第18話 たゆたう思い出
「ええ、宜しくお願いします。アース様」
相好を崩したリリディアムを横目に、マラーヤは首をすくめた。アースはぴくりとも表情を変えなかったが、それでもリリディアムは満足したようだった。
「それでは」
踵を返したリリディアムは、マラーヤへと一瞥もくれなかった。アースの傷をシィラに任せた件をまだ根に持っているのかもしれない。機嫌を損ねたリリディアムは面倒なのだ。
「おい、マラーヤ」
「……え?」
扉が閉まるか閉まらないかという時に、アースが突と顔を上げた。今の声はリリディアムに届いているだろうか? そんなどうでもよい疑問が脳裏をよぎり、一瞬返事が遅れてしまった。
慌てて視線を向ければ、アースは不機嫌そうに顔をしかめている。ぼんやりするなとでも言いたいのか。その鋭い眼光に見据えられ、マラーヤは息を呑んだ。
「屋敷外の護衛を実力順に並べて出せ」
どんな叱咤が飛んでくるかと思えば、アースは抑揚の乏しい声でそう告げた。何を言われたのか飲み込めずにマラーヤは眉根を寄せる。話の流れが掴めない。いきなり何なのか。
「……は? 何であたしが」
「お前が来たんだから配置の見直しだ。お前の目から見て出せ。ギャロッドの目は当てにならん。あいつは甘い。すぐにどうでもいい情報を加味する」
真顔で断言するアースに、マラーヤは咄嗟に言い返せなかった。確かに、配置のことでギャロッドは悩んでいたが。まさかそれからずっと考えていたのか。
ギャロッドは真面目で律儀な性格ではあるが、甘さを捨てきれないところはありそうだった。ケレナウスの一件でマラーヤも身に染みた。
「じゃああんたが判断すればいいでしょ」
「弱い奴の区別はつかん」
しかしそこまで言うならアースが見極めたらいいだけの話だ。そう言い捨てみれば、彼は悪びれた様子もなく言い切った。どこまで強気で失礼なのかと、マラーヤは眉をひそめる。
意趣返ししたいというほど自分が何か不利を被ったわけではなかったが、それでもちくりと刺してやらなければ気が済まなかった。これ以上好き勝手言われても困る。
「強い奴ならどちらが強いかわかるっていうの? ずいぶんと傲慢ね。なら、あんたは、直接護衛のバンさんとシィラ、どっちが強いと思う?」
ふと思いついたのはそんな疑問だった。「弱い奴なら」と言うなら、ある程度以上の者は区別ができるというのか。それだけの実力が自分にあるというのか。
単純に、誰がどのくらい強いのか気になるというのも、問いかけた理由の一つだ。この不遜な男の目には一体どのように映っているのだろう? するとアースは軽く鼻を鳴らした。
「愚問だな。明白だろう」
「へぇ?」
「護衛で一番強いのはあの女だ。それは間違いない」
即座に返ってきたのは予想外の言葉だった。アースは何ら躊躇することなくそう断言した。思わずマラーヤは眼を見開く。まさか傷を治してもらったから贔屓しているというわけでもないだろう。彼はそのような性質の人間には見えない。
「間違いない……の?」
「わからないならお前の目も節穴だな。気を抑え込みながら必要最小限の技をあれだけ精密に生み出す奴など化け物じみている。そこらの魔物以上だ」
低い声で淡々と言い放つアースを、ついマラーヤはねめつけた。自分自身が疑われているような状況で、まさかそんな発言をするとは。一体どういうつもりなのだろう。若者たちの間にもさざめきが広がっている。
「あんたまでシィラが魔物だって言いたいわけ?」
「そんなことは誰も言っていない。勘違いするな。比べろと言ったのはそっちだろう」
マラーヤは釘を刺したつもりだったが、アースには通じなかった。何が不満なのかと言いたげなアースに、マラーヤは閉口する。彼の感覚ではそうらしい。シィラの結界が精密であるのは、先日の一件で間近で感じたからわかるのだが。
しかし、それと実際の実力の上下は直接は繋がらない。やはり最終的にはどれだけの技を、どれだけの時間使えるのかが決定打となる。体力的な面がどうしても女性の方が不利だった。
だからリリディアムは直接的な戦闘を必要としない依頼を請け負う道を選んだ。マラーヤは体を鍛えながら、人が面倒がるような複雑な技の鍛錬を続けた。女が流れの技使いとして生き残る方法は少ない。
