第20話 甘い香りの向こう側

 部屋を出る直前のテキアを、どうにかギャロッドは引き留めた。朝は自室にいることが多いと知っていたからこそ可能なことであった。

 その後は各部署を回ったり、商談のための前打ち合わせを行ったりと、何かと忙しい。各種会議もある。だがこの話はできるだけ早くテキアの耳に入れておきたかった。

「魔物の姿が確認できた?」

 大きな扉の前で聞き返したテキアは、喫驚するよう眼を見開いた。それは長らく護衛たちが望んでいたことだ。密やかなる夜襲が魔物の仕業であると確信できれば、余計な疑心暗鬼は生まれなくなる。

 テキアの隣にたたずむバンが「ほう」と感嘆の吐息を漏らす。その気にも驚きは滲み出ていた。

「はい。魔物は白い獣の姿をしていたようです。しかも護衛たちの前で突然切り裂かれて絶命したと。朝には跡形もなかったので詳しいことはわかりませんが、ただ血だまりは残されていました。作り話ではないでしょう」

 ギャロッドは相槌を打つ。これが嘘だとしたらもう少し「らしい」内容にするところだろう。突然現れた魔物を見たというだけでなく、その魔物が消えてしまったなどと言っても、普通は信じてもらえない。

「なるほど」

 テキアは顎に手を当て、切れ長の瞳を細めた。あの現場を見るまでは、ギャロッドも疑っていた。しかし恐怖が見せた虚言ではないらしい。それは辺りに立ちこめる濃厚な血の臭いも示している。少なくともあの場で、護衛以外の何者かが血を流したことは確かだ。

「魔物を殺した何者かの姿は、確認されていないのですね?」

 顔を上げたテキアは、静かにそう確認してきた。ギャロッドはすぐさま首肯する。残念ながら傍に誰かがいたという目撃証言はない。突如として魔物の体は裂けたらしい。そんなことが可能なのは、技使いには間違いないだろうが。

 唸ったテキアはちらとバンの方へ一瞥をくれた。するとバンは自分ではないと言いたげに、ゆったり首を横に振る。奇妙な長衣が揺れて、衣擦れの音を立てた。

「わたくしを疑っておいでですか? テキア殿」

「いえ、あなたであれば可能かと思っただけです」

「ご冗談を。わたくしはテキア殿の直接護衛ですから、そんな面倒なことまではしませんよ。大体、隠れていても意味がありません。わたくしなら、堂々と姿を見せますね」

 そう答えたバンは意味深長に笑い、ずり落ちそうになった眼鏡の位置を正した。なるほど、確かにバンならば姿を隠す必要はない。どちらかと言えば目立ちたがりの男だから、そうする理由もないだろう。

 もちろん、テキアを放っておいたことは咎められるかもしれないが。それをこの男が気にするとも思えない。

「それに技を使うのならば魔物も同じです。仲間割れという可能性もあるのでは?」

 そこでバンは新たな可能性を指摘してきた。はっとしたギャロッドは息を呑む。そういったことには考えが及ばなかった。しかしある程度の知性があり、やり方を選ぶだけの思考能力があるなら、意見の食い違いが起きても不思議はない。

 少なくとも魔物が複数いることは確認されている。あのアースが相対した魔物も、慎重さはまちまちのようだった。ならば、偶然起きた仲違いが護衛を助ける結果となったと考えることはできる。

「珍しくも回りくどいやり方が続いていましたからね。焦れったくなる魔物がいたのかもしれません。それで制裁されたと」

 そうであれば運が良かったというべきか。何にせよ、夜の襲撃は魔物によるもので間違いなさそうだ。人数を増やして夜の警備を手厚くするという手法も有効だろう。

「そうですか」

 けれどもテキアはまだ腑に落ちていない様子だった。艶やかな床を見下ろす横顔を、ギャロッドはじっと見つめる。まだ何か気になることでもあるのか? 声をかけづらい空気を纏わせたまま、テキアは押し黙る。

