第3話 誘惑の風が吹いて
広い部屋で一人、ベッドの上に座ったゼジッテリカは人形を相手に遊んでいた。ふわふわと波打つ人形の髪を梳いては、あれこれと髪型を変えてみる。
一人遊びにはもう慣れた。父はずっと忙しく、かまってもらった記憶がない。唯一のよりどころであった母が病に倒れてからは、おもちゃだけが部屋の中に増えていった。
母が亡くなってからはいっそう一人だった。時折大人たちが様子を見に来ることはあっても、遊び相手にはなってくれない。もちろん、外に連れ出してくれることもなかった。
最後に屋敷の外に出たのは、ゼジッテリカの誕生日。母が自ら服と靴を選んでくれた時だ。あんまり嬉しくてはしゃぎすぎたものだから、そのとき母がどんな顔色だったのか覚えていない。母が帰らぬ人となったのは、その十日後のことだった。
「私のせいだよね」
一人、ぽつりと呟いた声は静かな部屋に染み渡った。ここはいつも寒く感じられる。テキアが来る時だけ、ほんの少し暖かくなる。
ぎゅっと唇を引き結んだゼジッテリカは、人形の丸い瞳をのぞき込んだ。まるで宝石をはめ込んだような綺麗な青が、ゼジッテリカは好きだった。母がくれた手作りの人形だ。
「ゼジッテリカ」
すると控えめに扉を叩く音がした。これはテキアの声だ。はっとして顔を上げたゼジッテリカは、ベッドを飛び降りようとして思いとどまる。「直接護衛」を連れてくると言っていたのが、不意に思い出された。
――ついに来たのだ。あのおとなしそうな技使いが、ゼジッテリカの傍にやってくる。遊び相手でも話し相手でもない見知らぬ大人に見張られる時間がやってくる。
「ゼジッテリカ、いるんだろう?」
しばらく返事をしないでいると、もう一度扉が叩かれた。わずかに気遣わしげな声なのは、眠っているのかと訝しんでいるせいかもしれない。ゼジッテリカは滅多に午睡をしなかったが、時々本を読みながらうたた寝することはあった。
人形を腕に抱えたゼジッテリカは、渋々と扉へ向かった。そんな些細な動きさえも億劫に感じられた。鈍く光る金の取っ手を握ると、ひんやりとする。扉はかなりの大きさだが、子どもでも開けやすいように軽い木材を使ったといつか父が自慢していた。その名は、さすがに忘れてしまったが。
「テキア叔父様」
ゆっくり戸を引けば、見慣れたテキアがたたずんでいた。その後ろに、絵に描かれていた女性がいた。テキアと同じ黒髪に黒い瞳が、廊下の明かりに照らされている。
「直接護衛の者をつれてきた。紹介してもいいか?」
「いいよ」
答えながらも、ゼジッテリカはとぼとぼとベッドに向かって歩き出した。テキアを困らせたいわけではないが、これからの生活のことを考えると気が重くなるのはどうしようもない。
「ゼジッテリカ」
背を向けたままでいると、咎めるようなテキアの声がした。ゼジッテリカはぎゅっと人形を抱きしめる。背後から聞こえてくるテキアのため息が胸に痛かった。
大人は嫌いだ。すぐに嘘を吐く。大事なことを隠そうとする。心配だからといって自由を奪う。そんな中、この部屋はゼジッテリカにとっての最後の砦だった。それなのにここに他人を入れなければならないなんて、耐えられない。
「すみません、シィラ殿。ゼジッテリカはいつもこうなんです」
「いつも?」
「新しい使用人や客人を警戒してしまうんですよ。一人の方が楽だといって」
テキアの困り果てたような声に、女性の不思議そうな声が重なった。どうやらシィラというのが名前らしい。
「そうだったんですか。お一人でいるのにも、慣れてしまったんですね」
シィラの声音には、哀れみの色も侮蔑の色もなかった。ただ一種の切なさだけが、滲んでいるかのようだった。それは時折テキアが浮かべる微苦笑と似ている。
ゼジッテリカは目を伏せた。何も知らない大人がどうしてそんな声を出すのだろう。ご機嫌をうかがう様子も、子どもだと侮る気配もない、その透き通った言葉に、何故だか胸が揺さぶられた。
会ったことのない女性に、何故そんなことまで見抜かれるのか。ただひたすら悲しくて苦しくてどうしようもない。
「この状況では護衛しづらいですね。シィラ殿、申し訳ありません」
「いえ、謝らないでください。大丈夫です。私、愛情の押し売りには慣れているので」
