばかり聞いていたから、ずいぶんと懐かしい心地がする。

「はい。たとえばバンさんみたいに」

「そういえばそうでしたね。彼は違うと主張していますが」

 シェルダが肩をすくめると、防具がかすかな音を立てた。それがゼジッテリカを現実へと引き戻す。

 救世主。なるほどそう呼びたくなるのもわかるかもしれない。絶望的だと思っていた状況を変えてしまう者は、存在そのものが奇跡のように感じられる。ゼジッテリカにとってのシィラがそうであるように。

「まあ、バンさんであれば別にいいのです。問題は魔物の仲違いだった場合ですね。何かの理由で諍いがなくなれば、また状況は戻ってしまいます。今のうちにどうにかしなければ」

 それでもシェルダは真面目にこの件について考えているようだった。切り裂かれた魔物が増えれば、敵の数は減る。しかし一体どれだけの魔物がファミィール家を狙っているのかも判明していなかった。

 ゼジッテリカたちは何も知らない。では一体いつ「終わり」が来るのか。どうすれば「終わり」だとわかるのか。このところゼジッテリカにはそれが気にかかっていた。

「シェルダさんの言う通りですね。今が好機です。少しでも魔物から情報を引き出せるとよいのですが」

 シィラがふと視線を落とした。その横顔に憂慮の色がある気がして、ゼジッテリカは瞬きをする。空気は変わってきている。このところは死人も増えていない。それでもまだ懸念は尽きないようだ。

 拳をゆっくりほどいて、ゼジッテリカは窓の外へと視線をやった。暖かな日差しに照らされた木々は、昔のように穏やかに葉を揺らしていた。




 静寂が支配する夕暮れ時。辺り一面が茜色に染まる頃合いだが、しかし今日に限ってそれはなかった。厚い雲が空を覆い、その隙間からかろうじて赤々とした光がこぼれ落ちている。

 それでも辺りに立ちこめる独特の気配は相変わらずで、奇妙な緊張感と儚さを伴った空気が護衛たちを包んでいた。

 誰もが黙し、唇をきつく引き結んでいる。そんな者たちを横目に、ギャロッドは一定の歩調で進んだ。背後からついてくるアースの靴音はない。彼はどうも気配を殺しながら動くのが得意らしい。

 単なる定期的な見回りだ。しかし胸騒ぎがすると言ってアースが同行を申し出てきた。そんなことは初めてだった。自然とギャロッドの気も引き締まる。

 だが注意深く辺りを見回しているが、何ら変哲はなさそうだ。気も探っているが、それらしき気配は感じ取れない。

 もっとも、魔物の察知についてはギャロッドよりもアースの方が遙かに上だから、そちらに任せた方がよいだろう。こればかりは仕方がない。

 そう開き直ったところで、アースの気の動きが止まった。他の護衛がいるわけでもない、単なる塀沿いの道の途中だ。怪訝に思ったギャロッドは振り返る。

「どうかしたか?」

「上空に気配がある」

 アースの視線はギャロッドを捉えてはいなかった。彼は真っ直ぐ、重たげな雲を見上げていた。その双眸に宿る鋭さが、ギャロッドの身を震わせる。まさか本当に魔物が来るというのか? こんな時間に?

「構えろ」

 低く囁いたアースは即座に長剣を引き抜いた。はっとしたギャロッドはアースから距離をとり、ついで周囲へ一瞥をくれる。

 近くに配置されている護衛はいない。乱闘になったところで巻き込まれる者はいないだろう。いや、問題はそこではない。魔物が来るのだとしたら一体どんな目的なのかという点だ。一度真正面から攻めてきた時は、アースに退けられている。

「来るぞ」

 アースが低く構えた。刹那、何の前触れもなく灰色の雲が割れた。その隙間から幾つもの白い帯が現れ、それが真っ直ぐ屋敷に向かって降り注いできた。ギャロッドは息を呑み、慌てて結界を張ろうと精神を集中させる。

 アースはその場で跳躍し、その帯の一つに向かって剣を横薙ぎにした。耳障りな音がした。普通は切れないはずの白い帯は、見事に断ち切られていた。やはり彼の剣は特別な得物らしい。

 残りの白い帯は、間一髪ギャロッドの結界が防いだ。自分の結界外にも向かっていたように見えたが、屋敷が破壊されるような音はしなかったからどうにか防ぎきったのだろう。確かめに行く時間はないのでそう信じておく。

 ギャロッドは肩に力を入れつつ周囲を探る。そして向こう側から走り寄ってくる護衛たちの姿を目にし、声を張り上げた。

「魔物だ!」

 ギャロッドも引き抜いた剣を構え、上空へ目を向けた。アースは前回と同様、塀の上に着地している。器用な奴だ。

 そんなアースの向こう側、切り裂かれた雲の合間には二人の男がいた。一人はアースと同じく短い黒い髪に黒ずくめの、ただし異様に大柄なものだった。もう一方は藍色の髪を腰まで伸ばした、どことなく線の細い印象の細身の男だ。

 だがどちらが強いかと聞かれれば、ギャロッドは後者だと即答するだろう。二人の放つ気を比べると、圧倒的に長髪の男の方が強い。

 襲撃してきたのは本当にこの二匹だけなのか? 辺りの気を探りながらギャロッドは瞳をすがめた。

 ここはやはり直接魔物の相手をするのはアースに任せるしかないだろう。しかし闇討ちを諦めた魔物が、より強い個体をぶつけてきたのだとしたらどうなるか? 嫌な想像ばかりが脳裏をよぎる。

「お前たちは屋敷を守れ。じきに他の者も来るから焦るなよ」

 自身の不安は表に出さず、ギャロッドはすぐさま指示を飛ばした。久しぶりに日のあるうちの襲撃だ。誰もが戸惑いの気を纏っている。

「おい、ギャロッド」

 と、そこで唐突に呼びかける声があった。塀の上のアースだ。予想外のことに瞠目すれば、こちらを振り返ることなくアースは口を開く。

「奴らは例の救世主をあぶり出すつもりかもしれない。注意しろ」

「……は?」

 耳に届いたのは予想もしない忠告だった。救世主をあぶり出す? そんな発想はギャロッドにはなかった。あれはやはり魔物の仲違いではなかったのか? 魔物も正体不明の救世主を警戒していると?

