第16話 許されざる感情

「あの、そういった質問は……」

「女性には失礼でしたでしょうか? しかし他の護衛たちも気にしておりましたよ。あなたのような美しい方を、若い殿方たちが放っておくわけはないかと思いますが」

 よどみのないバンの言葉に、シィラは困惑の声を漏らしていた。ゼジッテリカはいたたまれなさを覚えつつスプーンを持ち直す。バンのわざとらしい乾いた笑いが、室内に響いた。

 シィラを助けたいとは思うが、その方法が思いつかなかった。以前のでは駄目だろう。しかしだからといってテキアがどうにかしてくれるとも思えなかった。彼は完全に沈黙を守っている。

「私は流れの技使いですから。ですからそのような決まった方、というのは特に」

「おや、それはもったいないですね」

 無難に乗り越えようとしたシィラへ、バンは心底恨めしそうな顔をした。流れの技使いというのは、定住せずに依頼を請け負いながら旅をする技使いのことを指すらしい。先日シィラが教えてくれた。

 確かにそれならば恋人や家族を作るのは難しいかもしれない。一緒に旅をする人でなければ無理だろう。だからシィラはこんなに綺麗なのに一人なのかと、ゼジッテリカは勝手に納得した。

「そういえばテキア殿も、決まった方がいらっしゃらないことで有名ですよね?」

 ついでバンは突としてテキアへと話しかけた。食事を再開しようとしていたテキアは、再び手を止めて顔をしかめる。どきりとしたゼジッテリカは、内心であたふたしながら視線を下げた。

 その話題については、あえて誰も触れていなかった。以前に父がこぼしていたのを盗み聞きしてしまったこともある。ファミィール家にとっては大きな問題だが、誰も踏み込めないところでもあった。それが何故なのか、ゼジッテリカは知らない。

 緊張感から逃れたくて、ゼジッテリカはスプーンをむやみに動かす。かちゃかちゃと鳴る食器の音が、奇妙な静寂を強調するかのようだった。行儀が悪いのはわかっているが、それでもどうしたらよいのかわからない。

「――家の再興がありますから、今はそれどころでは」

「しかし再興するならばやはりファミィール家を盛り立てるのも必要なのでは? あなたとゼジッテリカ様だけではやはり心許ない」

「それは、確かにそうですが」

 言葉を濁すテキアへと、バンはさらに切り込んでいった。使用人たちも、ファミィール家を支える者たちも、誰も口にできなかった話に突っ込んでいく。これはきっとバンにしかできない芸当だ。

 事実がわからないから、噂ばかりが流れていた。テキアが結婚しないのは、許されない恋をしているのだとか、実は女性が嫌いなのだとか、皆は影であれこれ言っていた。

 それが途絶えたのは父サキロイカの容態が悪くなってからだ。絶望的な予測が現実味を帯びてきたところで、大人たちはその話題を口にしなくなった。

「しかし、今優先すべき話ではありません。その辺については、この件が終わったら考えます。今はこの命を守ることの方が大切です。それに守る対象を増やすのは、護衛の観点からも問題だと思ってます」

 テキアはわずかに肩をすくめた。そう言われて、なるほどとゼジッテリカは相槌を打つ。ファミィール家の人間が狙われているというのに、対象となる人間を増やすのは危険な行為でしかない。まずはこの事件を解決することが先決だ。

 そう考えると何故だかほっとして、ゼジッテリカは一口スープをすくった。じっくり煮込まれた野菜の味が染みた優しいスープは、ゼジッテリカの好物の一つだ。だから辛い時にはよく料理長が作ってくれる。

「ではシィラ殿はいかがですか?」

「……は?」

 バンはにやりと笑った。テキアにすげなく断られたというのに、全くめげていなかった。いや、めげないどころかとんでもない提案をしてきた。何がとんでもないのかうまく説明できないが、バンの怪しい双眸がゼジッテリカにそう確信させる。