いつになく低姿勢なテキアの言葉に、シィラの悪戯っぽい笑い声が続いた。ついで、静かに近づいてくる気配があった。柔らかい絨毯を慎重に踏みしめるかすかな音に、ゼジッテリカの鼓動がはねる。
「ゼジッテリカ様」
すぐ傍で声がした。先ほどよりも柔らかく落ち着いた声が、ほんのすぐ後ろから聞こえた。誘惑に負けてちらとだけ背後に目を向ければ、膝をついた女性がこちらを見ている。
思わずゼジッテリカは息を呑んだ。誰かの顔をこれだけ間近で見たことがあっただろうか? いつもゼジッテリカは誰かを見上げていた。そうでなかったのは母親だけだ。
「私はシィラといいます」
答えないゼジッテリカにも動じず、シィラは自己紹介から始める。ゼジッテリカは人形を抱く手に力を込めた。穏やかな女性の声というだけで、どうしても何かが揺さぶられる。
「よろしくお願いします、ゼジッテリカ様」
害意などないと言わんばかりの言葉が、鼓膜を揺らした。シィラの顔を真正面から見る勇気はなくて、ゼジッテリカは横目で様子をうかがう。
近くで見ればさらによくわかる、綺麗な女性だ。こういった顔立ちの人を、ゼジッテリカは見たことがないように思う。まるでお伽噺の登場人物のようだ。
だが彼女は技使いだ。魔物からゼジッテリカを守るだけの力を持つ人間だ。そう思うと、この美しさがいっそう怪しく見えてくる。
彼女は本当にゼジッテリカを守るつもりなのか? お金のためだけに雇われた人間が、命を張ってくれるのか? 魔物は強いという。自由自在に炎や水を操り、地を震わせ、風を起こす恐ろしい生き物だ。普通の技使いでは敵わないらしい。
「ゼジッテリカ様は私が怖いですか?」
「っ!?」
ふわりと微笑んだままそう尋ねるシィラを、思わずゼジッテリカは凝視した。こんなところで一体何を言い出すのか。慌てたのはテキアも同じだったらしく、そんな気配が伝わってくる。しかしシィラは狼狽えもしなかった。
「当然ですよね。突然見知らぬ人が護衛だなんて言われてもびっくりしますよね。でも私はゼジッテリカ様に嫌われては困るんです。だから……そうですね、ちょっとした遊びをしましょう」
視線を合わせた途端、シィラから目が離せなくなった。深い黒の瞳の奥にあるものが何なのかわからずに、ゼジッテリカは大きく瞬きをする。
「……遊び?」
「私はゼジッテリカ様のことが知りたいので、当てっこです。これでも技使いとして仕事をしてきましたので、推理も得意なんですよ」
ゼジッテリカはゴクリと喉を鳴らした。一体何を言い出すのか。馬鹿げていると思いながらも、遊びという響きに心が沸き立っているのを自覚せざるを得なかった。それはいつだって魅惑的だ。
「ゼジッテリカ様のその人形は、お母様がくれたものですね?」
微笑をたたえたままシィラが口にした言葉は、ゼジッテリカの予想をはるかに超えていた。突然のことに動揺して、唇が震える。
目を見開いたゼジッテリカは返答を探した。どうして。何故そんなことがわかるのか。テキアに聞いたのか? いくつもの疑問がぐるぐると頭の中を巡り、どれもうまく喉を通らない。
「ど、どうして……」
「だってこのお人形、ゼジッテリカ様にそっくりです。髪の色も、目の色も。こんなにそっくりに作れるのは、ずっと傍で見ていた人だけですよ。きっと愛情込めて作ってくださったんですね」
シィラはまたふわりと微笑んだ。そう言われて、ゼジッテリカはまじまじと人形の顔を見つめてみる。手作りだから、少しだけ手足は歪だ。それでもゼジッテリカには大切なものだった。病に伏した母が、ゼジッテリカが寂しくないようにと作ってくれたものだ。
母は無理することを止められていたから、この人形については「内緒ね」と言われていた。だからゼジッテリカはこれが母の手作りであることを誰にも言ったことがなかった。もちろん、テキアや父は気づいていたのだろうが。
「……うん、正解」
ゼジッテリカは怖々と顔を上げた。まるで心の隙間に入り込まれてしまったようで、正直怖かった。シィラは得体が知れない。こびへつらうよう機嫌をうかがってくる客人とは違う。よそよそしい新しい使用人とも違う。ただの護衛のはずなのに、一体何なのだろう。
「よかった。私の勝ちですね」
嬉しそうに笑うシィラにつられて、ゼジッテリカはほんの少し口角を上げた。同時に、いつだったか父がこぼした言葉を思い出した。笑顔でするりと近づいてくる人間には注意しなさいと。そうか、あれはシィラのような人間のことを言っていたのか。
