第12話 笑顔の効き目

 食堂の中には奇妙な沈黙が満ちていた。丹精込めて作られたはずの料理もあまり進まず、ゼジッテリカは小さなため息を吐く。フォークを持つ手が重く感じられて、なかなか口元へ運ぶことができなかった。

 仕方なく別のものに手をつけようと視線を彷徨わせても、どれも気が乗らず。結局フォークを再び持ち上げようと努力する羽目になり――その繰り返しだ。

「リカ様」

 すると、シィラが耐えかねたように躊躇いがちに声をかけてきた。食卓では邪魔にならないようずっと後ろに控えていた彼女にそうさせるほど、今の自分は変らしい。ゼジッテリカはそう自覚する。

 シィラ相手に隠し事は無理だろう。使用人であれば適当な言葉でごまかすこともできるかもしれないが、シィラにそれが通用するとは思えなかった。気で感情がばれているらしいから、なおさらだ。

「大丈夫ですか?」

「うん、私は大丈夫だけど……。でも、私のせいで死んじゃった人がいるんだよね?」

 ゼジッテリカは顔を上げ、背後に立つシィラへと双眸を向けた。頭の中で渦巻いていた考えを口にするだけでも、胸がぎゅっと押しつぶされそうになる。

 ここへ来る途中、廊下で耳に挟んでしまった事実だ。護衛の誰かが殺されたらしい。犯人はまだわかっていないようだが、ゼジッテリカのせいであることは明白だった。

 自分を守るために誰かが命を落とした。その事実を眼前に叩き付けられたようで、ゼジッテリカの頭は真っ白になった。護衛を雇うという意味に、ようやく気づかされた。

「それはリカ様のせいじゃあないですよ」

 ゼジッテリカが何を言いたいのか、シィラはすぐに察したらしい。その柔らかな声はゼジッテリカの胸にすぐに染みて、温かいのに、少しばかり痛かった。

 シィラはいつも真っ先に欲しい言葉をくれる。

「でも、私やテキア叔父様を守るために殺されたんでしょ?」

 だが護衛が雇われた理由を考えれば、最終的にはゼジッテリカのせいだ。誰かに守ってもらうということは、その誰かを危険にさらすことと同義なのだ。何故そんな簡単なことに気づかなかったのか。

 ゼジッテリカはぎゅっとフォークを握る。視線が下がるのを、止められる気はしなかった。

「そうとも限りません。それに、そういった危険性があることをわかって皆やってきていますからね。危険だとわかってなお、覚悟して集まった者たちです。その道を選んだのは護衛たちですから、リカ様が気にすることはないんですよ」

「でも……」

 静かな室内にシィラの優しい言葉が染み入る。その理屈が、わからないわけではなかった。危険だからこそ、報酬金額をつり上げたのだとテキアは言っていた。つまり、ここにいる護衛たちは自分の命と金銭を秤にかけて、決断してきたのだろう。

 だがそれでも、誰かが死ぬというのは怖いことだった。母や父と同じように誰かが忽然と消えることを、簡単によしとはできない。

「護衛とはそういうものですよ」

 またもやゼジッテリカの胸は軋んだ。じりじりと焦げ付くような痛みに、息苦しさを覚える。と同時に、一つの重大な事実に気がついた。この場にいるシィラも、その護衛の一人だ。

「シィラも、だよね?」

 おそるおそる顔を上げれば、シィラはやはり微笑をたたえながらゼジッテリカを見守っていた。強そうには見えないか細い、風変わりなこの女性も、確かに護衛だ。テキアの募集を見てやってきた一人なのだ。

「シィラも、お金がいっぱいもらえるから、こんな危険なお仕事してるんだよね?」

 思い切って尋ねた言葉が、痛々しい沈黙を強調するように感じられた。失礼な疑問なのかもしれない。しかし問わずにはいられなかった。

 シィラが金銭のために自分の身を危険にさらしているという事実が、どうにもゼジッテリカには腑に落ちなかった。いや、そうではないと思いたいのかもしれない。

 彼女の優しさや、温かい言葉が、そういう即物的なところから始まったのではないと信じたいのかもしれない。

 さらに罪悪感が湧き上がってきて、ゼジッテリカはきつく唇を引き結ぶ。この気持ちも、気でシィラには伝わってしまうのだろうか。伝わるとしたらどんな風に伝わるのだろうか。

