「守り手たちへの後奏曲」
小さなかごを手にした“テキア”は、人気のない廊下をゆっくり歩いていた。単調な靴音が反響するも、それは話し声一つしない空間では静寂を強調するばかり。つい先ほどまで賑やかだったのが嘘みたいだと、彼は思わず微苦笑を浮かべた。
久しぶりに会ったゼジッテリカの息子たちは、ずいぶんと大きくなっていた。ただし寂しがり屋なところは相変わらずらしく、引き離すのにずいぶん手間取ってしまった。
彼らはもう何歳になるのだろう? 生まれたのがついこの間のことのようだと思いつつ、テキアは切れ長の瞳をわずかに細めた。
普段は誰も利用しない屋敷奥の一室を、彼は目指していた。そこには先日より寝込んでいるゼジッテリカがいる。その“気”からも確かなことだった。
使用人たちは「少し体調を崩しただけだ」と口々に言っていたが、それだけでそんな奥に引きこもるのは妙だ。何かあるのだろう。
それが最悪の事態ではないことを祈りつつ、彼は翻った黒いコートの裾を一瞥した。白に近い色合いで統一された内装の中で、彼の黒は妙に目立つ。
急いだつもりはなかったが、部屋まで辿り着くのにそれほど時間はかからなかった。目指す部屋の扉はこぢんまりとしていた。屋敷の中では質素な方に入るだろう。金の取っ手だけが目印のようにその存在を主張している。
彼は軽く眉根を寄せると白髪交じりの髪を撫でつけた。そしてため息一つこぼし、数度扉を叩く。
「はい、どうぞー」
軽やかな声がすぐさま扉の向こうから聞こえてきた。起きていたらしい。
彼は意識して口角を上げると、取っ手を握って扉を押し開けた。予想通り、小さな部屋だった。その大半がベッドで占められており、脇に控えめな棚と台が置かれているくらいだ。
白と茶で統一された室内で、ゼジッテリカの金の髪がひときわ目立っていた。いつからか伸ばしていたその髪は、今は腰に届くほどある。それが窓から差し込む陽光に照らし出され、淡く輝いていた。
「お久しぶりです、テキア叔父様」
青い瞳を細め、頭を傾けてゼジッテリカは微笑んだ。春先に顔を合わせた時と何ら変わらぬ、朗らかな微笑だった。しかしよく見ればその肌は病的に青白く、頬もやせていた。彼は後ろ手に扉を閉めると、静かにベッドの傍へと寄る。
「ああ。久しぶりだな、ゼジッテリカ」
「叔父様がここに帰ってくるなんて珍しいですね。あの子たちがはしゃぎすぎてどうしようもないから、もう来ないって言ってませんでした?」
「そうだな、そのつもりだったんだが」
あえて言葉尻を濁して彼は窓へと一瞥をくれた。ここのところは雨続きだったが、今日は抜けるような青空が広がっている。眺めているだけでも気持ちのよい天気だ。彼女がいるのがベッドの上でなければ、彼の心ももっと穏やかだったかもしれない。
「心配してくださってるんですか?」
と、くすりと笑う彼女の声が聞こえた。彼は横目で彼女の横顔を見下ろし、何と答えるべきか思案する。その笑い方に記憶のどこかを刺激されたようで落ち着かなかった。すると彼の返答がないのもかまわず、彼女は言葉を続ける。
「すみません。あの人が慌ててたものだから、叔父様の耳にも入ったのでしょう? 当主になって軽く十年は経つというのに、すぐ叔父様を頼ろうとするんですから」
呆れた声でそう言った彼女は、軽くため息を吐きながら肩をすくめた。その点については彼としても思うところがあるが、今は何も言わないでおく。
その代わり手にしていたかごを脇の台へと乗せ、彼は眉尻を下げた。
「しかしその様子を見るとあの慌て方も納得がいくな。ずいぶんとやつれたんじゃないか?」
「これは……病気とは関係ありません。この間子どもたちが騒ぎを起こしたので……その心労ですよ」
「やはり病気なのか?」
間髪入れずに問いかけると、彼女ははっとしたように眼を見開いた。思わず口にしてしまったと、そう言わんばかりの表情だった。
