第13話 特別な人に

「それは頼もしいですな、シィラ殿。あなたのような実力者が本気になれば、この事件などあっという間に解決でしょう」

 しかしバンのねっとりした声が、その場の空気を一変させた。彼の緑の瞳がますます怪しい光をたたえ、真っ直ぐにシィラへと向けられる。

 うやうやしい口調なはずなのに、何故かゼジッテリカにはそう感じられなかった。一体何が違うのだろう。明確なことはわからないが、それでもバンの言動には別の意図があるように思える。

「バンさん、それは買いかぶりです。私にそのような実力はありませんよ」

「またご謙遜を。あなたが実力試験で手を抜いていたことは、見る者が見れば明らかですぞ。今度じっくりお手合わせ願いたいくらいです」

 首を横に振るシィラに、バンは楽しげに笑ってみせた。そしてその長い手を彼女の方へと向ける。その動きにあわせて袖がゆらりと揺れ、衣擦れの音がかすかに鼓膜を震わせた。

 バンが何を言わんとしているのか、シィラにはわかるのだろうか? お手合わせというのは、つまり戦いたいとでも言いたいのか? 正気なのか。ゼジッテリカはぞっとする。

 ちらと視線をシイラへ向ければ、彼女は困ったような笑みを浮かべながら嘆息していた。これもあまり見かけない表情だ。

「バンさん、それはあなたも同じなのではないですか? いえ、上位の方でしたら皆そうですね。あの試験で全力を出す必要性はありませんから。それとですね、残念ながら私は無駄な争いを好みませんので」

 シィラはバンの誘いをあっさりと断った。当たり前だ。護衛同士が争っても何一ついいことなどない。おそらくバンも戯れに口にしただけなのだろう。絶対にそうだろうとゼジッテリカは思いたかった。が、バンの双眸がそう確信させてはくれなかった。

 シィラをねめ回すような視線は獲物を前にした獣と似ている。この目を前によくシィラは耐えられるなと、そう尊敬するくらいだった。もしかすると、バンはシィラを試そうとしているのか?

「心根穏やかな方なのですな」

 するとそう囁いたバンは、音もなく一歩前に出た。そしてゆくりなくシィラの手を取った。瞬きをする間もなかった。

 シィラはというと半身を引いただけで、その手を払い除けるつもりはないようだ。いや、様子をうかがっているというべきか。突然のことに、彼女もどう判断してよいのかわからないように見える。

 その光景を、ゼジッテリカは固唾を呑んで見守った。バンが何を考えているのかわからない。何をしようとしているのかもわからない。

 それはテキアも同様らしく、困惑しながら成り行きを見守っているようだった。

「バンさん?」

「これはお近づきの印です」

 バンはそう続けるとそのまま彼女の手を持ち上げ、その白い手の甲にそっと口づけを落とした。ゼジッテリカはあんぐりと口を開けた。そう来るとは想像すらできなかった。まるで時が止まったような錯覚に陥る。

「あ、あの……」

 シィラはその場で固まった。少なくともゼジッテリカにはそのように見えた。シィラが動じているというのが信じられなくて、側に置いてあるフォークを引っかけてしまうところだった。慌ててまごまごとしていると、またバンの声が沈黙を揺らす。

「おや、どうなさいました? シィラ殿は、女性として扱われるのは慣れてませんかな? こんなに麗しいのにもったいないことです。それもまあ流れの技使いならば、仕方のないことでしょうか」

 バンは片目を瞑って口の端を上げると、そっとシィラの手を放した。よく見ればシィラは動揺しているのではなく、対応に迷っているようだった。彼女は複雑そうな微笑みを浮かべたまま、ゼジッテリカやテキアの様子をうかがっている。

 護衛同士の諍いはよくないからか。大きな問題を起こしたくないからなのか。ではここでシィラを助けられるのは、ゼジッテリカかテキアしかいない。

 そう考えた途端、名案が思いついた。これしかなかった。そう決意した次の瞬間、その威力について考える間もなく、ゼジッテリカは立ち上がっていた。押しのけられて弾んだ椅子が、がたりと揺れる音がする。

