第26話 誰かのための決意
「首謀者、か。図られたということかな」
聞こえたのは低い男の声だった。すると不意に煙が大きく揺らぎ、草を踏みしめる音も聞こえてきた。ゼジッテリカの鼓動は速まった。
首謀者。つまりそれは、ゼジッテリカたちを狙っている張本人ということか? 父たちを殺し、護衛たちを襲わせたのが、その男なのか?
濃い煙の中から姿を現したのは、端正な顔立ちの男だった。白に見間違えそうな銀の髪を持ち、鮮やかな空色の衣に身を包んだ男だ。一見したところ、人間だと言われても違和感のない容姿をしていた。
ただ鮮やかな空色の瞳だけが、彼が異質な存在であることを告げている。
「なるほど、お前が申し子のレーナか。噂以上だな。神とも魔族とも言い得ぬこの気。なのに容易く周囲に紛れるとは」
「得意なんだ、隠れるのは」
鷹揚と近づいてくる男へ、シィラは軽く返した。いや、今はレーナと呼ぶべきなのだろうか? それすらもゼジッテリカにはよくわからなかった。
何が正しくて何が偽りなのか、もう判断できない。ただ彼女が自分の味方であることだけは確信できた。
「得意なのは図ることもだろう? もっとも、自信がなければ採用しない策だな」
そこで別の声が割って入った。はっとしてゼジッテリカが眼を見開けば、煙の向こうからもう一人の男が姿を見せる。
黒い髪を腰まで伸ばした背の高い男だ。空色の衣服は銀髪の男と揃いで、二人並ぶと不思議な印象を覚える。
「これだけ慎重に動いていたというのに、まさか最後に図られるとは。いつ気づいた?」
「さあな。先に目をつけていた者がいた、とだけ言っておこう。どうやらお前たちはまだ気がついていないようだが」
睨み付けてくる二人に向かって、シィラは悪戯っぽく微笑んだ。途端、魔物二人はあからさまな動揺を見せた。瞳を見開き息を呑む姿は、凶悪な敵のものとは思えない。
「違和感は全て申し子のせいだと思っていたんだろう? われを隠れ蓑にしてお前たちの天敵が隠れているよ。まあ、今さら言っても遅いことだが」
シィラがそう言い終わるか否かという時、右手の白い刃が突如輝きを増した。何事かとゼジッテリカが瞬きをすれば、シィラはそのまま身を捻るようにして刀を薙ぐ。
白く淡い軌跡が、目に焼き付いた。その切っ先に何か黒いものが覆い被さったとわかったのは、地に落ちた男を見たからだった。
かすかな呻き声を漏らしながら、藍色の長髪の男が焦げた草に横たわる。男の体が奇妙な方向に曲がっているのは、胴が切り裂かれたせいだろう。ゼジッテリカは瞠目した。
「カアメイス!?」
立ち尽くしていた黒髪の魔物が声を上げる。カアメイスというのが倒れた男の名らしい。だが藍色の男は何も答えることなく、口から血を吐き出したと思ったら光となって消えた。
ゼジッテリカは怖々とシィラを見た。圧倒的だ。全ての動きを見抜いているように、シィラは刃を振るっている。藍色の髪の男は突然現れたというのに、まるでそれも予測していたかのようだ。
「こちらの方が速いんだから、そんな単調な攻撃じゃあ意味がないのになぁ」
ぼやくがごとくシィラは独りごちた。そこには全く気負いもない。燃えさかる木々のはぜる音さえ遠ざかるような思いで、ゼジッテリカは息を詰めた。
魔物は救世主を恐れているのではないか? 以前、テキアたちはそう話していた。それを絵空事のように感じていたが、その通りだったのだ。
対峙してしまえば勝ち目はないから、隠れるように動いていた。夜の奇襲だけにとどめていた。そうしてじわじわとファミィール家を潰そうとしていた。魔物が何故そうしたのか、目の前の光景が物語っている。
「――これが神魔の落とし子かっ」
硬い表情で構えた黒髪の魔物が、呻くように吐き捨てた。すると炎に焼かれた木々の悲鳴に混じって、遠くから鈍い大きな音がする。
屋敷の外では、他の護衛が戦っているのだろう。まさかここでこんなことが起こっているとは、誰も知らないに違いない。
「仕方がないな」
