第6話 世界の見え方

 静かな部屋では、窓が小刻みに震える音すら大きく響くように感じられた。背を丸めたゼジッテリカは人形を抱きしめる。

 どうやら魔物がやってきたことは確からしい。先ほど、部屋の前を通り過ぎる護衛たちの話し声が聞こえた。慌ただしく走り回る彼らの気配が、現実の重さをゼジッテリカに叩きつけてくる。

 ベッドの上に腰掛けたゼジッテリカは、思わず傍に立つシィラを見上げた。彼女は時折天井辺りを見上げては瞳をすがめている。戦闘の気配を読み取ろうとしているのだろうか?

 もし、これだけの護衛を集めても歯が立たなかったら。屋敷に押し入られるようなことになったら。

 そう考えると体が強ばる。今までの漠然とした不安が、一気に現実的な想像を伴って襲いかかってきた。魔物がこの部屋まで来たら、シィラは戦うのだろうか?

「リカ様、大丈夫です?」

 と、不意にシィラがこちらを見た。いつもの穏やかな眼差しに気遣わしげな声が、絶望的な気持ちをふわりと包み込む。シィラは全く動じていない。そのことがゼジッテリカにはとてつもなく頼もしく感じられた。

「う、うん。魔物が来たんだよね?」

 ゼジッテリカは人形を隣に座らせる。こんなにも早く魔物が動くとは、正直思っていなかった。護衛を雇うのがもう少し遅かったらどうなっていたのかなど、考えたくもない。

「はい。今は屋敷の外ですね。屋敷外の護衛たちが戦っています。こちらの方が優勢ですので、リカ様はどうか心配しないでください」

 頷いたシィラはふわりと顔をほころばせた。その言葉が単なる気休めなのか事実なのか、ゼジッテリカにはわからない。大人はいつもそんな態度をとる。恐ろしい事実を伏せて、ゼジッテリカを安心させようとする。

「この部屋からでもわかるの?」

 今までなら黙っていただろうことを、ゼジッテリカは率直に尋ねてみた。シィラなら何か答えてくれるのではないかという、わずかな期待もあった。部屋の外に連れ出してくれたシィラなら、ごまかさずに教えてくれるのではないかと。

「はい。先ほども言いましたが、技使いには気というものが感じられるんです。戦っている気配も、その時どちらが焦っていてどちらが落ち着いているのかも、気でわかります。強さや感情が、気でわかるんですよ」

 期待は裏切られなかった。表情を変えずに答えたシィラは、少しだけ背をかがめてゼジッテリカの顔をのぞき込んでくる。深い黒の瞳に見据えられて、ゼジッテリカは息を呑んだ。

 この真っ直ぐな視線は嘘を吐いている人間のものとは思えない。

「だから今、リカ様が不安に思っているのも伝わってきます」

 そう告げられて、ゼジッテリカは絶句した。つまり、こちらの気持ちは筒抜けということなのだろうか? そう思うと急に気恥ずかしくなってくる。技使いが相手だと、取り繕いは無意味らしい。

「あっ」

 そこでゼジッテリカは気がついた。テキアも技使いだ。だから何も教えてくれない大人たちとは違い、テキアは時折真面目な話もしてくれたのだろうか? ゼジッテリカが何を不満に思っているのか、気づいていたのだろうか。

「じゃ、じゃあ、テキア叔父様も?」

「そうですね。もちろん、どのくらい気づけるのかは人それぞれです。目の良い人と悪い人がいるみたいに。それでも近くにいるよく知っている人のことなら、気づきやすいと思います」

 相槌を打つシィラから、ゼジッテリカはそっと視線を外した。知らなかった。テキアにはずっと、他の人には見えないものが見えていたのだ。

「じゃあ、嘘吐いていたらわかるんだね」

「それはどうでしょう。わかるのは感情だけです。傷つけたいとか、怖がらせたいとか、そういう気持ちはわかります。でも純粋に心配しながら嘘を吐かれたら、本当のことかどうかは区別できませんね」

 しかしほっとするのも束の間、シィラはふるふると首を横に振った。どうやら全てを見透かしてしまうようなものではないらしい。難しい話だ。だがこうやって話をしている方が気が紛れる。

「そうなんだ……もしかして、魔物にもそれはわかるの?」

 ふいと、ゼジッテリカは先ほどの廊下での会話を思い出した。魔物は強い技が使えるのだという。ならば魔物にも、こちらの気持ちは伝わってしまうのだろうか?