「リカ様?」

 はっとしたようにシィラが振り返るのと、その腰にゼジッテリカがしがみつくのはほぼ同時だった。フォークの落下する音が響くが、ゼジッテリカはそれも無視する。

「シィラは私のなの!」

 勢いよく抱きついたせいか、体勢を崩したシィラごとテーブルにもたれかかる恰好になった。思い切り張り上げた声が、天井の高い部屋に響き渡る。

 ――ついで、奇妙な沈黙が生まれた。明らかに、時の流れが変わった。

 ちらと横目で見れば、さすがのバンも呆気にとられた様子で口を開けていた。小さな眼鏡の奥では、緑の瞳が丸くなっている。

 先ほどから黙し続けていたテキアは、何か言いたげにしながらも微苦笑を漏らしていた。仕方のない子どもだと思っているのだろうか。それとも直接護衛と打ち解けていることに安堵しているのだろうか。

 大人たちが本当は何を考えているのか、ゼジッテリカにはわからない。しかし今はそんなことはどうでもよかった。この場の空気を変えられたのなら、後はどうだっていい。

「リ、リカ様……」

 困惑したシィラの手が、そっとゼジッテリカの腕を撫でる。そしてもう一方の手でテーブルに触れ、そのまま倒れないよう慎重に体勢を整えた。どうやら自分の勢いは相当なものだったらしいと、ゼジッテリカは気づく。

「おやおや、ゼジッテリカ様もぞっこんのようですな。シィラ殿、あなたは罪深い人ですね」

 するとようやくバンの口が動き出した。再び細められた緑の瞳が、シィラにねっとりと張り付く。だが、先ほどとは明らかに漂う雰囲気が変わっていた。

 苦笑したシィラの手がそっとゼジッテリカの頭を撫でる。

「バンさん、からかうのは止めてください。それにリカ様も、危ないですよ? ほら、フォークも落ちてしまっています」

 柔らかくもまるでお小言のような声が、ゼジッテリカの鼓膜を震わせた。叱られているはずなのにどこか甘やかだ。その響きが懐かしくて、ゼジッテリカは頬を緩める。

 抱きついた腕が引きはがされないことにも安堵した。シィラの体は温かいし柔らかい。とても魔物と戦うような人間の体とは思えなかった。

「ゼジッテリカ、シィラ殿に甘えすぎてはいけないぞ。仕事の邪魔になっては困るからな」

 と、そこでようやくテキアの声がした。いつものように落ち着いた声音ではあるはずなのに、どことなく困惑が混じっているように聞こえるのは気のせいだろうか。

 ちらと視線を送れば、呆れたような困ったような目でテキアは苦笑していた。シィラにしがみついたままであるからだろう。よく考えてみると、誰かにこうして気軽に触れることもほとんどなかった。

「いいんですよ、テキア様。これくらいなら平気ですから」

 それでもそう答えたシィラの指先が、またゼジッテリカの髪を梳いた。この感触は何度経験しても気持ちがよい。つい瞳を細めてしまう。

「まるで子守ですね」というバンの呟きが耳に飛び込んできたが、この際それは気にしないことにした。意地の悪い大人の言うことには耳を貸すべきではないと、ゼジッテリカは学んだばかりだ。

「それならよいのですが。しかしシィラ殿、くれぐれも無茶はなさらないでくださいね。ゼジッテリカの我が侭に付き合っていては、あなたが大変ですから」

 ついで耳に飛び込んできたのは思わぬテキアの指摘だった。テキアがそんな風に誰かを気づかうのは珍しい気がした。特に商人相手には容赦のない言動をすると、使用人たちが噂していたのを覚えている。それとも、相手が護衛であれば違うのか。