「それはどういう意味ですか?」

 テキアは少しだけ頭を傾けると、その背後のバンを見ようと首を捻った。その切れ長の瞳には純粋な疑問が宿っているように見える。

「ちょっとバンさん」

 しかし当のシィラは違ったようだ。彼女の慌てる気配が、背中越しに伝わってくる。何を言われたのかわかったらしい。ゼジッテリカは瞬きをし、頭上を見上げようとした。

「どうしてそこで私の名前が出てくるんですか?」

「いや、お二人とも特定の方がいらっしゃらないというので。それにシィラ殿なら護衛を増やす必要もないでしょう。どうです? 悪くない話だと思いますが」

 シィラとバンの会話を脳裏で繰り返したところで、ゼジッテリカははっとした。ようやくバンが何を言わんとしたのか理解した。理解した途端に動揺して、思わず周囲をきょろきょろと見回してしまう。

 その可能性について考えてみたこともなかった。テキアはシィラと結婚することができるのか。もしも、もしも現実になれば、素敵なことだった。

 シィラがずっとこの屋敷にいてくれるなんて夢のようだ。一人ではない生活が、平和になってからも続く。こんな幸せがあるだろうか。

 ゼジッテリカは思わず頬を緩めそうになった。かろうじてそうせずにすんだのは、困惑したテキアの顔が目に入ったからだ。眉根を寄せたテキアは嘆息し、フォークを置く。

 ゼジッテリカは口をつぐんだ。胸の裏側がずきりと痛むような心地がした。またテキアに迷惑をかけるところだった。テキアはゼジッテリカには優しい。ゼジッテリカの願いならできる限り叶えてくれようとする。

 けれども、そのせいでテキアが困るのは嫌だ。

「そんな、テキア様に失礼です。私のような者では、テキア様には不釣り合いですよ」

 あらゆる音が遠ざかっていくような気分になっていると、穏やかなシィラの声が鼓膜を震わせた。幾分か落ち着きを取り戻したらしい。ゼジッテリカは一度固くまぶたを閉じてから、もう一度テキアとバンの方を見る。

「おや、そうですか? しかしゼジッテリカ様も懐かれているようですし。その方が今後のためにもよいかと思ったのですが。あなたのような強くて美しい女性がいれば、テキア殿も心強いことでしょう」

 バンは悪びれた様子もなくそう言ってのけ、ゆったりとした袖をひらりと振った。どうやらバンは誰かを動揺させるのが好きらしい。ゼジッテリカにもそれがようやくわかってきた。

 確かにバンの言う通り、シィラがファミィール家に入ってくれるのは嬉しいことだし、頼もしいことだ。しかしそのために誰かを犠牲にしたくはない。

 もっとも、シィラはともかくとして、テキアは割と彼女を気に入っていると思っていたのだけれど。それでも結婚を考える類のものではなかったらしい。そういう機微は、まだゼジッテリカにはよくわからなかった。

 しかしこのバンの発言が奇妙な亀裂を生みかねないものだったことは理解できる。

「――考えておきます」

 すると一言、顔を上げたテキアがそう口にした。途端、バンは間抜けなほどに目を丸くした。虚を突かれたのは明白だった。バンはテキアを穴があくほど見つめてから、ついでゼジッテリカの後ろ――おそらくシィラへと目を向ける。

 今シィラはどんな顔をしているのだろう。何故かゼジッテリカは全身から血の気が引く思いがした。シィラの反応が気になるけれど確かめたくない。わずかな希望をここで打ち砕かれたくなかった。

「あ、あの、テキア様……?」

「そんなに驚かないでください、シィラ殿。冗談ですよ。この家のことをそう軽々と誰かに押しつけるつもりはありません。心配なさらないでください」

 と、ふわりとテキアは破顔した。いつになく穏やかな微笑だった。その事実に、ゼジッテリカの心はまた揺さぶられる。

 テキアが冗談を言うことなどあっただろうか? 本当はテキアはシィラのことが好きなのではないか? いや、ゼジッテリカがそう思いたいだけなのか?