「あの女のとんでもないところは精神量だ。底が知れない。あれだけあれば、何の躊躇もなく技を使い続けられるだろう」
わずかに肩をすくめたアースは、ついで話は終わったとばかりに地図へ視線を戻した。再びマラーヤは絶句する。
信じられなかった。たったあれだけ、近くに寄っただけで相手の精神量までわかるというのか? 技を使えば精神を消費する。だから精神量はどれだけの大技をどの程度使えるのかを左右する大きな要素だ。しかし、通常他人の精神量などわかるものではない。
――これだから、魔物なのではと恐れられるのか。この世界にはまだマラーヤが思っている以上の実力者がいるらしい。
「無駄話が過ぎたな。だから弱い奴らの方はお前が考えろ。弱い奴にせめて少しでも強い奴をあてがわないと、護衛の意味がない」
地図を睨みながらアースは付言した。何と返すべきかわからず、マラーヤは耳の後ろを掻く。これで見当違いなことばかり言っているなら無視できるのだが。
「わかったわよ。やればいいんでしょ」
こんな提案を受け入れるのも、依頼を全うするためだ。そう自分に言い聞かせ、マラーヤはそっと瞳をすがめた。
一人ではないお風呂というのは久しぶりで、ゼジッテリカはかなり舞い上がっていた。広い風呂場もいつもはただ寂しく感じられるだけだが、今日は何だか華やかに見える。
シィラとお風呂に入る。そんな夢のような出来事が現実になったのは、テキアとバンのおかげだった。入浴の際の護衛問題について確認しに行ったところ、再びそのような提案が飛び出してきた。
『今日すぐに代わりの者を手配をするのは難しくて』
申し訳なさそうに告げたテキアの横からバンが首を突っ込まなければ、今頃どうなっていたことだろう。バンはその間は自分が代わりに見張ると申し出てきた。もちろん、テキアが側にいるという条件付きだ。
怪しくて恐ろしい人間には違いないのだが、今回ばかりはゼジッテリカも感謝していた。そう思いながら天井を見上げると、跳ねる湯の音が反響して鼓膜を揺らす。
淡く光を反射する黄蘗色の壁や天井も、いつもと同じようには見えない。ゼジッテリカは名も知らぬ歌を口ずさんだ。室内を満たす白い湯気が、体も心もさらにあたためていく。
一人きりの寂しさをごまかすための、お気に入りの花の香りも、今日ばかりは別格だ。先ほどあれほど泣いたのが嘘のようだった。
「リカ様、頭を動かさないでください。髪が洗えません」
「あ、ごめん」
苦笑交じりの注意に従い、ゼジッテリカは慌てて前を見た。甘えついでに髪を洗ってもらうおねだりが成功したので、すぐ背後にシィラがいる状態だ。それなのに嬉しくてついつい落ち着きがなくなってしまう。
「謝らなくてもいいんですが、でも危ないのでね」
止まっていたシィラの指が動き出した。その優しい手つきが気持ちよくて、ついつい笑い声が漏れそうになる。頭の中も体もふわふわとしてきた。
『頭を動かしては駄目よ』
同時に、もっと小さい頃に母にも同じように注意されたことを思い出した。
記憶は薄らいでいるのではなく、しまわれているだけなのかもしれない。嬉しかった出来事が現実の辛さを強調しないように、隠されていただけなのかもしれない。
ゼジッテリカは目を瞑る。こうしていると、本当に母と一緒にいるような気分になる。おそらくシィラの姿が見えないからだろう。頭に感じる指先の動きと湯気と香りだけが、今のゼジッテリカにとっての全てだ。
詳しく思い出せないことは多い。けれどもシィラの言う通り、嬉しかったという記憶は残っている。父とはどうだろう。思い出すきっかけがないだけで、楽しいこともあっただろうか。そうなのかもしれない。
「じゃあリカ様、流しますから目を瞑っていてくださいね」
シィラの声が甘やかに優しく響いた。こんな時間がいつまでも続けばいいと願ってしまう。そう考えると不意に少しだけ寂しくもなった。
水音と共に、喜びが静かに流れ出していく。この生活に終わりがあることはわかっている。魔物の襲撃がなくなれば、護衛たちは去って行くのだ。必ずシィラもいつかはいなくなる。
母との思い出がしまわれたのと同じように、この日々もいつかゼジッテリカには見えなくなってしまうのだろうか。しまわれたものはずっと残っているのか? それともいつかは本当に消えてしまうのか? どうしたらそれらを失わずにすむのだろう。
