第1話 虚しい儀式
ゼジッテリカが部屋を出るのは久方ぶりのことだった。しかしそれが父の葬儀のためとなれば、はしゃぐような気持ちにもなれない。
大切な人形を抱きしめたゼジッテリカは、自身もまるで人形のようにひたすら屋敷の大広間で立ち尽くしていた。隣に立つ叔父テキアの声も遠い。父の死を悼む者たちの言葉は、なお遠かった。
葬儀とはいっても、形ばかりのものだ。本来であればファミィール家の威光を示すため各地から人を呼び寄せるところだが、護衛的な観点からそれは取りやめとなったという。
今この屋敷の中にいるのはファミィールの関係者や、屋敷の使用人たちだけだ。天井の高い、厳かな広間がまるで何かの抜け殻のように思えてくる。
「かわいそうに」
ふいと、誰かの漏らした言葉がゼジッテリカの鼓膜を叩いた。ぎゅっと唇を引き結び、ゼジッテリカは目を伏せる。
父サキロイカを亡くしたかわいそうな娘。没落の一途を辿るだろう家に取り残された哀れな少女。
大人たちが何を口にしているのか、ゼジッテリカにはわかっていた。彼らは日々あえて難しい言葉を使って会話していたが、それをこの幼い少女が理解しているとは思ってもいないだろう。
部屋を出ることをほぼ禁じられていたゼジッテリカは、もっぱら本を慰みとしていた。子ども向けの本を読み切った彼女は、手当たり次第に大人向けのものまで手を出すようになった。そのうち、自然と周囲の人間が何を話しているのか把握できるようになった。
「テキア様、あなたはどうか」
まるで誰かの祈るような声がすすり泣きに混じって聞こえる。ゼジッテリカは、人形を抱く手にさらに力を込めた。
ファミィール家の人間が次々と亡くなったのを、偶然の一言で片付ける大人たちは馬鹿だ。それでゼジッテリカが納得すると思っているのだろうか。
父が突然倒れたと耳にしたのは、五日ほど前のことだった。本当に帰らぬ人となったのがいつのことなのか、ゼジッテリカには知らされていない。
「皆様、ありがとうございます」
忽然と、テキアの声が大きくなった。わずかに顔を上げたゼジッテリカは、横目でテキアを見る。黒い喪服に身を包んだまだ若い叔父は、神妙な顔で人々に向かって口を開いていた。
今、全ての期待を一身に背負っている人だ。それは家の内情については知らぬゼジッテリカにも理解できる。当主の娘である彼女がまだ八歳なため、まだまだこの家を取り仕切ることはできない。その役目が果たせるのは、テキアの他にはいなかった。
「明日から、この屋敷に護衛が入ります」
大広間が静まりかえった。皆が知っていた事実のはずだが、こうした場でテキアが発言するのは初めてなのだろうか。それとも、ただならぬ空気を感じ取っているのか。
「私たちには兄の死を悲しむ時間などありません。皆様ご承知の通り、我々はどうやら魔物に狙われているようです。じっとしているだけでは、死を待つばかりとなるでしょう」
ざわりと、動揺が広がった。青白い皆の顔が強ばるのが、ゼジッテリカにも見えた。きっと、それをここで口にするのかと問いたいのだろう。ゼジッテリカの前で口にしてもよいのかと。
「魔物に対抗できるのは、技使いだけです」
だがここでテキアに意見できる者などいない。そもそも使用人たちの噂話から、ゼジッテリカは既にそれらを知っていた。ファミィール家を狙っているのは謎の魔物ではないかと、ずいぶん前から聞いていた。
「ですから技使いを雇いました」
ゼジッテリカは、人形の金の髪をそっと撫でた。明日から、審査を受けた護衛がこの屋敷に来る。それは葬儀の直前にテキアから聞かされた。ゼジッテリカの部屋にも入るというから驚きだった。あそこは父と母、テキア、使用人だけしか入れていなかったのに。
「皆、屈強な者たちです。そして私が直接顔を確認しています。信用できないとお思いでしょうが、どうか私を信じてください」
テキアにそう頼まれたら、誰も異を唱えることなどできないだろう。ゼジッテリカたちとは違い、テキアは技使いだ。技使いには技使いにしかわからない感覚があるのだという。おそらく、それを使ったのだろう。
魔物に対抗するためには、技を操る人間でなければならない。不可思議な力を使うという者たちは、大人は技使いと呼んでいる。炎や水を自在に操るというその力がなければ、魔物には敵わない。だからゼジッテリカたちだけでは駄目なのだ。
それでも見知らぬ者たちが大勢屋敷に入ることに、抵抗がないわけではなかった。
「名の通った流れの技使いも雇いました。腕は確かです。どうかお願いします」
テキアの懇願を耳にしながら、ゼジッテリカは足下を見下ろした。灰色のワンピースの裾からのぞく黒い靴。大広間の明かりで鈍く光るそれは、一度も履いたことがなかった。やや大きいのは、慌てて揃えたからだろう。
ずいぶん前に亡くなった母は、可愛らしい淡い色を好んだという。だからゼジッテリカのためにと用意されたものは、華やかで軽やかな装いのものばかりだった。母譲りの金の髪がよく映えると、使用人たちはよく褒めてくれた。
だがもう母はいない。父もいなくなった。ゼジッテリカの知る屋敷はなくなったも当然だ。残されたのは、ゼジッテリカと人形だけ。
「さあ、ゼジッテリカ」