「テキア叔父様!」

 しかし沈黙は長くは続かなかった。ギャロッドが来たのとは逆方向から、甲高い子どもの声が響いた。これはゼジッテリカのものだ。

「ゼジッテリカ様?」

 怪訝に思ってギャロッドは視線を向ける。廊下の先、曲がり角の向こうから顔を見せたのはゼジッテリカだ。満面の笑みで駆けてくるその華奢な手には、小さな袋がある。

「リカ様、危ないですよ」

 続いて姿を見せたのは、両腕にたくさんの袋を抱えたシィラだった。走り出すゼジッテリカを制止するようかけた声は、小さな耳には届かなかったらしい。駆け寄ってくるゼジッテリカを、ギャロッドたちは待ち受ける形になった。春の花を思わせる黄色いドレスが、ふわふわと揺れている。

「あのね、叔父様。クッキーを焼いたの!」

 息を弾ませながらゼジッテリカは袋を掲げてきた。それを差し出されたテキアは困惑の表情を浮かべている。つまり、よくあることではないらしい。

「もう、リカ様。走ってはいけませんって。ほら、テキア様も困ってらっしいます」

 そこへ追いついてきたシィラが苦笑をこぼした。腰をかがめてゼジッテリカの頭を撫でたシィラは、ついでテキアへと双眸を向ける。

 クッキー。場違いな単語をギャロッドは頭の中で繰り返す。確かに、突き出された生成色の小袋からは、ほんの少しだけ甘い香りが漂っている。

「これ、リカ様と一緒に焼いたんです。昨日のお礼にって」

 微笑むシィラと差し出された小袋を、テキアは交互に見つめていた。ギャロッドは目を丸くする。昨日というのは、例の入浴の話だろうか。その後にそんな時間があったのか?

「甘い物はお嫌いですか? 控えめにはしてみたんですが」

「いえ、そういうわけではないのですが」

「では受け取ってください。初めてにしてはとてもお上手です。リカ様にはお菓子づくりの才能もありますね」

 にこにこと笑うシィラの下で、ゼジッテリカは期待に瞳を輝かせていた。今まで魔物の話をしていたのだと、告げにくい雰囲気だ。それでテキアも困っているのだろう。

「そうですか。ではいただきますね」

 わずかに逡巡した後、テキアはそう言って受け取った。ほころぶように笑ったシィラは、そのままゼジッテリカと目と目を見交わせる。

 なんと微笑ましい光景だろうと、ギャロッドは胸の奥をぎゅっと掴まれる思いがした。ゼジッテリカのこの嬉しそうな顔。これが本当の子どもの姿だ。

「それにしても、いつの間にこんなものを……」

「朝早くであれば厨房の隅をお借りできると聞いたので。リカ様と早起きしてみました」

「うん。眠いけど頑張ったよ!」

 疑問に答えたシィラの言葉に、ゼジッテリカは満面の笑みでそう続ける。一体どれだけ早起きをしたのか。ここの料理人たちは、簡易ではあるが護衛の食事まで準備してくれている。彼らもおそらく早くから動き出しているだろうに。

「シィラ殿、ゼジッテリカ様、わたくしにはいただけないのですか? 昨日見張りをしていたのはテキア殿だけではないですぞ」

 そこで意気揚々と口を挟んだのはバンだった。温かな空気を台無しにするような、ねっとりとしたバンの声が、ギャロッドの鼓膜を揺らす。やはりバンは主張の強い男だ。魔物を殺したのはバンではないだろう。

「もちろん、バンさんの分もあります。昨日はご迷惑をおかけしましたので」

 しかしそう出てくるのはシィラも予想済みだったようだ。くつくつと笑いながら、抱えた小袋のうち一つをバンへと手渡す。テキアのと同じ、生成色の袋だ。中身も同じだろう。

「ありがとうございます。ほほう、シィラ殿はこうやって皆さんを落としているわけですな」 

 小袋をしげしげと見つめたバンは口の端を上げた。意地の悪い声音だった。何かを企んでいるときの合図だと、ギャロッドは身構える。依頼人への失礼は一番避けなければならない事態なのに、バンは一体何を考えているのか。

「バンさんは、またそんなことを仰る」

「いえいえ、きちんと名前まで書かれているとはさすがです。こんなものをあなた方のような美しいお嬢さんにいただけたら、誰もが喜びますよ」

 バンはにたりと笑った。そう言われ、テキアも自分の袋を見下ろしている。まさかとギャロッドは目を見張った。シィラの腕の中にはまだ小袋が残されている。一体何人分作ったのか。