「あら、テキア様が心配してくださるんですか? それは光栄ですけれど、私は大丈夫ですよ。そうしたくてやっているんですから」

 するとシィラはくつくつと笑った。その振動がシィラの体ごしにゼジッテリカにも伝わってくる。軽く結わえられた長い黒髪の先が、ゼジッテリカの視界の端で揺れた。

 やはりシィラは優しい。ただゼジッテリカの命を守りにきたのではなく、ゼジッテリカ自身を守ろうとしてくれている。このぬくもりが偽りのものであるとは、どうしても思えなかった。

 シィラは天の使いか、そうでなければ救世主だ。ゼジッテリカだけの救世主。

「ほほぅ、テキア殿はゼジッテリカ様だけでなく、シィラ殿にも甘いのですな」

 そこでまたもやバンが口を挟んできた。ゼジッテリカも疑問に思ったことではあるが、はっきりそう口にされると何故か胸の奥がぎゅっと痛む。

 いや、痛いのではなくむずがゆいのか。その理由がよくわからず、ゼジッテリカは恐る恐るもう一度テキアの方を見上げた。

「……バン殿」

 テキアはやはり困ったような笑みを浮かべていた。この怪しいバンが絡むと、テキアも調子が狂うのだろうか。それともシィラがいるからだろうか。

 またもやむずむずとした気持ちが湧き起こり、ゼジッテリカは腕に力を込めた。ほんの少し、寂しいような気がするのは何故だろう。

 ふいと、先ほどの自分の発言が頭をよぎる。シィラはゼジッテリカの直接護衛だ。自分のための護衛だ。ではテキアがシィラに優しくするのが気になるのはどうしてだろう。シィラがとられたような気がするから? それともテキアがとられたような気がするから?

 突として様々なことが不確かに思えてくる。自分の感情があやふやになり、見えなくなる。確かなのは、バンという存在が怪しいことだけだ。

「おや、言い過ぎましたかな。失礼を」

「あなたは軽率な言動が多すぎます。これ以上私の心労を増やさないでいただきたい。あらゆる可能性を考えて動くのは必要ですが、それ以外の場で護衛の諍いは最小限に。どうぞ肝に銘じておいてください」

 悪戯っぽく笑うバンに対して、真顔に戻ったテキアは低い声で忠告した。いつものテキアだ。そのことに得も言われぬ安堵感を覚えつつ、ゼジッテリカはそっと腕の力を緩めた。

 そしてなんとはなしに、シィラの手を見つめる。先ほどバンが口づけた白い手の甲が、妙に気になった。

「はい、もちろんです。シィラ殿が相手だからこその戯れですよ。どうぞご理解を。ではテキア殿、そろそろまいりましょうか。ゼジッテリカ様もこのように元気だとわかったのですから、次の手について相談いたしましょう」

 すると自分が巻き起こした騒動であることなど意に介した様子もなく、バンはその場で一礼した。これで話は終わりだと言わんばかりだ。テキアは一瞬虚を突かれたように片眉を跳ね上げたが、すぐに表情を取り繕う。

「そうですね。長居をしては食事の邪魔にもなってしまいます」

 テキアの眼差しが、ふいとゼジッテリカに向けられた。そこには先ほどとは違う柔らかい色が確かにあった。ゼジッテリカの知るテキアだ。自分を見守ってくれていた叔父の顔だ。

「ではゼジッテリカ、邪魔をして悪かったが食事の続きを。シィラ殿、ゼジッテリカを頼みます」

 口早にそう告げると、テキアは即座に踵を返した。まるでこれ以上ここで会話を続けたくないかのようにも見えた。バンが余計なことを口走るのを恐れたのかもしれない。

「うん」

 遠ざかっていくテキアの背中に向かって、ゼジッテリカは頷いた。テキアはそのまま振り返らなかった。そんなテキアを、バンは楽しげな様子で追っていく。空気を纏って揺れる奇妙な長衣の裾は、いつか見た舞踊の女を思い出させた。

「大丈夫」

 自分の声がいつになくぼんやりと響いたことを、ゼジッテリカは自覚する。

 魔物に狙われた家。見知らぬ護衛たちの会話が満ちる屋敷。今までの日常が失われつつある中、ゼジッテリカの胸の内でも何かが変わりつつあった。

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