そこで不意に肩を叩かれ、ゼジッテリカは体を強ばらせた。慌てて隣を見上げれば、テキアが気遣わしげな微笑を浮かべてこちらを見ている。いつの間にか話は終わったらしい。
「部屋へ戻ろう」
「……うん」
テキアのそんな顔を見てしまうと、何も言えなくなる。ゼジッテリカが唯一頼れる大人だ。これ以上迷惑をかけたくはない。
差し出された手を握れば、大広間の人々が脇へ退けるのが視界に入った。また、あの静かで寒々としたひとりぼっちの部屋に戻るのだと実感して、ゼジッテリカは目を伏せる。
テキアの傍にいるのが一番安心する。そして安全だ。しかしだからといってずっと一緒にはいられない。テキアにはやらなければならないことが山ほどあった。彼はほとんど眠っていないのではないかと、ゼジッテリカはいつも心配している。
「疲れたか? ゼジッテリカ」
柔らかい絨毯を見下ろしながら歩を進めていると、テキアの声が降りかかった。顔を上げずに、ゼジッテリカは首を横に振る。癖のある柔らかい髪が、ふわふわと頬を撫でた。
「ううん、大丈夫」
「そうか。今夜は一人で寝られそうか?」
大広間を出たところで、テキアは優しく問いかけてきた。昨夜、眠りにつくまで傍にいて欲しいと我が儘を言ってしまったせいだろう。あんまり心細かったものだから、無理難題を突き付けてしまった。テキアにはいくら時間があっても足りないのに。
「うん、平気。人形と一緒に寝る」
ゼジッテリカは言葉少なに答えた。人気のない廊下では、そんな小さな声さえも妙によく響くように感じられる。硬い靴の奏でる音も心なしか甲高い。
「明日からは、護衛がゼジッテリカの部屋にも入ることになる」
葬儀の前にされた話を、テキアは繰り返した。もちろん女性だというのでその点では胸を撫で下ろしたが、それでも見知らぬ者が傍にいることを考えるだけで気が滅入る。
「それって、もしかして夜もってこと?」
はたと気がついたゼジッテリカは、勢いよく顔を上げた。テキアは切れ長の瞳をいつも以上に細め、何か言いたげな表情を浮かべている。
「そういうことになる」
「うそ。そんなの絶対に寝られない」
ゼジッテリカはわざとらしく唇をすぼめた。強く足を踏み出したせいで、さらに大きく靴音が反響する。
「だが念のためだ。魔物の恐ろしさは、ゼジッテリカも耳にしているだろう?」
「知ってる。でも、知らない人にずっと見られてるのも怖いよ。……もう、誰が来るのか決まってるの?」
瞳を瞬かせて、ゼジッテリカは息を呑んだ。女性の技使がこの世の中にどのくらいいるのかは知らないが、護衛をやるような人間は少ないに違いなかった。
日に焼けた色黒の、男のような者だろうか? それとも経験豊富な老婆のような者だろうか? 厳しい使用人のような性格ではないことを祈るしかない。
「ああ。絵師に描かせたものがあるが、見るか?」
「え、テキア叔父様ったら、そんなことまでしてるの?」
「護衛も大人数だからな。把握のためだ」
ゆっくり歩くテキアの横顔を、ゼジッテリカはまた見上げた。彼の手が黒い上着の懐から何かを取り出す。それが絵師に描かせたというものなのか。
「これだ」
「え、うそ」
テキアの手を離したゼジッテリカは、そのまま腕を伸ばした。そして受け取った紙をのぞき込み、目を丸くする。想像していたどの顔にも当てはまらなかった。
「この人、とっても若く見えるんだけど」
「さあ。見た目通りの年齢かどうかはわからないさ。技使いの中には四十を過ぎても若者のように振る舞える者もいるという。年齢不詳なんだ」
つい足を止めそうになったゼジッテリカは、紙とテキアの顔を交互に見比べた。描かれているのは二十歳くらいの女性のように見えるが、テキアの言葉から考えれば、実は彼よりも年上という可能性もあるらしい。
「こんな危険な依頼を受けにくるくらいだから、自信はあるんだろう。実際、試験でも十の内に入る成績だ」
ゼジッテリカに話しかけるというよりはまるで独りごちるかのように、テキアはそう告げた。テキアの長い足を横目に、ゼジッテリカは首を傾げる。
「でも、危ないからお金はいっぱいあげるんでしょう?」
使用人の噂話では、破格の依頼料とのことだった。魔物が相手となれば、金額をつり上げなければ強者が集まらないらしい。だがそのせいで護衛として申し出てきた技使いは予想以上の数だったという。試験をして選んだというから驚きだ。
「もちろん。ここで出し渋れば、よからぬ騒ぎまで起こしてしまう」
他の大人たちとは違い、テキアは時折こういった話もしてくれる。一人前として扱われているようで、ゼジッテリカは少しだけ嬉しかった。だが同じくらい、現実が悲しかった。
「すまないな、ゼジッテリカ。だが魔物を倒すことができるまでの辛抱だ」
「……うん」
ゼジッテリカは再び紙を見つめた。長い髪の、一見おとなしそうな女性。子どもの我が儘の振りでもしてうまくあしらえば、どうにか一人の時間を確保できるだろうか。
人形を抱えた腕に力を入れ、ゼジッテリカは俯いた。緩い黒い靴が、かつんとまた大きな音を立てた。
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