「これはリカ様のクッキーですよ。そこは忘れないでくださいね」

「おやおや、これは失礼いたしました。ゼジッテリカ様が焼いて、シィラ殿が包んだのですな」

「違うの! シィラと一緒に焼いたの!」

 楽しげにころころと笑うバンに向かって、頬を膨らませたゼジッテリカははっきり主張した。今までの様子からは考えられない変化だった。このバンを相手に声を上げることができる人間などそうそういない。

「はい、そうです。一緒に焼いたんです。ギャロッドさんも、一ついかがですか?」

 そこで突然自分の名が飛び出して、ギャロッドは思わず言葉に詰まった。もしかしてとは思ったが、彼の分まで用意されているのか。信じがたい。

「いただいても、いいんですか? まさか全員分を?」

「お名前のわかる役職付きの方の分はあります。それ以外の方はまとめてってことになってしまいますが。あ、小屋の方には、マランさんが届けてくれているはずです」

 当たり前のようにそう告げられて、ギャロッドは閉口した。護衛として依頼を受けて、このような扱いを受けたのは初めてのことだった。バンのようにからかうつもりはないが、確かに嬉しい。特に甘いものを口にする機会などほとんどない。

「ほら、テキア殿だけでなくギャロッド殿までまんざらでもなさそうです」

「得意なんです、愛情のばら売り」

 そこですぐにバンが割って入った。しかしシィラは動じることもなく、笑顔のままそう言い切る。あまり聞き慣れない表現だが、現状と照らし合わせるとしっくりくる言葉だ。

「あのね、私がいっぱい作っちゃったから」

 そこで急に照れくさそうにゼジッテリカが付け加えた。ドレスの裾を掴んでもじもじとする姿は年相応だ。なんとはなしにギャロッドは安心する。

「材料、いっぱいいただいてしまいましたからね。あ、感想はリカ様に直接伝えてくださいね」

 シィラはふわりと頭を下げた。その拍子に緩く結わえられた黒髪が揺れる。何度顔を合わせても護衛とは思えぬ容姿と服装だ。白い上着は薄手だし、茶色いズボンも特殊な加工を施しているようには見えない。

「味は私が保証します。リカ様とってもお上手ですよ」

 顔を上げたシィラは、またゼジッテリカと微笑み合った。既に試食はすんでいるのだろう。すると、テキアが何か言いたげに口を開くのが見えた。昨夜の魔物の件についてここで伝えるべきか迷っているのか? それとも他の理由があるのか?

 魔物が突然死んだことを朗報としてよいものか、ギャロッドもまだはかりかねていた。悪い話ではないというだけで、今後どうなるかは定かではない。

「……では、会議が終わりましたらいただきますね。ゼジッテリカもシィラ殿も、あまり無理はしないように」

 結局、テキアは何も告げないことを選んだらしい。切れ長の瞳をすがめて小袋を上着の懐に入れる。するとゼジッテリカは瞳を輝かせながらシィラの服の裾を握った。

「じゃあシィラ」

「はい。では次のお部屋にまいりましょうか」

「うん!」

 再度一礼したシィラと、今にも駆け出しそうなゼジッテリカが、ギャロッドたちの脇をすり抜けていった。あの個性豊かな護衛たちも、ゼジッテリカの厚意となれば受け取らざるを得ないだろうか。その姿を想像し、ギャロッドは相好を崩す。

 遠ざかっていく靴音が煌びやかな廊下で反響した。朝の空気に似合う華やかさが、そこにだけ満ちていた。すると耐えかねたようにバンが噴き出す。

「魔物の話は、しなくてもよかったのですかな?」

「会議の後にします。シィラ殿には伝えなければいけませんから、ゼジッテリカの耳に入るのも致し方ないでしょう。ただ、それは今でなくともよいかと」

「水を差したくないのですな。テキア殿はお優しい」

 バンは深々と相槌を打った。そこに揶揄する響きがかすかにあるよう感じられるのは、ギャロッドだけだろうか? うやうやしさの中に混じる嫌味が一体どんな感情から来るのか、想像もできない。

「いえ。会議に遅れては困りますから」

 それでも素っ気なく言い残したテキアは短い髪を手でなでつけた。そして再び何かを飲み込むよう口を閉ざすと、そっと廊下の向こうへ一瞥をくれた。

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