 けれども、疑問を口にするような暇はなかった。空に浮かんだ大柄な男の右手が、おもむろに頭上へと掲げられる。何かの合図か?

 ついで、大柄な男が動き出した。そのまま振り下ろした右手から、黒い光弾が生み出される。それはギャロッドたち目掛けて勢いよく振り落ちてきた。黒い技など見覚えがないが、当然生やさしい攻撃ではないはずだ。

「結界だ!」

 ギャロッドは再度声を張った。一度に生み出されたものとしては、光弾の数が多い。全て防ぎきれるだろうか? ギャロッドは広範囲の結界は得意な方ではない。

 歯を食いしばったギャロッドが結界を生み出せば、アースは躊躇せずに塀を蹴り上げて飛び上がった。その足下を、黒い光弾が複数すり抜けていく。

 空気を切り裂くような金属音がした。技と技が触れ合った時に特有の高音だ。ギャロッドの生み出した透明な膜に、黒い小さな光弾が幾つも直撃する。

 一瞬、視界が薄暗くなる。膜越しにも圧迫感を覚えた。弾けた黒い光は細かな粒子となって広がり、そのまま空気へ溶けていく。

「防いだか?」

 瞳を細めながらギャロッドは辺りの気を探った。光弾の数を考えればギャロッド一人で守り切れるものではない。しかし、屋敷に着弾したのならもっと物理的な音が響くはずだ。

 幸いなことに、屋敷から煙は立ち上っていないようだった。他の護衛が結界を張ったのかもしれない。この時間帯であれば夜に向けてそれなりに配置についている。

 再度結界を生み出す準備をしながら、ギャロッドは上空を見上げた。飛び上がったアースの剣を、長髪の男が素手で受け止めたところだった。いつの間に長髪の男まで動き出していたのか。

 二匹同時に仕掛けてくるとはギャロッドも想定外だ。まさか今回は連携しての攻撃が狙いなのか? そうなるとアース一人では分が悪い。空中戦では四方八方へ注意を向ける必要があるが、さらに相手が複数となるとどうしても視覚が増える。

「まずいな」

 思わずギャロッドは呟いた。空中で身をよじって難を逃れたアースは、その動きに任せて今度は剣を右へ払う。それは偶然にも、近づいていた大柄の男の動きを遮った。黒い光が霧散したところを見ると、技を放つつもりだったのだろう。

 いや、まさかアースは技の気配に気づいて剣を振るったのか? ギャロッドには到底無理なことだが、空中戦に慣れているアースならば不可能ではないかもしれない。

 期待と不安が入り交じり、体中から汗が噴き出る。一人の男に戦況がゆだねられるのはまずいことだが、現状はそうなっていた。

「嫌な話だな」

 奥歯を噛んだギャロッドが瞬きをした、その次の瞬間だった。唐突に、長髪の男が消えた。そうとしか言えなかった。重たげな雲を背に浮かんでいたその細い体が、忽然と見えなくなる。

「……は?」

 思わず間の抜けた声が漏れた。が、呆然と立ち尽くしている暇はなかった。はっと屋敷の方へ目を向ければ、いつの間にか、長髪の男が屋根の上にたたずんでいる。

 全身から血の気が引いた。目を疑いながらも、ギャロッドは忽然と思い出した。以前どこかで、老練な技使いが口にしていた。魔物には瞬間移動の技を使う個体がいると。その時は冗談だと思っていたが、まさかあれは本当だったのか?

「まずいぞ」

 焦ったギャロッドはすぐに走り出す。ここからでは、ギャロッドの結界は届かない。あの屋根はどの部屋の辺りなのか? 屋敷内の技使いは気づいているか? 様々な可能性が駆け巡る。

 しかし意外だったのは、長髪の男がすぐさま技を使わなかった点だ。屋根に降り立った男は鷹揚と辺りを見回し始めた。まるで何かを探しているかのようだった。

 まさか、本当に救世主を探しているのか?

 先ほどのアースの言葉がよみがえる。魔物の目的は救世主をあぶり出すことなのか。だとすれば、彼らが次にとる行動は限られる。

 屋敷を壊すか、さもなくば護衛たちを皆殺しにしようとするか。今までの救世主の行動を考えれば、選択するのは後者か?

「――おっと、お前の相手はオレだ」

 そのとき頭上で声が響いた。走りながらちらと視線を上げれば、アースと大柄な男が対峙しているところだった。長髪の男の方へ動き出そうとするアースを、足止めする気なのか。

 なるほど、複数できたのはそういう理由らしい。それだけ腕に自信のある魔物なのか。

「オレはシゲンダルだ。人間風情が、カアメイス様の右腕であるこのオレを無視しようとはいい度胸だな。しかし悪いが、ここを通すわけにはいかない」

 自信に満ちた魔物の声が、ギャロッドを焦らせる。アースがあの魔物を瞬殺するのはさすがに無理だろう。ならば、長髪の男はギャロッドがどうにかしなければならない。

 砂利を踏みつける音が耳障りに感じられる。狼狽える護衛たちのざわめきが、気と共に肌に纏わり付いてくる。

 空の上で再び、異様な高音が響き渡った。ギャロッドは祈るような気持ちでただひたすら一直線に駆けた。

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