そこで、銀髪の男が動いた。ゆったりとした歩調で前に進み出た男は、攻撃する意思はないとばかりにひらりと手を振る。踏みつけられた草が、くしゃりと場違いな音を立てた。
「私の命で、ここは一つ手を引いてもらえないだろうか?」
銀髪の男の言葉に、喫驚したのは黒髪の男の方だった。シィラは今にもため息を吐きそうな顔で、頭を傾けて苦笑する。
信じがたいものを見る思いでゼジッテリカは絶句した。魔物には知性があるはずだと、テキアが話していたのは聞いている。だが自分たちの命を狙っていた張本人が、まさかこんなことを口にするとは。
「な、何を仰いますっ」
「神や申し子に見つかった以上、この作戦は失敗だ。これ以上部下を減らすのは私の願うところではないし、イースト様のお言葉にも反する。頭がいなくなれば我々もまともには動けない。そうだろう?」
その言葉は一体誰に対してのものなのか。どこか悲しげに告げた銀髪の男に、黒髪の男は閉口していた。
ゼジッテリカは混乱した。人間をなんとも思わず殺してきていた魔物が、仲間のために命を差し出そうというのか? 頭を強く殴られたような気分になった。
すると、シィラは呆れたようにため息を吐いた。そこにわずかな寂しが滲んでいることを、なんとはなしにゼジッテリカは読み取る。以前にも、彼女はそんな風に嘆息したことがあった。あれはいつのことだったか。
「これだからイースト配下は嫌なんだよな」
あいている左手をひらりと振って、シィラは悲しそうにこぼした。そう、悲しそうだった。苦しそうだった。望んでいないことを口にしなければならない時、テキアが発した声と同じだ。
「当然だ。申し子の目的を考えれば、これが最善の策だ。作戦続行が不可能ならば、被害を最小限とするのが頭の役目であろう。申し子をやり過ごす最大の手を、知らないとでも思っているのか?」
追い詰められているのは魔物の方なのに、銀髪の男は胸を張り鷹揚と笑った。その姿は何故か父を思い出させた。体が弱りつつある中でも仕事を続けた父が、倒れる寸前にも笑っていたことを彷彿とさせる。
「それとも矜持を捨てて全てを斬り伏せるか? それもよいだろう」
銀髪の男は深々と相槌を打った。それはおそらく、シィラへの挑発だ。ゼジッテリカは落ち着かない気持ちで短剣を抱きしめる。ここまで言われてシィラはどうするのだろう。
「いいや、われは目的のためにだけ動く。お前を失った魔族がなりを潜めるというのなら、それでいい。で、そっちの奴、お前はどうする? ここで一緒に斬られるか? それともお空の部下たちを退却させるか? 好きな方を選ぶといい」
と、肩をすくめたレーナはもう一人の魔物の方へ問いかけた。重苦しい選択を突き付けていることは、ゼジッテリカにもなんとなくわかった。ぐっと黒髪の男が歯を食いしばるのが見える。
主の思いを尊重するためにはその死を受け入れろと、シィラはそう言っている。そんな選択、ゼジッテリカならばしたくはない。
「……では、退却させますか?」
「頼む。しばらく……百年でも五百年でもかまわないが潜伏しろ。この痛手は大きい。プレイン様の配下がまた何か言ってくるかもしれないが、とにかく無視しろ。いいな」
奇妙な静寂が辺りに横たわった。魔物たちの交わす言葉は、ゼジッテリカにはよく理解できなかった。いや、かろうじてわかる部分もあるが、実感が湧かなすぎてうまく飲み込めなかった。
時間の感覚が違う。きっと、優先することも違う。それでも仲間を思うところは同じだなんて、あんまりだ。ひどい話だ。恐ろしい敵が消える瞬間が近づいているのに、素直に喜べない。
「はい」
苦々しく頷いた黒髪の男は、一度こちらをきつく睨んだ。が、それ以上は何も言わず、すぐさま飛び上がった。一瞬のことだった。きっと空へと向かったのだろう。あの大量の魔物を引き揚げるために。
「これでいいかな?」
すると銀髪の魔物が優雅に首を傾けた。今から命を差し出そうとする者とは思えぬ穏やかな声音だった。シィラはもう一度息を吐くと、白い刃を前方に構える。薄紫の光がほとばしり、また空気が揺れた。