相変わらず詰めが甘いなと彼は胸中で苦笑する。親しい者には特にそうだ。彼女は毛布の端を握りながらほんの少し視線を落とした。
「治らないってことはないそうです。ただ時間がかかるみたいで……」
「本当にか?」
言葉を選ぶように口にした彼女へと、彼は声音を変えることなく聞き返した。予感があったわけでもないが、この様子を見ている限りではただの病気のようには思えない。
かといって子どもたちを遠ざけているわけでもないようだから、感染するようなものでもないのだろう。
人間の病は実に厄介だなと独りごち、彼は唇を引き結んだ。すると彼女が困ったように微笑むのが視界の端に映る。
「……テキア叔父様って鋭いですよね。でも治らないことはない、というのは本当です。ただこの星の医療ではどうにもならないそうで、どうしようかと考えているところなんです。医学が進んでいるとなるとかなり遠い星ですし、子どもたちのこともありますし。あ、でもすぐに命がどうのこうのというものではないんですよ?」
だから大丈夫ですと付言した彼女に、彼は何と声をかけていいかわからなかった。寿命というものが存在するのが人間だ。なんてことはない病で命の危険にさらされることも稀ではない。こんな日がいずれ訪れることを、なんとはなしに予期はしていた。
しかしこのような事態が実際に起きた時、“近しい者”がどう反応するのかという知識が彼には欠けていた。いくら人間たちの間で生きてきたとはいえ、これだけ長く関わってきた者はいない。
眉根を寄せた彼が押し黙ると、彼女は再び笑い声を漏らした。そして腰へと落ちかけていた毛布を胸元へと引き上げ、小首を傾げる。その波打つ長い金髪がベッドの上を撫でた。
「ただ私はここを離れないつもりです。ここで生きるつもりです。だから叔父様、もういいんです」
静かな室内にその声は染み入るように広がった。彼が閉口している横で、彼女は微睡むように瞳を細める。
彼女の母もこんな風に微笑んでいたと、本来のテキアであれば懐かしく思うだろう姿だった。しかし今の彼にそれがない。
「私の傍にいなくても、もういいんです。叔父様の力を必要としている人はもっと他にもいるでしょう? ここに縛られる必要はないと思うんです」
「――ゼジッテリカ」
「それともそんなに私たちは頼りなく見えますか? 叔父様」
彼女の青い瞳が真っ直ぐ彼を見据えた。息を詰めた彼は視線を彷徨わせ、それからわずかに肩をすくめる。
彼女の言わんとすることが理解できない彼ではない。しかし、にわかには信じがたかった。それでも心の奥底に沈めていた何か重たい物が、突如として消え失せたかのような感覚があった。
彼は静かに頷くと、口の端を上げる。
「気づいていたんだな。……いつからだ?」
わかっていたのだと、知られていたのだと自覚した途端に体が軽くなった。恐れていたことであるはずなのに、今となっては動揺もしなかった。
望んでいたことなのかもしれない。そうであればいいと、心のどこかで思っていたのかもしれない。そう自覚し彼が微苦笑を浮かべると、彼女はまた少しだけ頭を傾けた。その瞳がかすかに揺らぐ。
「いつから、でしょうか。私にもよくわかりません。ある時ふと“彼女”の言葉を振り返ってみたんです。その時ぴんときたんです、ああそうかって」
「彼女?」
「ええ、彼女です」
ふふっと声を漏らしてゼジッテリカは笑った。突如飛び出してきたそれに聞き返しながらも、彼にもそれが誰を指すのかすぐにわかった。
今のゼジッテリカを形作る上で欠かすことのできない存在だ。だがその存在をよく知る者は、もうこの屋敷にはこの二人しかいない。
「実は先日のお手紙で、隣の星から婚礼に呼ばれているんですよね。ただ私はこんな状態ですし、あの人は忙しいから行けるかどうかわからなくて。それで叔父様に行ってもらおうと思ってるんです。叔父様ならあちらも納得してくださるでしょう? それに別の星であれば、何が起きてもおかしくないですよね」