「ああ、そういう意味ですか。実は私の場合は違うんですよ」

「え?」

 するとまるで期待に応えるよう、シィラは笑い声を漏らした。それが大人たちの繕いと同じものなのかどうか判断しかねて、ゼジッテリカは困惑する。子どもの夢を壊さないためにそう言っているのか? いや、シィラはそんなことはしないはずだ。

「ええ、実はお金には困っていないんです。私はこの通り武器も持っていないので、そういった装備には使いませんから。でも魔族の企みを阻止したくて、ここにきたんです」

 秘密ですよと付け加えてシィラは片目を瞑った。まるでいけない遊びをしているような気分になる仕草だった。ゼジッテリカは急いでこくこくと首を縦に振る。

「じゃあシィラは正義の味方なんだね」

「……正義の味方?」

「本に書いてあったの。魔物を倒す、正義の味方。私たちを守ってくれるの」

 それこそ子どもだましの絵空事だ。こうであったらよいのにという希望がこめられた、物語の中の話だった。しかしシィラであれば、そういった世界の方が似合う。

「リカ様ったら、面白いことおっしゃいますね。そんな大袈裟なことではないですよ。でも……そうですね、似ているところはあるかもしれませんね。私はできるだけたくさんの人に、幸せな気持ちになってもらいたいんです」

 シィラは破顔した。まるで天の使いのようなことを言うと、ゼジッテリカは喫驚する。やはりシィラは普通の大人とは違う。物語の中の人物のようだ。

「もちろん、リカ様にもです。だからそんな顔をしないで、まずは食事をすませましょう。大丈夫、何があってもお守りします。リカ様が笑顔でいられることが、彼らにとっては一番の痛手なんですよ」

 そうシィラが付言した時だった。突然食堂の扉が、音を立てて開いた。そして乾いた靴音が室内に響く。ゼジッテリカが慌ててフォークを置くと、シィラがゆっくり振り返るのが視界の隅に映った。

「ゼジッテリカ、食事は終わったか?」

 まず聞こえたのはテキアの声だった。はっとして振り向いたゼジッテリカは、そのまま硬直して眼を見開く。

「テキア叔父様!」

 まさかこの時間にテキアが食堂を訪れるとは思わなかった。以前は食事を共にしていたが、このところは忙しくて部屋で軽く済ませることが多かった。

 しかし弾んだ声はすぐさま喉の奥へと引っ込んでいった。テキアは一人ではなかった。その背後に、見知らぬ男がいた。

 ずいぶんと怪しい風体の男だ。背はテキアよりも低いが、異様な圧迫感を覚える様相をしている。黄土色の奇妙な長衣はゆったりとした作りで見慣れない。小さな眼鏡というのも珍しいが、何よりその緑の瞳が目を引いた。その眼光の強さに、ゼジッテリカの息は止まりそうになった。

「ど、どうしたの? まだだけど」

 知らぬ間に体が震えていたらしいと気づいたのは、肩にシィラの手が触れたからだ。はっとしたゼジッテリカは首を縦に振り、シィラの手に自分の手のひらを重ねる。たったそれだけのことで、少しだけ気分が落ち着いた。

「そうか、食事の邪魔をしてすまなかったな」

 近づいてきたテキアは、わずかに頬を緩めた。急用ではないのか? どうしたのだろうとゼジッテリカは内心で首を捻った。何かあれば、テキアなら真っ先に口にしそうなものだが。

「あの、テキア叔父様、その後ろの人は?」

 戸惑いながらも、まず気にかかっていたことをゼジッテリカは尋ねてみた。護衛だろうというのは予想できるが、それにしても異様だ。シィラとは別の意味で、他の護衛とは異なっている。

「ああ、そう言えばゼジッテリカはまだ会っていなかったね。彼は私の直接護衛をしてくれているバン殿だ」

「どうも初めまして、ゼジッテリカ様」

 テキアの眼差しに応えるよう、バンと呼ばれたその男は頭を下げた。うやうやしい仕草ではあるはずなのに、何故か得も言われぬ威圧感を与えてくる大人だ。それでもゼジッテリカはどうにか努力して微笑みを顔に貼り付けてみた。

 テキアの直接護衛ということは、つまりこれからしばらくテキアとバンは一緒に行動するのだろうか。できるなら、あまり顔を合わせたくはない。しかしそうとは言っていられないだろう。

 ならばどうすればいいのか。出会う度に怯えていたのでは大変だというのはわかる。それではきっとテキアも困るだろう。

「どうも、初めまして」

 ここはファミィール家の人間として振る舞うべきに違いなかった。意を決したゼジッテリカは、シィラの手をゆっくりと離し、そのままバンを見上げる。

 大きい。何がとは言えないが、真っ先に浮かんだ感想はそれだった。他の護衛とは違い防具のようなものを身につけていないが、それでも彼が強いことはゼジッテリカにもわかった。

