第5話 相見えし敵
「アース殿!」
屋敷を囲む塀に飛び乗った男へと、ギャロッドは駆け寄った。後ろから数人の若者が追ってきているが、彼らを気遣う余裕などない。砂利を踏みしめる靴音にさえ苛立ちを覚える。
「一人で動くなと、あれほどっ」
いつもの癖で額当てに指で触れつつ、ギャロッドは息を整えた。ほとんど意味のないお守りのようなものだが、何度も彼に冷静さを取り戻させてくれた簡素な防具だ。
いつでも心を保つことが、技使いにとって重要な技術の一つだ。だから彼はこの額当てを長年大切に扱っていた。
「なんだ、ギャロッドか。遅いな。魔物が来るぞ」
塀の上で器用に片膝をついているのは、ほぼ黒ずくめの青年だ。屋敷外警備の副隊長に選ばれた、アースという名の無愛想な男だった。
その攻撃的な物言いが彼の立場を副隊長とさせているが、実力試験では二番手の成績を収めている。もっとも、一番の成績であった光靱のバンもアースも本気を出していなかったようだったが。
「魔物の話はケレナウスから聞いた。本当なのか?」
立ち止まったギャロッドは首を捻った。辺りを見回したが、特に異変らしきものは見当たらない。屋敷をぐるりと囲む塀には各所各所に護衛を配置しているが、彼らが動く気配も読み取れなかった。近づいてきている気は、ギャロッドを追いかけている若者のものだけだ。
「本当か、だと? お前には空に浮かぶあいつらの気が感じ取れないのか」
アースはちらとギャロッドへ視線を寄越し、呆れたように苦笑した。腰からぶら下げた長剣の柄に手をかける姿には、慣れが見える。それ以外の武具を全く身につけていなかったが、彼には不要なのだろう。身軽さをうりとする戦い方なのかもしれない。
「空……?」
「こんなに堂々と、気を隠しもせずに浮かんだままというのは、どう考えても挑発だ」
戸惑うギャロッドへ、アースはそう断言した。まるで魔物のことなら知り尽くしていると言わんばかりの言動を、どう受け取ってよいのか。ギャロッドが顔をしかめていると、追いついてきた若者たちの当惑した気も伝わって来た。この場で魔物の気とやらを感知しているのはアースだけらしい。
「距離はあるな」
アースは再び空を見上げた。気は生き物であれば誰もが放っているが、実力のある技使いや魔物ならば隠すことができる。アースに言わせれば魔物も今は隠していないようだが。実力だけでなく気の察知まで時だったのかと、ギャロッドは息を呑む。瞳をすがめ空を凝視してみても、それらしき姿は見当たらなかった。
「直視は無理か」
「当たり前だ。しかし相手は三匹だ。あの程度の数ならわれ一人で問題はないが、防御は留守になる。そっちは任せるぞ」
「あ、ああ。――って、アース殿、まさか一人で魔物に!?」
塀の上に立ったアースを、ギャロッドは慌てて見上げた。信じがたい宣言だった。魔物一匹相手でも骨が折れるというのに、複数相手に立ち回る気なのか。無謀だ。
だがアースには動じる素振りもなく、怪訝そうに肩越しに振り返るだけだ。首に巻かれた赤い布がその拍子に揺れた。
「当たり前だろう。信じられないならお前の判断で動け。そのかわり、邪魔はするなよ」
こともなげに言い放つアースに、ギャロッドは絶句した。信じられない。しかしこの男に何を言っても無駄なのは、昨日よくよく思い知らされている。おそらく、一人きりで星々を流れては依頼を受ける類の技使いなのだろう。連携というものを知らないに違いない。
「ほら、無駄話をしているうちに来るぞ」