「すごいね、ちょっと見ただけなのに。これはお母様が、前の誕生日にくれたの」
だが遅い。まるで堰を切ったように、口が止まらなくなった。誰かとこうやって話をするのをずっと我慢してきた。仕方がないのだと言い聞かせて耐えてきた。でも本当はいつだって聞いて欲しかった。
「そうなんですね。こんなに大事にしてもらえて、きっとお母様は喜んでいますよ」
「……本当に?」
「ええ。大好きな人のために作った物を、大好きな人が大事にしてくれたら、すごく嬉しいじゃないですか」
頷くシィラの笑顔が眩しくて、ゼジッテリカは瞳を細めた。こんなに欲しい言葉をくれる人は初めてだった。大人はいつもこちらを侮り、表面的な言葉だけをくれる。だがシィラは違う。それが甘い誘惑であったとしても、逆らえる気がしなかった。
すると扉の方から、テキアの何とも言いがたい吐息が聞こえてきた。ちらりとそちらへ視線を向ければ、彼は呆れたようなほっとしたような複雑な顔をして腕組みしていた。ゼジッテリカは急に気恥ずかしくなり、慌てて目を逸らす。
「ねえ、あの、ね。その」
こんな時、一体どんな風に振る舞えばいいのだろう。それは母も父も教えてくれなかった。隙を見せてはいけないとは言われていたが、その隙が何なのかゼジッテリカにはわからない。だが相手がこんな大人では、そもそも無理なことなのかもしれなかった。
「……ありがとう」
それでも礼を言わなければと、かろうじて声を絞り出した。おそらく、シィラはゼジッテリカの気持ちを解すためにこんな話をしたのだろう。それくらいは理解できる。
「お礼なんていりませんよ、ゼジッテリカ様。私はこれからずっとあなたの傍にいることになりますので、何でも言ってくださいね」
「じゃあリカ、リカって呼んで」
顔をのぞき込んでくるシィラに向かって、ゼジッテリカはそう提案した。咄嗟に思いついたことだった。再びテキアの動揺する気配が伝わって来たが、今度はゼジッテリカも振り向かなかった。
「お母様がそう呼んでくれたの」
懐かしい母の手と声をぼんやり思い出せば、つい顔がほころぶ。一人という実感のなかったあの頃のことはもう記憶の中からこぼれ落ち始めていたが、それでもあの手のひらは忘れようがなかった。
「何でも言っていいんでしょう?」
目を丸くするシィラを、ゼジッテリカはじっと見返した。薄れかけている母との思い出をこうして引っ張り出すのは初めてのことだ。外に出せば汚れてしまうような気がしていたが、一度口にしてしまえばなんということはなかった。
この人形がある限り、母と自分の繋がりは途切れない。
「ですが――」
「私がいいって言うからいいの。シィラは私の直接護衛なんでしょう? だからこれはその特別な印。駄目?」
「……わかりました。呼び名は大事ですものね」
ゼジッテリカがにっこり笑ってそう言ってみれば、シィラも折れたようだった。そう、シィラはゼジッテリカのためだけの護衛。魔物から守ってくれる、ほんの一時だけの特別な存在だ。しかもこうして話をしてくれる、希有な人だ。
彼女が『愛情を押し売りしてくる』のならば、それを買わない手はない。ファミィール家はもともと小さな店から始まった商人の家だという。滅多に手に入らない品をみすみす見逃すのは損だ。
「……ゼジッテリカが、こんな風に笑うのを見たのは久しぶりです」
そこでテキアが遠慮がちに声をかけてきた。シィラに話しかけているのか、独り言なのか、どちらとも言い難い口調だった。
するとすっくと立ち上がったシィラは、テキアの方を振り返った。その髪の先がふわりとゼジッテリカの鼻先をかすめる。顔しかよく見ていなかったが、長い髪を緩く束ねていたらしい。その揺れる様は、かつての母の後ろ姿を彷彿とさせた。
「だから、慣れてるって言いましたでしょう?」
シィラの悪戯っぽい声が部屋の中に軽やかに響いた。テキアが苦笑しながら頷くのを、ゼジッテリカは横目で見る。
先ほどまでの寒々しい部屋の中が、嘘のように暖かく感じられた。シィラはまるで春先の庭に吹き込む柔らかい風のようだ。それは瞬く間に、ゼジッテリカにも染み渡った。
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