彼が過去を思い返していると、ゼジッテリカはそう続けて悪戯っぽく笑った。どことなく“彼女”を思わせるその顔を見て、彼も思わず笑い声を漏らす。
いつの間にこんなに悪知恵が働くようになったのか。実に純朴な現当主を考えるとよい組み合わせなのかもしれないが、やや複雑な気持ちにはなる。
「上手くやってくださいね、叔父様」
「ああ、心配するな。それは得意分野だからな」
逃げることも隠れることも偽ることもずっとやってきた。ファラールへ来る以前からも続けてきた。魔族の企みを水面下で潰すとはそういうことだ。
もちろん長年傍にいた“姪”にこう言われるのは引っかかるが、今は目を瞑っておこうと彼は言葉を飲み込んだ。するとゼジッテリカは少しだけ瞳を伏せ、ついで肩を落とす。
「本当はもっと力になれたら……と思ったんですが、これくらいしか方法が見つからなくて。ごめんなさい、叔父様」
「いや、十分だ」
「私、叔父様にはとても感謝してるんですよ? 叔父様がいなかったら今の私はいないも同然です。あの人と出会うこともなかったし、こんな風に家族に囲まれることもありませんでした」
そう続けたゼジッテリカは毛布の上で手の甲をそっと撫でた。まぶたは伏せられたものの、その横顔は穏やかで。やつれてさえいなければ重たい現状を忘れてしまいそうな様子だった。
何とも言い難い思いを押し込めて、彼は静かに息を吐き出す。
「本当の叔父でなくてもか?」
「いえ、あなたは確かに私の叔父でした」
彼女の双眸が再び彼を真正面から捉えた。偽るつもりはないと言わんばかりの真っ直ぐな視線に、彼は相槌だけを返す。
そうだ、ゼジッテリカは“彼女”も受け入れたのだ。あの時でさえそうなのだから、大人になった今ならなおのこと動じないだろう。彼がもう一度首を縦に振ると、彼女は瞳を細めて天井を見上げる。
「あなたは確かに私の家族でした。ファミィール家の一員でした」
「……そうか」
「でももういいんです、大丈夫です。私にはあの人と、子どもたちがいますから。私はもう一人ではありませんから」
そう告げた後、彼女は弾かれたように右手を見やった。まるで何かを思い出したかのようだった。
彼が怪訝に思って首を捻れば、彼女はゆっくりとベッドから足を下ろし、脇の棚へと手を伸ばす。揺れた金糸が陽光できらめいた。
「ゼジッテリカ?」
「忘れるところでした。叔父様に渡したい物があるんです」
さほど大きくもない棚の引き出しから、彼女は素朴な箱を取り出した。控えめな金属音が聞こえたところからすると、そこに入っているのは何らかの飾りか、それとも別の何かか。
そう考えた途端、彼の中で何かが引っかかった。彼女が両腕で抱えた箱の中から確かな『気』を感じる。わずかではあるが研ぎ澄まされた気配がそこからこぼれ落ちている。
ある種の可能性を探って彼が息を呑むと、そのまま立ち上がった彼女はゆっくり箱をベッドの上に乗せた。白いシーツの上に置かれた木箱は、ずいぶんと場違いな印象を与える。
「もらった物なんですけど」
開かれた箱の中に入っていたのは奇妙な短剣だった。ゼジッテリカの手には丁度良いだろうが、実用向きではなさそうな華奢な物だ。
鞘には軽い紋様が彫り込まれていて、それが光を反射して鈍く輝いている。一見すると装飾品のような剣。だがそうではないことは纏う気配から明らかだった。
「これを叔父様に持っていて欲しくて」
「――この剣は?」
「ええ、お察しの通り“彼女”がくれた物です」
箱から剣を取り出し、ゼジッテリカはそれを彼へと差し出した。戸惑いながらも彼は受け取る。実際に手に取ってみれば、それがただの剣でないことは明白だった。
見た目以上に軽い。それに、この肌に吸い付くような感触。“精神”を込めることのできる特殊な金属で作られたものに違いなかった。何か仕掛けもあるようだが、“彼女”のことだから防御のための技あたりだろうか?