 皆は互いにどの程度本気なのかわかっているのだろうか。気が感じられる人間になりたいと、ゼジッテリカは切に願った。そうすればこのように混乱することもないのか。

「いえ、あの、心配しているわけでは……」

「いい話だと思ったんですがねぇ。テキア殿も、実はまんざらでもないのでは」

「バン殿、これ以上その話題は。ゼジッテリカも困っています」

 戸惑うシィラやバンに対して、テキアは涼しい顔でそう告げた。そして優雅に食事を再開する。

 ゼジッテリカも黙々とスプーンを動かした。スープをすくっては口へ運ぶという単純な動作を、無言で繰り返す。じっくり煮込まれたはずのスープが、突然味気なく思えてきた。

 魔物を倒したら、事件が解決したら、シィラはいなくなる。賑やかなこの屋敷も元の静けさを取り戻す。その事実をまざまざと突き付けられたようで、あらゆるものが色を失ったように感じられた。

 狙われている恐怖に、誰かが命を落とす罪悪感。今まで経験したことのない感覚に振り回されているが、それより最も恐ろしいのは、一人に戻ることだ。

 命の危険がなくなれば、またひとりぼっちになる。テキアは相変わらず忙しいだろうし、シィラはどこかへ行ってしまう。この屋敷はゼジッテリカと使用人たちだけになる。

 そんな未来を想像しただけで、体が冷たくなった。魔物の襲撃を乗り切ることばかり考えていたら、気づかなかったかもしれない。

「もうぶしつけな質問は控えてください、バン殿」

「いやいや、申し訳ない。気になっていたものでして。大丈夫ですよ、テキア殿。他言はしませんから」

「当たり前です。ゼジッテリカのことも考えてください」

 テキアとバンのやりとりも、すぐにゼジッテリカの耳を通り抜けていった。じくじくと喉の奥が痛んでいる。ゼジッテリカはつい手を止めてしまいそうになるのをどうにか堪えた。

 ゼジッテリカの気持ちは、どれだけ彼らに筒抜けなのだろう。薄暗い感情までばれてしまうのだろうか。そう考えると顔を上げることもできなかった。シィラの顔を確かめることも、無論できなかった。




 食事を終えて散歩をし、部屋に戻ってきたゼジッテリカは、すぐさまベッドの上に腰を下ろした。そして座らせたままだった人形を手元に引き寄せる。

 何か嫌なことがあった時、不安なことがある時、言いたいことが言えない時、いつも人形を抱きしめた。ゼジッテリカと同じ金髪に青い瞳の、ゼジッテリカよりも長い髪の人形。母の思いが詰まったプレゼントだ。

 人形を抱きしめそっとその髪を撫でると、シィラの手つきが不意に思い出された。あの優しい手に髪を梳かれた時の心地よさに、胸が締め付けられる。

 いつの間に慣れてしまったのだろう。誰かとずっと一緒にいるなど信じられなかったのに、今はシィラがいなくなる未来が怖くて震えている。

 ゼジッテリカはおずおずとシィラの様子をうかがった。中庭を散歩中に風にあおられた髪を、シィラは結い直している。そんな何気ない仕草も綺麗なのだから、バンがあのように言うのも頷けることだった。

 たぶん、テキアはシィラのことが嫌いではない。だがシィラはどうだろう。シィラはテキアのことが嫌いなのだろうか? そのようには見えなかったが、シィラにとってのテキアは依頼人だ。否定するような言動は普通しないだろう。

 ――こんなに気になるなら、あの時に尋ねてみればよかったのだ。子どもの純粋な疑問を装って、確かめたらよかったのだ。せめてあの時シイラの顔を見ておけばよかったと、今さら後悔した。

 どんなことでも気軽に口にしてしまうというのは、一種の才能なのかもしれない。そういう意味ではバンはすごい。奇妙な恰好をしているのも酔狂ではないのだろう。

 きっとバンはどのように思われても平気なのだ。それだけ自信があるに違いない。ゼジッテリカはそう確信した。

 それでは何故自分は聞けないのか。ゼジッテリカは自らに問いかけてみた。困らせるのが嫌だから。どうしようもない子だと思われるのが嫌だから。――嫌われたくないから。

 じくりと胸が痛んだ。大人たちの陰口を思い出すと、どうしようもなく辛くなる。

 しかし、シィラは彼らと違うはずだ。繕いながら近づいて、期待したものが得られずに密かに罵ってくる大人たちとは違う。疑問を口にしただけで、ゼジッテリカを嫌いになるだろうか?

「そんなことないよね」

 ゼジッテリカは小さく口の中だけで呟いた。シィラは駄目なことははっきり駄目だと言ってくれる。勝手に失望したりしない。

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