第15話 あなたを知りたい

 テキアの部屋は何故か落ち着く。あらためてそんな実感を覚えながら、ゼジッテリカは足をぶらぶらと揺らした。大きなソファに勢いよく腰掛けると、その反動で足がふわふわと揺れる。この感触が好きだった。

「テキア叔父様、遅いね」

 それでも一人であれば心細かっただろうが、今は違う。傍にはシィラがいた。テキアの部屋に通されてからというもの、彼女は時折興味深そうに本棚をのぞいていた。

 テキアは博識だから、きっと簡単には手に入らないものが置いてあるのだろう。きっとまだゼジッテリカには理解のできない難しい本だ。

「そうですね。きっとお話が長引いてるんですね」

 つと振り返ったシィラは苦笑を浮かべる。ここに通されてからどのくらいの時間が経ったのか、ゼジッテリカは時計を持っていないので正確なところはわからない。しかし先ほどから空腹を覚えるようになったから、それなりの時間は経っているはずだ。

 護衛たちは定期的に集まって会議をする。本来ならば直接護衛であるシィラもそこに加わるはずらしいが、ゼジッテリカがいるためそこから省かれているようだった。

 それでも情報は必要だろうということで、こうして時折テキアから直接話を聞くことになっている。が、今日はどうやら会議に時間がかかっているらしい。

「それって昨日の騒ぎがあったから?」

「そうかもしれません」

 ゼジッテリカは顔を曇らせた。大人が本気で争っているのを見るのは初めての経験だった。人間があれほど素早く動けるのだというのを知ったのも、初めてだった。

「すごかったよね」

 恐怖よりも驚きの方が強かった。武器を持った相手にも怯まず打ち倒してしまう人間がいるとは。それと同時に、技使いといっても強さにはずいぶん違いがあるのだともわかった。

 では、シィラはどのくらい強いのだろう。そして、テキアはどれだけの力を持っているのだろう。

 その疑問を口にしてよいのかどうか逡巡していると、扉を軽く叩く音がした。この静かながらも重い音はテキアだ。ゼジッテリカはぴょんと椅子から飛び降りる。

「テキア叔父様!」

 ゆっくりと開く扉から顔を出したのはテキアだ。続いて、あの怪しいバンも姿を見せる。今日は緑色の長衣を身につけ、胸の前で緩く髪を編み込んでいた。風変わりなことに変わりはないが。

「お待たせしました、シィラ殿。ゼジッテリカも、退屈しなかったか?」

「うん! シィラがいたから大丈夫」

 ゼジッテリカは両手を振り上げる。最近は人形を連れ歩かなくてもすむようになった。それが寂しいことなのかどうかゼジッテリカには判断できない。けれども母の人形が大切なものであることには変わりない。そう思えるようにはなった。

「何かありましたか?」

「マラーヤ殿には正式に屋敷外護衛に回っていただくことになりました。その代わり、ケレナウス殿を屋敷内の方に」

 神妙な顔をしたテキアは、ゆっくりと机に近づいた。その姿を目で追いながらゼジッテリカは唇を引き結ぶ。マラーヤというのはあの赤毛の大柄な女性だ。最近たまに言葉を交わすようになったばかりだったのに。

「そうでしたか。……そうなると、入浴の時が困りましたね」

 小首を傾げたシィラは小さくそうこぼした。入浴中はどうしたって無防備になるからと、その間だけマラーヤが代わりに護衛についてくれていた。だからマラーヤとも話す機会が増えた。だがマラーヤが屋敷の外に出るようになれば、もうそれは無理だろう。

「ああ、その点については失念していましたね。すみません、考えておきます」

 はっとしたようにテキアは首をすくめ、机の上を指先で叩いた。テキアでさえも、女性が少ないという問題をしばしば忘れてしまうようだ。それだけ忙しいということもあるだろう。

「よろしくお願いします」

 一礼したシィラはふわりと微笑んだ。この笑顔を見上げている時間が、ゼジッテリカは好きだ。しかしよいことばかりでもない。ふと視界に入ったバンのねっとりとした笑みに、すぐに現実を思い出した。

「なるほど、女性はそういう点が困るわけですな」

 深々と相槌を打つバンが何を言い出すのか、ゼジッテリカはひやひやとした。相変わらず怪しい男性だ。テキアはずっと彼と一緒にいて疲れないのだろうかと心配になる。

「いっそゼジッテリカ様と一緒に入られては?」

「バンさん、それではいざという時にリカ様を守れません」

 ひらりと腕を振ったバンへ、シィラは困ったような笑みを向けた。だが一緒にという響きがゼジッテリカの胸を打つ。ぐらぐらと頭を揺さぶられたような気分だった。

 湯を浴びるときはいつも一人だ。小さな頃は母が一緒に入ってくれたが、母がいなくなってからは一人きりだった。使用人が手伝ってくれることはあれども、一緒にというのとは違う。