と、アースは再び空を睥睨した。ぐっと歯を食いしばったギャロッドは、背後の若者たちへと向き直る。ここでギャロッドが動じていては、かろうじて保たれている護衛の統率が崩れてしまう。
「よし、君はケレナウスに連絡だ。第一部隊を展開しておくようにと。君と君はここで結界の準備だ。とにかく屋敷は守らなければならない」
ギャロッドは若者たちに神妙に告げた。護衛らは訓練された兵士とは違う。長年それぞれの判断で動いてきた変わり者か、そうでなければ大貴族に季節ごとに雇われているような者たちだ。大人数の人間を動かすのに長けた者も、動かされるのに慣れた者も少なかった。
これがギャロッドが最も懸念している点だ。どんなに人数を集めたところで、まともに行動できなければ意味がない。
「頼むぞ」
ちょっとした物言いが反感を買う可能性がある。ギャロッドは若者たちの肩を叩きつつ、アースの背中へと一瞥をくれた。実力者とて一人ではなし得ぬことがある。その点で、この男は不安材料だった。
「来るぞ」
アースの一言に、ギャロッドは頷いた。まずはこの襲撃をしのぐ必要があることは百も承知だ。
魔物は闇に紛れて要人を襲うことも多かったが、金持ちが技使いを雇ったような場合には、こうして堂々と姿を見せることもあった。そして護衛となった技使いを残忍な方法で殺し、周囲を絶望に陥れる。ギャロッドは何度もそういった話を耳にした。それが魔物のやり方なのだ。
凄惨な現場を思い出し唇を噛んだところで、ギャロッドにもようやくその気配が関知できるようになった。空からこちらへと近づいてくる気が三つ、確かに存在している。
「人型だな」
独りごちるアースの声に、ギャロッドは喉を鳴らした。魔物は獣の姿をとることが多かったが、まれに人型のものも現れた。そういった魔物の方が強者であることは、経験上知っている。
「アース殿――」
「狼狽えるな。怖いなら引っ込んでいろ」
それなのにアースの気には喜びの色が滲んでいた。まるで強い相手と戦えることが嬉しいと言わんばかりだ。狂っていると、ギャロッドは息を呑む。この男はやはりおかしい。
不意に、風が止んだ。ギャロッドにはそう感じられた。同時に、空から急降下する青年の姿が視界に入った。
真っ赤な髪に、冗談じみたように全身赤一色を纏った男だ。口の端をつり上げたその男が魔物であることは、ギャロッドにもすぐにわかった。人間としてはあり得ぬあの鮮やかな髪の色は、人型の魔族の特徴だ。
「まずは一匹」
長剣を構えたアースが笑ったように見えた。このまま魔物を塀の上で迎え撃つ気なのか?
迫り来る赤い魔物の左手が動く。その手のひらから生み出された黄色い光弾が、アースに向かって放たれた。雷系だろうか? ギャロッドは結界の心づもりをしながら、周囲へと視線を走らせた。配置された護衛たちの狼狽える気配が感じられる。
即座に、アースが動いた。塀を蹴り上げる動きはしなやかで、一寸の迷いも感じ取れなかった。体に風を纏わせたアースの右腕が、剣を横薙ぎに振るう。素早い。
技と技が触れ合う時特有の、耳障りな高音が響いた。同時に、真っ二つになった光弾の残渣が、ギャロッドの目に飛び込んできた。
はっとしたギャロッドは慌てて結界を張る。信じられなかった。技で生み出されたものを、通常の剣でこうもあっさり切れるはずがない。一体どんな業物なのか。
「伏せろっ」
号令を掛けつつ、ギャロッドは歯噛みした。彼が慌てて生み出した透明な膜は、砕かれた黄色い光をかろうじて弾き返した。咄嗟に生み出したものとしては上出来だ。魔物も本気ではなかったのか? いや、アースのあの剣の効果か?