「ええ。もちろん彼らも気を感じ取ります。そして、彼らは強い感情を求めています。強い不安を求めています。だからここを狙っているんですよ」

 見上げた先のシィラは、どことなく神妙な眼差しをしていた。纏う気配も変わったようだった。今までずっと疑問だったことに話の矛先が向けられたことに気がつき、ゼジッテリカは固唾を呑む。

「どうしてここなの?」

 何故自分たちばかり執拗に狙われるのか。金持ちが狙われやすいという噂を聞いたことはあるが、ファミィール家に対してはいっそう執着しているように感じられた。魔物の恨みを買うようなことがあったのだろうかと、不思議に思っていたところだ。

「ファミィール家は、このファラールという星の中心だからです」

 言葉を選ぶよう視線を彷徨わせた後、シィラは口を開いた。そう言われて、ゼジッテリカは瞬きをする。確かに、現在のファミィール家はこの星のあらゆる活動に影響を与えるほどに力があるという。長年かけて積み上げられた地位だ。

「今ファミィール家に何かがあれば、どうなるでしょう。継ぐ人がいなくなったらどうなるでしょう。色々な場所に影響が出ますよね。みんな不安になりますよね。それが星全体にまで広がったら、大変なことになります。魔物はそれを狙っているんです。できるだけ多くの人を、できるだけ一斉に、長く、不安にさせたいんです」

 シィラはできる限り噛み砕いて説明してくれたようだった。しかしぴんとくるようなこないような、なんとも言えぬ話だった。それでも影響力故にファミィール家が狙われているというのは、すとんとゼジッテリカの腑に落ちた。

 だからテキアは自分自身とゼジッテリカを守ろうとしたのか。ファミィール家の血を絶やさないために。

「ですから、私たちはその点でも魔物に勝たないといけません。完全な勝利を収め、周囲にもう安心だと伝えなくてはいけません。まずは、そうですね、リカ様からですね」

 不意に片膝をついたシィラが、また顔をのぞき込んできた。ついで、ふわりと額をかすめる何かを感じた。それが口づけだったのだと気づいたゼジッテリカは、目を見開き呆然とする。

 この感覚は久しぶりだった。母が亡くなる前は、一人になるのは嫌だと駄々をこねる度にそうしてくれた。父はそうした接触を好まなかったから、本当に母だけだ。

「え、え……」

 戸惑いと恥ずかしさで頭が真っ白になる。今外で戦闘が行われているという事実さえ忘れてしまいそうだった。

「私はリカ様の直接護衛ですから、お守りするのは当然ですが。でも怯えたままではいて欲しくないんです」

 ふわりと微笑むシィラの顔を、凝視などしていられなかった。顔を背けたゼジッテリカは唇を引き結ぶ。じわりじわりと胸の奥が温かく、何かが解けているのが感じられる。しかしそれと同じくらい、わびしさもあった。

「でもそれは、ファラールの中心にいる、ファミィール家の娘だからだよね?」

 魔物の狙いはわかった。皆がゼジッテリカを守ろうとしてくれる理由もわかった。だがそれはファラールの、ファミィール家の未来を守るためである。

 ならばゼジッテリカはそのどこに立っているのだろう。自分という存在は、ファミィール家の中に飲み込まれているのだろうか?

