第17話 欲しがりな人々

 人形を抱きしめ、ゼジッテリカは顔を上げた。気持ちは固まった。

 たとえ希望が打ち砕かれてしまったとしても、こうして悶々としているよりはすっきりする。不安に怯えたままでいなくてもよくなる。

 ゼジッテリカはもう一度シィラを見つめた。すると視線に気がついたのか、やおらシィラは振り返った。緩く束ねられた黒い髪がふわりと揺れる。見慣れた本棚を背にして立っているだけなのに、まるで絵画を見ているような気分になった。

「どうかしましたか? リカ様」

 穏やかな笑みと共に問いかけられ、一瞬だけ気持ちがぐらついた。何もなかったことにした方がよいのではないかと、もう一人の自分に誘惑されたような気がした。

 それでもぐっと息を詰めたゼジッテリカは意を決する。黙ってやり過ごすのも、何も知らない振りをするのももう嫌だった。

「あのね、シィラ。シィラはテキア叔父様とは結婚したくないの?」

 言った。言ってしまった。そう思いながらも、吐き出してしまったことで不思議と安堵も覚えた。そっと人形の頭を撫でながら真っ直ぐシィラを見上げれば、沈黙も怖くはなくなる。

 シィラはきょとりと目を丸くしてから、微苦笑を浮かべた。ついで人差し指を頬へと当てる。その頭が傾けられると同時に、長い前髪がさらりと頬を撫でた。

「それは、先ほどの話のことですね?」

「う、うん」

「そうですねぇ。それはちょっと難しいですね」

 優しげではあるのに明確な拒否のこもった返答に、ゼジッテリカの胸はずきずきと痛んだ。そう言われる予感はしていた。

 シィラは流れの技使いだ。しかもお金を目的に働いているわけではない。ならばきっと、シィラにも何か事情があるに違いない。

「どうして?」

「私には目的があるんです。そのためにはここに留まっているわけにはいかないんです。それに……」

「それに?」

 案の定、シィラは微苦笑を浮かべながらそう告げた。しかし予想外なこともあった。申し訳なさそうにふんわり細められた瞳には、ほんの少し寂しさが滲んでいるように見えた。

 この眼差しには覚えがある。いつか、テキアがそんな目をして遠くを眺めていた。

「好きな人がいるんです。私のことは忘れてしまったみたいですけど、私は忘れられないんです。だから無理なんですよ」

 くつくつと、シィラは笑った。軽やかに告げられたにもかかわらず、ゼジッテリカは強い衝撃を受けた。

 このシィラを忘れてしまう人がいるなどということが、信じられなかった。こんなに優しくて綺麗な人間が忘れ去られてしまうなんて。

「え、ひどい。そんなの……。シィラは悲しくないの?」

「ひどくはないですよ。仕方のないことなんです。もちろん寂しくはありますが、でも、今幸せでいてくれるなら、それでいいのかなとも思います」

 柔らかな笑顔を見ていられなくて、ゼジッテリカは人形を抱きしめた。シィラと離れる日を思って狼狽している自分に自己嫌悪する。シィラはずっとそんな痛みを抱えていたのか。

「だからテキア様と結婚はできないんです。すみませんね、リカ様」

 シィラが頭を下げる気配に、慌ててゼジッテリカは首を横に振った。謝って欲しいわけではなかった。我が侭を言っているのはゼジッテリカの方だ。

「ううん。シィラが家族になってくれたら嬉しいなって、そう思っただけだから。でもシィラにはシィラの事情があるもんね。それに叔父様のも」

 ゼジッテリカはまた人形の頭を撫でる。あの時冗談だと笑ったテキアは、どんな気持ちだったのだろう。ゼジッテリカを傷つけまいとしてくれたのか。それとも困惑するシィラに気を使っていたのだろうか。

 ゼジッテリカは何も知らない。シィラだけでなくテキアのことも。亡くなった父や母のことも、よく知らなかった。母との思い出も、少しずつ薄らいでいるのを感じることがある。

 娘にも忘れられてしまったら、両親は悲しむだろうか。寂しがるだろうか。シィラのように、幸せでいてくれたらいいのだと言ってくれるのだろうか。

 人形を撫でる手が止まった。かわいそうな少女と言われ続けてきたが、本当にそうだったのか。ひどいのはゼジッテリカではないのか。

「どうかしましたか? リカ様」

 青ざめて黙り込んでいると、シィラが顔をのぞき込んできた。様子がおかしいと気づかれたのだろう。シィラはいつも目ざとい。

「ううん、何でもない」

「嘘ですね。リカ様は嘘が下手です」

 それでもこの気持ちを口にしたくはなくて頭を振ると、シィラの指先がそっとゼジッテリカの額に触れた。言い逃れはできないようだ。シィラを相手取ってごまかすなど無理なのだと、ゼジッテリカは思い知る。