「ああ、十分だ」
「彼が約束を破るとは思わないのか?」
「しばらく見張るから問題ない。気はもう覚えたしな。それにお前の言葉をすぐに呑むような者なら、それこそ矜持を捨てるようなことはしないだろう?」
「なるほど」
ふっと、銀髪の男が再度笑った。今度は嘲るのとは違う、満足した者が浮かべる微笑だった。
シィラは一歩を踏み出し、手にした刃を横薙ぎにする。先ほどよりもあっさりとした動きだった。
しかしそれは、銀髪の男の体を易々と切り裂いた。刃の形がゆらめき、その動きにあわせて彼女の黒髪もふわりと揺れる。物語の中なら、一番盛り上がるところだ。それなのに漂う空気はどこかもの悲しい。
「……シィラ」
思わずゼジッテリカはその名を呟いた。魔物は絶叫どころか呻き声一つ漏らさなかった。堂々と燃えさかる炎を背にしたまま、光の粒子となって消えていく。それは火の粉が空へと上りつつ空気に溶けていくのと同じだった。
――これで、終わったのだ。
「ごめんなさいね、リカ様。驚いたでしょう?」
ついで振り返ったシィラが浮かべたのは、ゼジッテリカがよく知る微笑みだった。右手の刃が突として消えると、まるで今まで見ていた光景が嘘であるかのように思えてくる。返り血を浴びた白い上衣だけが、かろうじて戦いの跡を残していた。
問いかけを否定すればいいのかどうか、ゼジッテリカは躊躇した。何を口にしたらよいのかわからない。言葉がまとまらない。混乱した頭とぐちゃぐちゃな感情で溢れそうな心が、それでも黙るべきではないと訴えている。
今、シィラは傷ついている。悲しんでいる。それでも笑っている。そう思ってしまうのは何故なのだろう。ゼジッテリカは必死に言葉を探した。
伝えたいことはたくさんあった。聞きたいこともたくさんあった。それでも今必要なのは、きっと一つだけだ。
「ねえ、ねえシィラ。シィラは、本当は――」
それなのにうまく声にならない。震えるのみの喉の代わりに、ゼジッテリカの瞳から涙がこぼれ落ちた。自分が悲しいわけではないのに、何故だか泣いてしまった。歪んだ視界の中、シィラが困ったように微笑むのが見える。
「リカ様、お願いです。今日のことは、皆さんには秘密ですよ? 私、彼らの間ではちょっとした有名人なんです。でも目立ちたくなかったので隠れてみました。どうにかして彼らには出てきてもらいたかったので……。そうでないと、繰り返してしまいますから」
そう切なそうに告げられ、ゼジッテリカは大きく首を縦に振った。
シィラが何者であるのか、そんなことは関係ない。その存在は偽りだったのかもしれない。しかし今目の前にいるのは確かにシィラだ。ゼジッテリカのことを思い、最善を尽くそうとしてくれている者だ。それだけは間違いなかった。
「ありがとうございます」
軽く頭を下げるシィラに、ゼジッテリカはぶんぶんと頭を振った。シィラを見ていて、ふと確信できることがあった。
ゼジッテリカは、シィラに悲しんでいて欲しくない。苦しんでいて欲しくない。笑っていて欲しい。――それが一番大切なことだ。
「大丈夫」
いつかシィラが教えてくれたことを思い出す。あの時はまだぴんとこなかった。でも自分が幸せに笑っていることの意味が、それが何をもたらすのかが、ようやくわかった気がした。
「シィラ、ありがとう。守ってくれてありがとう」
どうにか絞り出した声は震えていた。けれどもそれが恥ずかしいことだとは感じなかった。短剣を抱きしめたゼジッテリカは、祈りを込めて笑顔を作る。
シィラはゼジッテリカの命を守ろうとしてくれた。心を守ろうとしてくれた。シィラが避けたかったのは、怯えながら暮らすだけの日々だ。
「本当にありがとう」
気持ちを込めた言葉が、燃える中庭の中に溶けていった。シィラはふっと頬を緩め、いつもの柔らかな笑みのまま頷いた。
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