気持ちさえ覚えていればいいのだとシィラは言うが、ゼジッテリカはできれば覚えていたかった。
「ねぇシィラ」
水音が止んだところで、ゼジッテリカは口を開いた。わからないことはシィラに尋ねるのが一番だ。少しだけ顔を上げると、髪からしたたり落ちた滴が肩の上で跳ねる感触がする。
「どうすれば大事なことを忘れずにいられるの?」
震えないよう気をつけて発した声は、思いの外よく響いた。ゆっくりまぶたを持ち上げると、部屋を満たす湯気がふわりと揺れたような気がする。
「忘れずに? 記憶の話ですか?」
シィラの手が濡れた髪を整えていく。頷こうとしたゼジッテリカはその直前で思いとどまった。先ほど危ないと注意されたばかりだ。
「うん、そう」
「そうですねぇ、繰り返すことが大事ですかね。あとは、できるだけ五感に訴えるとか。五感ってわかります? 見るだけでなく、耳で聞いたり、味わったり、匂いをかいだり、肌で感じたり。たくさんの感覚をいっぱい刺激した方が記憶に残りやすいみたいですよ」
シィラの声も壁でよく反響した。前髪から落ちる水滴に顔をしかめつつ、ゼジッテリカは必死に考える。なるほど、だから髪を洗ってもらう感触は覚えていたのか。
そうだとすれば、話をするだけよりも一緒に何かをする方がきっと覚えていられる。
「……じゃあ、あのね、シィラ」
一度唇を引き結んだゼジッテリカは、怖々と話しかけた。今日一緒にお風呂に入ってくれたのは特別だ。きっとこれからは続かない。だからといって共に食事をしてくれることもないだろう。シィラは護衛だ。ならば一体他に何があるだろうか。
「私、ずっとやってみたかったことがあったんだ」
今日何度目の「お願い」になるだろうか。さすがに断られるだろうか。普段とは違うことをする度に、シィラがよくない目で見られているのは知っている。ゼジッテリカの我が侭のせいなのに、いつもシィラが責められる。
本当はおとなしくしているべきなのだろう。しかしおとなしくしなくてもよい時というのは、全てが終わった後を意味していた。
「お菓子をね、作ってみたかったの。お母様と一緒にクッキー焼いてみたりしたかったの。お母様は病気だったから、駄目だったんだけど。一緒にやってくれない? テキア叔父様たちにも、お礼がしたいの」
こんなつたない言葉で果たして伝わるだろうか。シィラと一緒に何かがしたいのだとわかってもらえるだろうか。自分の気持ちを伝えることは、思っていたよりも難しいらしい。
と、くすりとシィラの笑う声が聞こえた。振り向きたい衝動に駆られていると、髪を梳くシィラの手がおもむろに止まる。ふわりと、花の香りが強くなった。
「それでは明日、厨房の隅をお借りできるか確認してみましょうか。屋敷内なら出歩いてもよいと言われていますから、大丈夫かもしれません」
返ってきたのは肯定だった。ゼジッテリカはほっと安堵の息を吐き、ゆっくりと振り返る。湯気でぼんやりとした視界でも、シィラの黒い瞳はとても綺麗に見えた。深い黒は真っ直ぐゼジッテリカを見つめている。
「本当?」
「聞いてみないとわかりませんが、きっと何とかなりますよ」
ふわりと微笑むシィラが、この提案を本当にどう思っているのかはわからなかった。確実に護衛はしにくくなるはずだ。それでも嫌がっているわけではないと信じたい。
料理長はゼジッテリカに好意的だったから、許可してくれるだろうか。それとも危ないと止められるだろうか。テキアに確認が行くような事態は、できれば避けたいが。それは無理かもしれない。
「そ、そうだといいな」
「はい。疲れていらっしゃるテキア様を元気づけたいってリカ様が言えば、きっと許してくれますよ」
首を縦に振ったシィラはくすくすと笑った。まるで内緒の悪戯を相談しているような言い様に、ゼジッテリカの気分はふわりと高揚する。
確かにそうお願いすれば、あの料理長なら厨房の片隅くらいなら貸してくれるだろう。長年このファミィール家の屋敷に仕えている人間だ。
「うん、わかった」
忙しいテキアに元気になって欲しいのも本心だ。頷いたゼジッテリカは、シィラを真似て悪戯っぽく笑ってみた。胸に満ちるこの気持ちが何なのかわからないが、それでも後悔はしたくなかった。
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