 きっとみなぎる自信のせいだ。堂々として落ち着いた立ち振る舞いは、強者の印だ。

「これはまた、将来が楽しみなお方ですな」

 バンは意味ありげに微笑むと、その視線をゆくりなくシィラの方へと移した。密かにほっとしたゼジッテリカも、バンに倣うようシィラを見る。直接護衛という立場は同じはずなのに、ずいぶんと印象の違う二人だ。

 シィラを見つめるバンの双眸は、ゼジッテリカに向けられていた時よりも妖艶な色を纏っていた。まるで何かを探るよう、獲物に狙いを定める獣のような輝きを帯びている。

「どうも、シィラ殿。きちんと顔を合わせるのはこれが初めてですな」

「はい」

 粘り着くようなバンの眼差しを、シィラは柔らかに微笑んで真っ直ぐ受け止めた。そこからは微塵も動揺など感じられない。かといって気負っている気配もなかった。彼女は彼の態度など意に介した様子もなくたたずんでいる。さすがだ。

「既におわかりかと思いますが、バン=リョウ=サミーです」

 つとバンの口角が上がった。やはり怪しげな色をたたえた微笑だった。しかしゼジッテリカにとって意外だったのは、そんなバンを見守るテキアの表情だった。どこか複雑そうな、何か言いたげな目をして黙している。

 そんなテキアを見るのは生まれて初めてのことだった。どことなく不満そうに見えるのがますます不思議だ。何かあったのだろうか?

「どうも、初めましてバンさん」

 一方のシィラはやはり動じる気配を見せない。軽く一礼した彼女の、軽やかな声が食堂に響いた。

「今日はテキア殿がゼジッテリカ様にお会いしたいというので、ついてまいりました。こうして直にお会いできて光栄です」

 と、含み笑いしながら、バンはおもむろにテキアの方を振り返った。鷹揚とした表情だったが、声には皮肉るような響きがあった。早く切り出してしまえと、まるでテキアを急かしているかのようだ。

 テキアに対してそのような態度に出る人間は皆無だ。自分の目が信じられずに、ゼジッテリカは驚嘆する。それとも、ゼジッテリカにそう見えているだけなのだろうか。

「このような機会をありがとうございます、テキア殿」

 テキアが何か言いづらそうな顔をしたのを、ゼジッテリカは見逃さなかった。やはりこれはバンの意地の悪さが出ているに違いない。ゼジッテリカはおろおろしながら、テキアとバンを見比べた。

「まあ、そうでしたか。でも残念ながら、例の騒ぎのことならもうご存じですよ」

 思わぬ助け船を出したのはシィラだった。苦笑と共に即座にそう述べた彼女は、そっとゼジッテリカの髪を梳く。

 シィラの言葉を反芻し、ゼジッテリカははたと気がついた。そうか、テキアはゼジッテリカを心配してここまで来てくれたのか。護衛が殺された話を耳にしたのかどうか、狼狽していないかどうかを確かめるために。

「……そうでしたか」

 どこかほっとしたような、落胆したような声を漏らし、テキアはゆるりと頷いた。その切れ長の瞳がますます細くなる。

 きっと知られたくなかったに違いない。それでも安堵したのは、ゼジッテリカが落ち込んでいるように見えなかったからなのか。

 テキアに心配されるのは嬉しいが、同時に申し訳なくなる。そんなテキアを安心させるためにはどうしたらいいのか。不意に、先ほどのシィラの言葉が頭をよぎった。自分が笑顔でいることが、もしかしたら重要なのかもしれない。

「大変なことになりましたね。私も気を引き締めなければなりません」

 口を閉ざしたテキアに対し、シィラはそう言ってまた破顔した。彼女の笑顔は不思議だ。同じように微笑んでいるように見えるのに、その奥にある感情がわずかに透けて見える。今の彼女からは、確かに、テキアを労る気配が感じられた。

「そうですね。ゼジッテリカをよろしくお願いします」

 シィラの花のような微笑みにつられたのか、テキアの表情も幾分か和らいだ。珍しいことだ。

 テキアは誰かと共にいる時、大体難しい顔をしていることが多い。そうでなければ明らかに取り繕っていた。他人といるのは得意ではないのだと、以前こぼしていたのを聞いたことがある。

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