バチバチと何かが爆ぜる音がする。空気へと溶ける光の名残を視界に入れながら、ギャロッドは視線を上へと移した。ちょうど赤い魔物の胴に、アースの長剣が食い込む瞬間が目に飛び込んできた。
「そんな」
感嘆の言葉は一体誰が漏らしたものだったのか。自分か、それとも後ろの若者か。それすら定かではない。
嘘のようだ。この一瞬で、空中で、向かい来る魔物を切り捨てる力を持つ者がいるとは。
血しぶきを浴びながらも、アースは平然と空中で体勢を整える。空を飛ぶことは技使いにとって重要な技術の一つではあるが、そのまま戦えるかどうかは全く別の話となる。けれども彼にとっては造作もないことのように見えた。
くぐもった悲鳴と共に、赤い魔物が地へ落ちていく。ギャロッドは左後ろに控える若者へと目配せした。魔物が消えるところをこの目で確かめるまでは油断できない。とどめが必要だ。
「はい」
察しの良い若者は、すぐに走り出した。まだ幼さの残る顔立ちだが、実力試験に残るだけのことはある。判断が早い。
魔物に効果があるのはある種の特別な技か、特殊な武器くらいだ。この依頼を受けようとするくらいだから、どちらかは身につけているはずだろう。ギャロッドはそう判断する。
「よし」
相槌を打ちつつ、ギャロッドは再びアースの方へと双眸を向けた。まだ魔物は二匹残っている。
アースは赤い魔物を打ち倒した高揚感など微塵も感じさせず、ただ空を見据えていた。その視線の先、空からゆっくり降りてきているのは白い魔物だ。白髪を束ねた青白い肌の男で、冷たい眼差しでこちらを見下ろしているように感じられたる。端正な顔立ちに、深い青の衣と白銀の留め具がよく映えていた。
そしてそのさらに向こう側には、黒いマントに身を包んだ水色の髪の青年がいた。――少年と呼んでも差し支えない風貌だが、魔物が見た目通りの年ではないことはギャロッドもわかっている。見た目の威圧感を利用するつもりがない分、要注意だ。
「まったく、なんて奴らだ」
思わずギャロッドは呻いた。人型の魔物が三匹とは、ずいぶんあちらも慎重に動いているように思えた。アースのような実力者がいることを見越してきたのだろうか? ならば、こちらはそれ以上の結果を見せつけなければならない。
視界の隅では、顔の血しぶきをぬぐったアースが再び剣を構えていた。なるほど、空中戦まで考えるなら防具は邪魔なのだろうと、ギャロッドはようやく理解する。
「この、人間風情が」
と、白い魔物の口が動いた。その唇が紡ぎ出す明確な言語を、ギャロッドは信じがたい思いで聞いた。魔物たちが喋るのを聞くのは本当に久しぶりだ。それだけ相手にも動揺を与えられたのだろう。
「ならば見せつけてみろ」
ついで、アースが動いた。まるで見えない壁でもあるかのように空を蹴り上げ、長剣を振りかざす。その軌跡がほんのり淡く輝く様は、美しいとさえ言えた。
白い魔物も速度を上げた。結い上げられた白髪を揺らしながら、無数とも思える炎の矢を放つ。ギャロッドは息を詰めつつ、両手を掲げた。
アースはこの矢の群れすらもどうにかするだろうが、そのうちの半分は地上に落ちてくるだろう。防御は任せるとはおそらくそういう意味だ。ああいう手合いにはよくあることだった。
「好き勝手してくれる」
ぼやきながらもギャロッドは結界を生み出す。その間に、アースは赤い矢の大群をかいくぐりながら白い魔物へと肉薄する。どうやら落ちてくる矢は半分どころではないようだ。思わず舌打ちしたくなるのを堪え、ギャロッドは奥歯を噛んだ。
広範囲にわたる結界は、負担も大きい。だがここでギャロッドが怯んでは、他の護衛の士気にも影響する。これは今後を左右する戦闘なのだ。
「ギャロッド殿!」
残った若者の切羽詰まった声は、透明な膜に弾かれる矢の音に瞬く間にかき消された。めまいがしそうになる。ばちばちと目の前で弾けては消える赤い光の大群が、空の戦の行く末すら隠してしまっていた。
アースの気と白い魔物の気はまだ存在している。そこに、水色の魔物の気が近づいている。このままでは二対一だ。
ギャロッドは瞳を細め、結界へと精神を集中させた。額当てに触れたくなるのを堪えるのは、骨が折れそうだった。
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