「……私も、忘れちゃってるなって思って。お母様のことも、あんまり覚えてないんだ。段々ぼんやりしてきて。言われたこととか、やったことは覚えてるのに、声も忘れかけてる」

 ゼジッテリカは俯いた。母の後ろ姿、手のひらの感触、柔らかな話し方は心に残っているのに、肝心の笑顔も朧気だった。まるで曇った硝子の向こう側を見ようとしているようだ。

「リカ様はまだ小さいんですから、当然のことですよ」

「でもでも、お父様もそうなの。この間までいたのに。お父様はどんどん忙しくなって、ほとんど話もできなくなって。だから私、お父様がどんな風に仕事をしてたのか、どんな風に笑ってたのかもよく思い出せないの」

 告げれば告げるほど息苦しくなった。このままではいつか全てを忘れてしまうのではないかと怖くなる。テキアとのことも、シィラとのことも、すぐにあやふやになってしまうのではないかと恐ろしくなる。

 喉の奥が引き攣ったようになり、うまく言葉が出てこなくなった。目頭がじわりと熱くなる。

 大人たちが言っていた通り、やはりゼジッテリカはひどい子どもなのだ。

「リカ様、誰だって全てを覚えていることはできないんですよ」

 額に触れていたシィラの手がそのまま頬へと滑り落ちてきた。温かい手のひらだった。恐る恐る視線を上げれば、優しいシィラの双眸が間近に飛び込んでくる。ゼジッテリカは息を呑んだ。

「大事なのは、気持ちです。大切にされていたと思えること。楽しかったと思えること。一緒にいた時間が幸せだったと思えるなら、十分じゃないですか」

 シィラの声は瞬く間に胸に染み込んでいった。初めて会った時と同じだ。シィラは欲しい言葉をくれる。そうであって欲しいという願いを叶えてくれる。それに甘えてよいのかわからず、ゼジッテリカは唇を震わせた。

 視界が歪んで、涙がこぼれ落ちた。悲しいのはシィラの方であるはずなのに、何故自分が泣いているのだろう。そう疑問に思っても、溢れ出す何かを止めることができなかった。

「リカ様はお優しいですね。大丈夫。お母様もお父様も悲しくなんてないですよ。きっと心配しているだけです」

 ぐずぐず鼻をすすっていると、背中を撫でられる感触がした。その優しさがますますゼジッテリカを弱らせる。泣いてもいい場所なのだと告げられるようで、我慢できなくなる。

 自分はずっと、不安だったのだとわかった。誰の役にも立たない小さな子どもが残されてしまった現状を、周りがどう思っているのか。自分を残していった父と母が何を思っていたのか。ずっと気になっていた。

 それなのに誰もが取り繕った言葉しかくれない。ファミィール家の娘の機嫌を損ねないようにとしか、考えていない。だから苦しかった。

「リカ様を愛しているから、心配していたんです。この人形もそうでしょう? リカ様はもっと自信を持っていいんですよ。愛されていたって信じていいんですよ」

 どうしてシィラはこんなに真剣な言葉をくれるのだろう。母がここにいたら同じようなことを言ってくれるだろうか? 浮かんでは消えていく疑問に答えが出せず、ゼジッテリカは唇を引き結んだ。

「今はわからないかもしれませんが、きっとわかる日が来ます」

 そう告げたシィラの手がそっと離れていった。人形を抱きしめたまま、ゼジッテリカはゆっくり面を上げる。涙で歪んだ視界の中でも、シィラが微笑んでいることは確信できた。

「ひどい顔になってしまいましたね、すみません。ちょっと早い時間ですが、お風呂にしましょうか」

 そう続けたシィラは、途中で何かに気づいたように眉根を寄せた。そしてかがめていた腰を伸ばしながら小首を傾げる。

「そういえば入浴の件の確認がまだでした。テキア様、何か考えてくださってますかね……」

 顎に手をあてて考え込むシィラを、ゼジッテリカはじっと見上げた。どうしたらシィラのような人間になれるのだろう。一番の疑問はその点かもしれなかった。




 屋敷の外には、急遽作られた見張り小屋が存在している。屋敷外の護衛たちの簡易休憩所ともなっているそこで、マラーヤは地図を広げながら唸っていた。

 護衛の人数は減る一方。その状況でこれだけ広い屋敷を見張るのは至難の業だ。屋敷を覆ってしまうだけの結界が張れたら話は早いのにと思ってしまう。もっとも、それを四六時中続けられる技使いなどいないのだが。