「おや、そうでしょうか。シィラ殿ならどうにでもなるかと思ったのですが」

「ですから買いかぶりですよ、バンさん。あなたは私に何を期待なさってるんですか」

 肩をすくめるシィラへと、バンは大きく一歩近づいた。その様子に、ゼジッテリカの鼓動は跳ねる。どうしてこの怪しい男はシィラにこうもかまいたがるのだろう。止めて欲しい。

「わかっていらっしゃるのに尋ねてくるとは、シィラ殿も意地が悪いですな。あなたを知りたくなるのは当然のことでしょう? あなたの知識を、力を、心を知りたいと思うのは、私だけではありませんぞ」

 ゼジッテリカがそわそわしていると、バンの大きな手のひらがシィラへと向けられた。楽しげな笑い声と共に吐き出された言葉は、またもやゼジッテリカの頭を揺さぶる。

 シィラを知りたい。それはゼジッテリカの内にもある感情だ。

「ねぇ、テキア殿」

「バン殿、その辺にしてください。肝心の話ができなくなります」

 バンがひらひらと手を振ると、ゆったりとした袖が揺れて衣擦れの音を立てた。そんなバンの視線を受けながら、テキアはため息を吐く。「私だけではない」というのはテキアのことを指していたのか。

 何だか奇妙な気持ちになりながら、ゼジッテリカはテキアの顔を見上げた。どこか呆れたような、困惑したような目をしたテキアは、あえてシィラを見ないようにしているようだ。

「おやおや、気分を害してしまいましたかな。しかしこれだけ透明で美しい気の持ち主が、気にならない技使いなどいますまい。惹かれるのが当然でしょう。この気が濁る瞬間を想像するだけでぞくぞくします」

 軽快に話すバンは心底楽しげであった。何かひどいことを言っているような気がするのだが、それがどうひどいのかゼジッテリカにはうまく飲み込めない。わかるのは、テキアが困り果てていることだけだ。

「これ以上護衛同士の諍いを起こさないでください」

 忠告するテキアの声が低くなる。昨日の戦闘を、またゼジッテリカは思い出した。魔物が姿を見せるよりも先に護衛たちの仲違いの方が進行しそうだ。

「相手の出方がわからず困っているところ、自壊する必要はないでしょう」

 テキアの表情がわずかに険しくなった。それにはさすがのバンもまずいと思ったのか、取り繕うよう咳払いする。バンがどこか気まずそうにしているのを見ると、彼も人間であったのだとようやく気づかされた心地がした。

「そうですな。確かにこのところの魔物の動きはおかしいですし。シィラ殿、どう思われます?」

 すぐさまバンは話の矛先をシィラへと向けた。ゼジッテリカには逃げたようにも思えるが、内容は真面目だったので誰も指摘するつもりはなさそうだった。シィラは小さく唸りながら、細い顎に指先をそえる。

「――魔物も、何かを警戒しているように思えますね。彼らが精神を集めているらしいというのは、バンさんもお気づきでしょう? ですがその際も、やけに慎重です。まるで誰かに見つかるのを恐れているかのようです」

 どこか言葉を選ぶような調子で、シィラはそう意見を述べた。ゼジッテリカには意外な指摘だった。が、それはバンも同様だったらしい。興味深そうな声が、室内に響く。

「ほほう、魔物にも天敵がいると? それは興味深い解釈ですな」

「今まで人々を狙っていた時も、表だっては動いていませんから。少なくとも目立ちたくない理由はあるのでしょう。もしかすると彼らは本格的な戦闘は避けたいのかもしれませんね」

 楽しげに笑うバンへと、シィラは神妙な視線を向けた。バンの言動は今までとあまり変わりがないように感じられるのに、それでも真面目に議論していることはわかる。

 バンも、直接護衛に選ばれるだけの技使いなのだ。そのことをようやくゼジッテリカは実感した。

「ああ、やはりあなたの知識、思考は素晴らしい。もっとお話を聞きたいですな」

 が、続くバンの言葉には得体の知れぬねっとりとした空気が纏わり付いていた。ゼジッテリカの背筋をぞくりと撫で上げる、不快な空気だ。やはりバンは危険だ。

「しかしバン殿、ゼジッテリカはそろそろ食事の時間で……」

 そう思ったのはゼジッテリカだけではなかったようだ。バンの言葉を制したテキアが、切れ長の瞳をさらに細める。するとバンはテキアの方へ向き直りつつ、長い袖を口元へ持って行った。