「既に私は十分守ってもらいました。それに、もう会えないでしょうから」
「私なら会えると?」
「可能性はありますでしょう? でも、別に返して欲しいと頼んでいるわけじゃあないんです。ただ私と彼女が出会った証を誰かに持っていて欲しいだけなんです。単なる我が侭ですね、すみません」
彼が剣を見下ろしていると、空になった箱をゼジッテリカは再びしまった。そして自嘲気味に笑う。
これが定められた時の中を生きる人の思いかと、その言葉を反芻しながら彼は妙に納得した。自分という存在が消えた後のことを、世界に残されるもののことを思うのが、人間なのか。
彼が再び短剣へ視線を落とすと、彼女がベッドに戻る気配がした。か細い腕がもぞもぞと動き、金糸が揺れるのが視界の端に映る。彼はつと顔を上げた。
「ですがどうか……持っていてくださいますか?」
「これが私を守ってくれるとは思えないがな。だが害してくることもないだろう」
断る理由はなかった。彼女がそれを望むのであれば。それでもこの短剣に込められただろう思いを考えると、不思議な気持ちにはなる。すると彼女は耐えきれぬよう悪戯っぽく笑った。
「ふふ、テキア叔父様って――」
「何だ?」
「実は口が悪いですよね。叔父様、私と同じくらい“彼女”のこと好きでしょう?」
尋ねながらも断言するような口ぶりに、彼は思わず片眉を跳ね上げた。『私と同じくらい』がどこに係っているのか曖昧だが、ずいぶんなことを言うようになったものだと思う。
幼い頃を知っているだけになおさらそう感じるのか。彼はごまかすように髪を撫でつけると、口角を上げた。
「似たもの同士だとは思うな。だからお前もこうなったのかと、今は少しだけ後悔している」
「あら、叔父様ったら冗談がきついです。立派なファミィール家の者だってみんな言ってくださいますよ? 叔父様に似て」
このゼジッテリカを見たら“彼女”は何と言うだろうか? そんな疑問が頭をよぎったが、それについては考えないでおくことにした。不安を抱えながらも気丈に言い返してくる様は実に見事なものだ。
もう彼がいなくても大丈夫だろうと、安心するには十分だった。
「――そうだな」
彼は短剣をそっと腰からぶら下げた。黒いコートに隠れてしまうと、軽さのあまりその存在まで忘れてしまいそうだ。誰かに尋ねられたら護身用とでも答えておけばよいだろう。
「お似合いですね」
彼女の嬉しそうな笑い声が室内に広がった。それは子どもの頃を思い起こさせるような無邪気なもので、つい彼の頬も緩む。彼女は強くなった。しかし、その本質は変わらない。
「それでは叔父様、そろそろ」
「ああ」
「すみません、あの人が見舞いに来る時間なんです」
しかしこの時間も終わりだ。別れの時だ。おそらくはこれが最後に交わす言葉となるだろう。
頷いた彼はもう一度短剣に触れてから、ゆくりなく彼女の顔を見下ろした。その青く大きな瞳は、やはり揺れることなく彼を見据えている。
「ありがとうございます、叔父様」
「……あいつにもよろしく言っておいてくれ。あと、子どもたちにもな」
「はい」
微笑んだ彼女をまぶたの裏に焼き付け、彼は踵を返した。それ以上紡ぐべき言葉はなかった。何を口にしても意味はないし、また言わなくとも通じているだろう。
握った取っ手の冷たさに瞳をすがめながら、彼はゆっくり扉を開いた。繰り返された感謝の言葉にも、彼はもう振り返らなかった。
ファラールの舞曲 藍間真珠 @aimapearl
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