「ギャロッドさんは夜の警備を重点的にって言ってたけど……」

 呟いた声は、狭い小屋の中にすぐさま溶け込む。話しづらいのは、机を挟んだ向かいにいるのがあのアースだからだ。

 黒ずくめの服に、赤の布が差し色となっている、無愛想な男。実力だけは飛び抜けた男。彼と言葉を交わすことを考えるだけで気が重くなる。

 助け船となってくれそうなギャロッドが、今はちょうど巡回に出てしまっている。ギャロッドが戻ってくるまでは、気弱な若者たちとマラーヤ、そしてアースしかここにはいない。苦痛な時間だった。

 マラーヤはちらとアースの方を盗み見た。腕組みしてじっと地図を睨み付けている彼の、左手をどうしても注視してしまう。

 シィラが治したはずの傷は、見ただけではわからないほどになっている。治癒の技というのは実はなかなかに高度だ。特に他人を癒やすとなると難しくなる。それを難なくやってのけたシィラは、どうもあらゆる技を使いこなせるように見えた。

「何だ?」

 と、見られていることに気づいたらしい。顔を上げたアースが、不機嫌なのを隠そうともせず問いかけてきた。ここで喧嘩を売るべきかどうか逡巡しつつ、マラーヤは右の口角を上げる。

「いや、別に。シィラはすっかり傷を癒やしちゃったんだなと思ってね」

 正直に告げれば、アースは片眉を跳ね上げながらも左手へ視線を落とした。彼の気に不満足な色がないことは明白だった。やはりシィラの技は完璧だったに違いない。

「必要ない程度の傷だがな」

「内輪もめの証拠残しても仕方ないでしょ」

 そうマラーヤが指摘した時だった。小屋の戸を叩く音が響き、若者の一人が飛び跳ねるようにそちらへ向かった。この空気から逃れる好機だと思ったのかもしれない。

「あ、リリー」

 開けられた扉から顔を出したのはリリディアムだった。鳶色の髪をなびかせて颯爽と入室したリリディアムは、マラーヤの横を通り過ぎて真っ直ぐアースの方へと向かう。

「はい、アース様、指定されていた資料です」

 そして抱えていた紙束をアースへと手渡した。マラーヤに渡さなかったのは意図的だろう。思わず大仰に嘆息したくなった。どうして誰も彼もこんなところで色恋に花を咲かせようとするのか。

 ――もっとも、技使いたちが高揚してしまう気持ちもわからないわけではない。普段、実力のある者同士が顔を合わせる機会などほぼない。これだけ大規模な依頼でもなければ、技使いは一人で十分だ。

 気の感じ方。技の使い方。気の把握を前提とした思考の仕方。そういった「当たり前」を共有できる者が側にいるというのは、想像していた以上に心地よいものだ。

 マラーヤとて、性格の合わないリリディアムとでさえも、会って話をするのが楽しいと感じてしまうくらいには。

 うっかり何かを間違えれば、運命と思ってしまう相手とも出会うかもしれない。こんなに話が通じる相手は初めてだと、思ってしまうかもしれない。

「わかった。ギャロッドに渡しておく」

 書類を受け取ったアースは素っ気なく答えた。それでも男性に対する態度よりはあたりが弱いような気がする。マラーヤは再びため息を飲み込んだ。

 なるほど、リリディアムが勘違いする理由も朧気につかめた。あれでは、自分は特別だと思うかもしれない。

「罪ねぇ」

 マラーヤは口の中だけで囁いた。愛に飢えた者たちが目的のために集まって傷をなめ合う光景は、端から見れば滑稽であろう。

 それでも技使いにとって、心を保つことは重要だ。技を使うための精神は、放っておいても回復しない。喜びや楽しさ、安堵といった感情が必要だ。誰だって愛が欲しい。

 だからこそ皆がシィラを気にしているのだろう。彼女は分け隔てなく愛を振りまく。当たり前のように笑顔を向け、手をさしのべてくる。彼女の気は透明で純度が高くて温かい。あれを無視できる技使いはいない。

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