 父はファミィール家のためだとよく口にしていた。その度に寂しさを覚えた。自分にいつも張り付くファミィール家の名前が、時々重かった。母がいなくなってしまって、いっそうそれは強まった。

「――リカ様はそれで傷ついていらっしゃるんですね」

 すると何かを絞り出すよう、シィラは口を開いた。視界の隅に映るシィラの顔は、どこか少し寂しげだった。その理由がわからず眉根を寄せていると、シィラの手がそっと手の甲に触れてくる。そこでようやく、自分の指先が震えていたことに気がついた。

「確かに皆さんが守ろうとしているのは、ファミィール家の娘としてのリカ様です。でも忘れないでください。リカ様はリカ様であると同時に、ファミィール家の一員なんです。それらを切り離すことはできないんですよ。誰もが、そういう幾つもの自分を抱えているんです」

 シィラの説明は、ゼジッテリカには難しかった。何を言わんとしているのかはわからないが、それでもゼジッテリカを慰めようとしてくれていることは伝わってくる。

 シィラが案じているのはファミィール家の娘なのだろうか。それともゼジッテリカなのだろうか。だが直接護衛だからといって、こんな話をする必要はないはずだ。シィラは一体、何を思っているのだろう。その「気」というものが読み取れたら、ゼジッテリカにもわかるのだろうか?

 と、再び大きく窓が揺れた。はっと顔を上げたゼジッテリカの横で、シィラが即座に立ち上がる。忘れかけていた戦闘の気配に、ゼジッテリカの鼓動は早鐘のように鳴った。

「残りは一人ですね」

「……え?」

「魔物の数です」

 だがシィラが口にしたのは予想外の言葉で。思わずゼジッテリカは素っ頓狂な声を上げた。その言葉を、どう受け取ったらよいのだろう。そもそも魔物が複数いるなど想像もしなかった。

「屋根の一部に光弾が当たってしまったようですが、こちらが優勢なのには変わりません」

「ご、護衛って、強いんだ……」

 今まで耳にしてきた数々の噂がゼジッテリカの頭をかすめた。皆、恐ろしい魔物の強さについて語っていた。そんな存在に対抗できる人間がいるというのはいまだに信じがたい。

「テキア様は、そういう強い護衛を集めましたからね」

 髪を背へと流したシィラは微苦笑を浮かべた。顔を上げたゼジッテリカは瞬きをする。今の表情は見慣れない。

「じゃあ、本当にシィラも強いんだね」

「まあ、そうですね。それなりの腕だと自負はしていますよ。だからリカ様は私が必ず守ります」

 ゼジッテリカはそっとベッドから足を下ろし、人形を抱え上げた。空虚ではない、思いのこもった確かな一言によって、恐怖心が消えていく。

「うん」

 きっとシィラの知る世界は、使用人たちが知っている世界とも違うのだろう。そう思うことにした。ゼジッテリカも怯えたままでいるのは嫌だった。その方がテキアもきっと喜ぶはずだ。

「ああ、終わったみたいです」

 そこでシィラは再び天井辺りを見上げた。その声音に滲む安堵は、ゼジッテリカにも感じ取れた。「終わった」というのは、こちらの勝利を意味しているのだろう。襲ってきた魔物を倒したに違いない。

「勝ったの?」

「はい、襲撃してきた魔物は皆打ち倒しました。あちらは出鼻を挫かれた形になりますね。これで、不安に思っていた護衛の人たちの緊張もほぐれるでしょう」

 シィラはわずかに肩をすくめさせた。先ほどの強い護衛の話とは真逆の発言に、ゼジッテリカは首を捻る。

「不安に?」

「皆が皆、自信たっぷりというわけではないんですよ。でも、これできっと大丈夫です」

 軽く相槌を打ったシィラは、またやおら腰を屈めた。緩く結わえられた黒髪が揺れる様が、何故かゼジッテリカの視線を奪う。シィラの仕草はどれも魅力的だ。今まで見かけたどの女性とも違う。

「ではテキア様のところにでも行きましょうか。リカ様の無事を伝えた、テキア様も安心させてあげないと」

 どこか悪戯っぽく笑ったシィラに、ゼジッテリカは大きく頷いた。

 不思議な護衛だが、こうして話をしている時間は楽しい。今までのお喋りの時間を足しても敵わないくらい、たくさん話しているような気がしてならなかった。何を尋ねても、シィラはすぐに答えてくれる。それが嬉しい。

「そうだね」

 テキアに会ったら何と言おうか。そう考えるだけで奇妙な高揚感に襲われた。この気持ちはきっとテキアにも伝わってしまうのだろう。だがそれも今はよいことなのかもしれないと、ゼジッテリカは思うことにした。

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