ファラールの舞曲
藍間真珠
プロローグ ―交錯―
冷たい雨の中、路上に一人の男が倒れていた。
天を見上げる男の顔は、暗がりの中でも目立つ程に青白い。荒く繰り返される息は徐々に不規則となり、揺らぐ蝋の炎のように頼りげがなかった。吹き付ける風がその黒髪を撫でるも、彼は動くことさえできない。
震える男の指先が、水溜まりに不規則な波紋を作り出す。彼の指先から滴る血は、見る見る間に濁った水と混じりながら、灰色の石畳へ沈んでいった。
「ま、ま、も……」
男の口からはうわごとのように声が漏れ出ていた。しかしそれは壊れた笛のような歪な音しかなさず、傍に人がいたとしても聞き取れるものではない。また強い雨音が、それをさらにかき消していた。
拗くれたように曲がった足の先が、何かを求めるがごとく古びた石を擦る。男の体に巻き付いていた黒い上着が、びちゃりと水溜まりの中へ落ちた。
「遅かったか!?」
そこへ雨音を裂くような声が響いた。倒れた男に、駆け寄る青年の姿があった。目深にかぶったフードから、青の瞳がかすかにのぞいている。雨除けのマントの裾をはためかせながら、青年は走っていた。
「不覚だったな」
倒れた男の傍らに膝をつき、青年はその手首に触れた。不自然な痙攣を起こした腕は雨とも血とも判然とせぬもので濡れている。その肌はもはや人のものとは思えぬ程に冷え切っていた。
「まさかこちらを先に狙うとはな」
心底悔しげな青年の声が、人気のない路上に染み渡る。雨足は強くなるばかりだ。瞳を細めた青年は、おもむろに手のひらを男の胸へとかざした。ほぼ同時に、男は口から何かを吐き出した。べちゃりと白い口元を濡らす赤。それは街灯の明かりの下でさえ、鮮やかに見えた。
「もう、間に合わないか」
手を下ろした青年は、肩の力を落とした。その間も、まだ男のうわごとは続いている。遺言か何かかとそれに耳を傾け、青年は息を潜めた。
「ま、ま、まも、まも、の、こ、こ、ま」
「魔物、か?」
青年はかすかに聞き取れる単語を繰り返してみたが、男が答えを返すことはなかった。ただ同じ言葉だけを繰り返す彼の眼差しは、重苦しい空をぼんやりと見つめるだけ。
いや、既にその視線も定まっていない。黒い瞳はもう、どこも見てはいなかった。
「ま、まも……」
青年は軽く首を横に振ると、そっと男の体から上着を引き剥がす。ついでその傷を確認し始めた。体中に何かで斬られた跡が見受けられるが、致命傷となったのは切り裂かれた腹だろう。
だが剣で斬られたにしては傷口の形がいびつで、かといって突き刺されたにしては広範囲だ。不定の刃のようなもので切り払われた時の特徴だった。『技』によるものとしか考えられない。
「ん?」
男の腕を持ち上げようとしたところで、その手のひらに何かがあるのが見えた。青年は瞳をすがめる。硬く握られた男の左手から、銀の鎖が飛び出している。
男の手をゆっくりと開かせてみれば、握られていたのはペンダントだった。青年にも見覚えがある。表面に紋章の掘られたそれは、一目で高価な物だとわかる精緻さだ。
「ファミィール家の紋章か」
思わず呟いた青年は苦笑をこぼした。最後までこれを手放さなかったのは、ある種の意地なのだろうか。
『成り上がり』と陰で揶揄され嘲笑されていたファミィール家の人間は、いつしか自分たちの身分を示すための紋章を生み出した。まるでそれを何かの証とするように。
滑稽な話ではあるが、けれどもそれが今この場にあることは、青年には好都合だった。手にとってみれば中が開く構造になっている。慎重に開けると、そこにはファミィール家の者たちらしき姿が、小さいながらも描き出されていた。
「もう、暗がりにはいられないということか」
青年はフードの端を指で押さえた。ガクガクと揺れていた男の指先が、不意にぴたりと止まる。もう、触れてかすかにわかる程度にしか胸も上下していなかった。うわごともいつの間にか止んでいる。
おそらく、二度と声を発することはないだろう。青年は男に向かって深く頭を垂れると、ついと瞳を固く閉じた。
雨足が弱まる気配はない。強く吹く風が青年のマントを揺らし、フードをはためかせた。息を吐いた青年は俯いたまま、強くペンダントを握りしめた。
そして、偽りに彩られた舞曲が始まる。
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