「確かにそんな時刻ですね。ならばテキア殿もご一緒したらどうですかな? 今日はまともに食事もとられていないでしょう」

 くすりと笑い声を漏らしたバンを、ゼジッテリカは凝視した。まさかバンがそんな提案をしてくれるとは想像もしなかった。ついつい心が飛び跳ねて、うわずった声が漏れる。

「え、テキア叔父様も一緒に食べてくれるの!?」

 どんなにお願いしても、シィラは一緒に食事をとってはくれない。護衛だから仕方がないのだが、寂しいことだった。バンが一緒についてくるだろう点は気がかりだったが、それでも嬉しい。

「……わかりました。では使用人に伝えましょう」

 すると観念したようにテキアはそう告げた。その横顔を見遣り、ゼジッテリカははっとする。テキアに迷惑をかけてしまったのではないか? じわりと居心地の悪さが胸の中に広がった。

「ではシィラ殿、先にゼジッテリカと食堂に向かっていてください。私もすぐに向かいますので。話の続きはそちらで」

 テキアの淡々とした声が室内に染み入る。ゼジッテリカはぎゅっと両の拳を握った。



 異様な雰囲気の食堂というものを、ゼジッテリカは初めて経験した。護衛たちがやってきてからというもの、初めてのことばかりだ。

 使用人たちがいなくなると、ますますぴりぴりとした空気が肌に纏わり付く。向かいの席に着いたテキアはゆったりと食事を開始したが、ゼジッテリカにはとてもそのような気分にはなれなかった。

 まず、バンの姿がすぐ目に飛び込んでくるのがいけない。テキアの背後に控えた怪しい男が目に入らぬよう、いつも注意しなければならなかった。

「ところで先ほどの話ですが。シィラ殿はずいぶんと魔物にもお詳しいようですね」

 食器の鳴るかすかな音が続くと、耐えかねたようにバンが沈黙を破った。まだシィラに聞きたいことがあるらしい。

 ゼジッテリカは振り向くわけにはいかなかったから、シィラがどんな顔しているのかは確認できなかった。こういう時、技使いであれば『気』で何かがわかるものなのだろうか。

「まあ、それなりには。それに、知り合いに詳しい方もいるので」

「ほう、それはずいぶん博識なご友人ですな。それなのにこの依頼は受けていらっしゃらないのでしょうか」

 バンの口調は楽しげなのに、その発言にはどこか棘があるように思えるのは何故だろう。スプーンを持つゼジッテリカの手に力が入った。スープの味もあまり感じない。

「バンさん、何が仰りたいのですか?」

「そのままですよ。こちらの言いたいことなどおわかりでしょうに」

「――バン殿」

 空気がますます張り詰めたところで、テキアが鋭く口を挟んだ。また同じことの繰り返しだと思ったのか。するとバンは笑い声を漏らしつつ、大仰に相槌を打つ。

 ついその顔をまじまじと見てしまい、ゼジッテリカは絶句した。眼鏡の奥の眼光の鋭さに、首筋も喉の奥もひんやりとする。自分に向けられた眼差しではないのに、まるで睨まれているかのようだった。

「そのくらいにしてください」

 テキアの冷たい声が、天井の高い部屋によく響いた。あまりゼジッテリカの前では見せることのない、仕事用の顔と声だ。だがバンは動じる様子もなく、大袈裟に肩をすくめた。そして少しだけずれた眼鏡の位置を正す。

「これは申し訳ありませんでした。ゼジッテリカ様もいらっしゃいますし、穏便にですね。では話題を買えましょうか。シィラ殿には恋人はいらっしゃらないのですか? まだお若い方のようにお見受けしますが」

 しかし次にバンが選んだ話題というのは、さらにゼジッテリカの食事の手を止めるのに十分な力を持っていた。思い切り息まで止めてしまった。スプーンを落とさずにすんだのがせめてもの救いだ。

 動揺から視線を彷徨わせると、向かいのテキアも何故か不自然な体勢で硬直していた。この話題を止めるべきか否か逡巡しているのかもしれない。

 では背後のシィラはどんな顔をしているのだろう? ゼジッテリカは振り向きたい衝動を抑えた。

 シィラについて、ゼジッテリカは何も知らない。ずっと一緒にいるというのに、絶えず話をしているというのに、シィラ自身については何も聞いていなかった。

 シィラを知りたいと思うのは、自然なことなのだろうか。失礼なことではないのか。バンの言動とテキアの声を思い出し、ゼジッテリカは混乱する。

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